<掲示板・議事録>


     
  三河牛久保、牧野氏、一色氏、2


<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/03(Wed) 12:32>

>こたつ城主さま

>一色家の三河守護職は義範が初代だったのですね! しかも一代でわずか
>30年余りで処刑(^^;)。よほど無茶な経営でもした経緯があったのかしら(笑)。

義範は、永享一二(一四四〇)年、幕府謀反の科で処刑されています。義範は、関東管領・上杉憲実と鎌倉公方・足利持氏との戦い(永享の乱)で持氏方の一色時家を匿ったわけです。
持氏は、永享の乱(一四三八年)で朝敵とされますから、その関係からではないかと思います。
このあたりは、味舌政宗さんが詳しそうですね。ご教授願います。

>牧野の「牧」って牧場とは関係ないんでしょうかね(^_^;)。千葉では多くの地名
>や氏名が馬に絡んでますが、「マキ」は「馬城」→「万喜」氏や、雨城(久留里
>城の別名「アマキ」)。ズバリ「馬」を使った地名だと「馬津郷(現在の「松戸」)」、
>馬加氏→「馬加り(現在の「幕張」)」なんてのが多いです。

牧野氏は、最初、田内あるいは田口を称しています。中条郷牧野は、縄文海進の海岸線に当たる段丘崖下の田園地帯にあたりますから田内あるいは田口を称したのではないかと思います。
私見では、麻生田を牧野氏の発祥地と見ていますから、その後、中条郷牧野に移って、牧野を称したのではないかと思います。逆にいえば、中条郷牧野に館を構える前は、さらにその北にいたのではないかと考えられます。

>トカゲ様の所で、麻生田大橋遺跡は縄文系、アイヌ語との関連と書かれて
>ますが、縄文やアイヌ語に詳しくない上、細かい地図を持ってないので
>読み取りがちょっと厳しいです(^_^;)。

書き方が悪くて申し訳ございません。地図は、弊サイトのインデックスの下の方から入れます。地図のVからXが参考になると思います。

>ちなみに系図はこれで正しいでしょうか?(直兼を氏兼の子供に
>しちゃいましたが(^_^;))

直兼は氏兼の子供でいいですよ。で、直兼の甥が時家です。

>知多半島から渥美半島に到る三河湾(知多湾と渥美湾を含んで)の各勢力図
>についても、少し頭に入って来ました。ここんとこゆとりが無くて地図を確認
>できなかったのですが、牛窪城というのは前のお話にあった本多家の小坂井
>にとても近いんですね。

本多の伊奈城は、近くですよ。

>この湾内における海上権は誰が(誰がって言い方も変でしょうが(^_^;))握ってた
>んでしょうね。三河と穂国はこの湾で繋がっているように思えるのですが。

延徳年間(一四八九〜一四九二)に戸田氏が西三河の碧海郡(現在の西尾市あたり)から渥美半島に進出し、田原を本拠と定め、渥美半島を制圧します。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/03(Wed) 18:45>

>ピンクのトカゲさま

あ、なるほど。時家を匿ったから謀反って事なんですね(^_^;)。よほどの指名手配犯だったのですね(笑)。

>持氏は、永享の乱(一四三八年)で朝敵とされますから、

まあ朝敵(時の為政者のためにある言葉ではありますが(^^;))ですね(笑)。持氏は将軍の跡取りしか名乗れない名乗りを自分の子供に名乗らせたので。
ただ永亨の乱の時の将軍は足利義教だったんじゃないかな。何となく落人に対しても執念深く追求しただろうな、って想像が及びます(^^;)。踏絵とでもいうか(笑)。

>このあたりは、味舌政宗さんが詳しそうですね。ご教授願います。

わ〜い、パチパチパチー(^^)。

牧野については、だいたい地名に由来して姓を名乗るパターンが多いので、牧野氏もそうじゃないかな。

>書き方が悪くて申し訳ございません。

いやいや(^_^;)、私の素養が低いって話です。地図は助かります♪

>直兼は氏兼の子供でいいですよ。で、直兼の甥が時家です。

ありがとうございますー☆ミ

>延徳年間(一四八九〜一四九二)に戸田氏が西三河の碧海郡(現在の
>西尾市あたり)から渥美半島に進出し、田原を本拠と定め、渥美半島を
>制圧します。

ありがとうございました(^^)。出て来ました。やはり水軍の拠点でしたね。知多半島の突端の羽豆岬にある羽豆神社は、「日本武尊の東征に水軍として従った但馬連の拠点」と以下のサイトにありました。↓
羽豆崎城:http://www.nakanoprint.co.jp/sun/castle/hazu.html
(「知多半島の風」:http://www.nakanoprint.co.jp/chitanokaze/より)

また南北朝の頃は吉野に行くための南朝の拠点でもあったようです。足利優勢の世に定まり、足利氏の一族一色氏の配下の佐治氏のそのまた陣代の千賀氏(九鬼義隆に攻められて伊予から逃れて来る)が、戸田氏と交替で城を守ったとか。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/04(Thu) 12:00>

>こたつ様
>持氏は将軍の跡取りしか名乗れない名乗りを自分の子供に名乗らせたので。

義久の「義」の字ですか?

牧野成時も一色家時からの偏諱と考えられますね。実際に偏諱であったか否かは別として波多野氏を討つための名目になります。波多野氏を討ったあたりから成時ではなく、号の古白を使うあたり、鍋島直茂(旧名:信生)の先駆をなしています。

>知多半島の突端の羽豆岬にある羽豆神社は、「日本武尊の東征に水軍
>として従った但馬連の拠点」と以下のサイトにありました。

頼朝の父・義朝が殺されるのも知多半島の野間です。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/04(Thu) 19:34>

>ピンクのトカゲさま

>義久の「義」の字ですか?

そうです、そうです(^^)。
そうか、牧野成時。「時」の字が一色家からと考えられますね。

>頼朝の父・義朝が殺されるのも知多半島の野間です。

おお、そんな所で(゚.゚)。
 
     

     
  鍋島化け猫騒動、1


<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/04(Thu) 12:00>

「葉隠れ」については、「化け猫」鍋島藩の成立事情にも関わります。
鍋島信生は、肥前の熊・龍造寺隆信の家臣であったわけです。その龍造寺隆信は、天正一二(一五八四)年、有馬―島津連合軍との戦いで討ち取られます。
天正一二年といえば、秀吉がほぼ天下を手中にし、下克上の時代も終わりを告げています。
肥前は、隆信の死後、子の政信が継ぐわけですが、鍋島信生が遂には、簒奪するわけです。
この簒奪を正当化(隠蔽)するために書かれたのが「鍋島論語」といわれる「葉隠れ」です。
そもそも儒教では、簒奪は、否定されていることですから、「鍋島論語」といっても、儒教の支柱からして変容されているわけです。
また、儒教の優先順位では、「忠」より「孝」なんです。
三国志なんか見ても戦闘中でも父母がなくなったから喪に服すなんていう場面が出てくるのも、儒教においては、「孝」が一番優先されるからです。
「葉隠れ」は、鍋島家への盲従を説いているわけですから、「武士道とは死ぬこと」とは、鍋島家に対して命を惜しまぬことです。
儒教は、「孝」が一番優先されるわけで、「孝」は、親孝行の「孝」です。「忠」は、「孝」の次です。
鍋島家では、主君(=鍋島家)は、家臣にとって親にも等しいものだからとすりかえて「武士道とは死ぬこと」ともってくるわけです。
徳川幕府も、豊臣から権力を簒奪した覇者ではないとの理論付けから朱子学を導入したわけで、鍋島家と事情は、大差ないわけです。
これが、明治政府に受け継がれ、悲惨な結果を招くわけです。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/04(Thu) 19:34>

>ピンクのトカゲさま

鍋島化け猫騒動は、映画でチラと見たのです。怖かったーーー(>O<)!
鍋島家は確かに龍造寺家の家臣ですが、元から龍造寺家には必要な家でした。

龍造寺隆信のスーパーかあちゃん「慶ァ尼」(笑)は龍造寺家の娘で、まず分家の水ヶ江周家に嫁いで隆信を生んだのですが、実家に跡取りが絶えるとまだ二十歳の隆信を擁立。 こんな不安定な状況なので、有力な家臣の鍋島清茂に再嫁するのですが、一説にはその再婚の理由は、清茂の子、直茂がなかなかのヤリ手だったからとか(爆)。

そしてこの婚姻を持ち込んだ時、彼女は清茂に、「奥さん死んだって? エエ娘おるでぇ(^。^)、まあ待っとれや」と持ちかけるだけ持ちかけ、当日の輿入れには、ナント自分が押し掛けていったそうです(笑)。

確かに後から見ると、鍋島が龍造寺を簒奪した事にはなりますがね(^_^;)。それは否定しませんし、そもそも徳川家が豊臣家の家臣の分際で天下を簒奪したのは紛れもない事実なので、これについてはますます否定しません(笑)。

>三国志なんか見ても戦闘中でも父母がなくなったから喪に服す

曹操が父の仇を取るって徐州を攻めてましたっけ。

>これが、明治政府に受け継がれ、悲惨な結果を招くわけです。

山中鹿之助の「我に七難八苦を与えたまえ」も、全くいいように利用されてますしね(^_^;)。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/05(Fri) 12:17>

>こたつさま

>龍造寺隆信のスーパーかあちゃん「慶ァ尼」(笑)は龍造寺家の娘で、
>まず分家の水ヶ江周家に嫁いで隆信を生んだのですが、実家に跡取りが
>絶えるとまだ二十歳の隆信を擁立。
>こんな不安定な状況なので、有力な家臣の鍋島清茂に再嫁するのですが、
>一説にはその再婚の理由は、清茂の子、直茂がなかなかのヤリ手だったからとか(爆)。

その後の龍造寺と鍋島について、簡単に追って見ます。
天正一二(一五八四)年に龍造寺隆信は、討ち死にします。
島津は、討取った隆信の首級を薩摩の礼法にのっとり、丁重に送り返すわけですが、鍋島信生は、主君の首級の受け取りを拒否しています。
信生の「信」は、隆信からの偏諱だと考えられます。
そして、隆信の跡を隆信の子・政家が継ぎます。政家は、凡庸で実質切り盛りをするのは、信生です。
天正一六年の秀吉の関東出兵の要請に対し、信生は、政家は、「生来の病弱の身」を理由に自らが名代となります。この頃、信生は、直茂に改名しています。
隆信の死後すぐに、この改名を行なっていたのであれば、首級の受け取り拒否とあいまって、信生(直茂)が、肥前佐賀を実質的に手中に収めることができたか疑問です。
隆信の死後4年が経っており、ちょうど「ころあい」だったわけです。
二年後の天正十八年、秀吉は、政家が大名の義務である軍役が果たせないことを理由に強制的に隠居させ、政家の子・長法師丸(のちの竜造寺高房)が成人するまで、直茂に藩政を任せます。
この措置の裏に直茂が関わっていたことは容易に想像できます。
そんな直茂に慶長一二(一六〇七)年、思わぬ(?)朗報が入ります。
龍造寺高房切腹の知らせです。高房ときに22歳、とうに成人しています。直茂が政権を高房に譲らぬ抗議でしょう。
しかし、いち早く家臣が気づき、高房は一命を取り留めます。みようによっては、狂言とも取れます。
幕府は、この切腹未遂事件を取り調べ、その結果は、高房に大名たる資格なしとの沙汰を出します。
高房は落胆のあまり死去、父・政家も息子のあとを追うように死去します。
そして、佐賀鍋島藩が成立するわけです。
さてさて、ここからが「化け猫騒動」
化け猫騒動は、龍造寺又一郎に碁の勝負で敗れた鍋島光茂が、又一郎を惨殺。光茂の仕打ちに怒った又一郎の母は、恨みを飲んで自害。代って又一郎の母の愛猫が鍋島家に復習するという筋書き
化け猫騒動には、政家―高房親子の恨みが仮託されていることは容易に想像できます。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/07(Sun) 01:33>

>ピンクのトカゲさま

龍造寺高房って自殺で死んだんだと思ってました。未遂だったのですか(゚.゚)。
今ちょっと調べたら、隆信は三男の家信に「何でも鍋島直茂に相談して決めなさい」と遺言状を残したようですが、そういやこの家信はどうなったんだろ。
あと政家は直茂に龍造寺家の養子入りを薦めて断られた、とも言われてるようですねm(。。)m。
 
     



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