<掲示板・議事録>


     
  鍋島化け猫騒動、2


<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/09(Tue) 12:01>

>こたつ様

>今ちょっと調べたら、隆信は三男の家信に「何でも鍋島直茂に相談して決め
>なさい」と遺言状を残したようですが、そういやこの家信はどうなったんだろ。

家信は、後藤姓に改姓します。家信の「信」は、隆信からの継名でしょうし、政家は、逆に、家信の「家」の字を下につけています。
隆信は自分の後継者は、家信だと思っていた節がありますね。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/10(Wed) 16:46>

>ピンクのトカゲさま

えーーー(゚.゚)、遺言託された龍造寺家信は「後藤」なんちゅう人になっちゃうんですね! 後藤……そういや秀吉時代、九州のキリシタン大名みたいな人にそゆ人が居たような……。

>隆信は自分の後継者は、家信だと思っていた節がありますね。

うーん、だとしたら「直茂に何でも相談しなさい」って意味あいも、ちょっと変わって来るかもしれませんね〜。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/10(Wed) 17:34>

>こたつさま
>えーーー(゚.゚)、遺言託された龍造寺家信は「後藤」なんちゅう人になっ
>ちゃうんですね! 後藤……そういや秀吉時代、九州のキリシタン大名
>みたいな人にそゆ人が居たような……。

家信だけじゃないですよ。家信や政家の兄弟の家種は、江上姓に、隆信の弟の長信の子・家久は、多久姓に、高房の弟の安良は、村田姓に改姓、高房の弟の将監は、朝山家を継いでいるからこれも龍造寺姓じゃない。
高房にはもう一人、主膳正という弟がいますが、彼は、出家し、叡山に入山し、龍安と名乗ります。
龍造寺の『龍』です。彼は寛永一一(一六三四)年、高房の子・伯庵とともに、鍋島に対し版籍奉還の訴えを幕府に提起しています。

>>隆信は自分の後継者は、家信だと思っていた節がありますね。
>うーん、だとしたら「直茂に何でも相談しなさい」って意味あいも、
>ちょっと変わって来るかもしれませんね〜。

天正一二(一五八四)年の有馬・島津との戦いそのものが、負けるはずの戦ですし、隆信自身、天正一二年の戦いで不慮の死を遂げるということは念頭になかったと思いますから、当然、「直茂に何でも相談しなさい」って意味あいは変わります。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/11(Thu) 18:47>

>ピンクのトカゲさま

ふむふむm(。。)m。隆信の子は、政家(龍造寺)、家種(江上武種養子)、家信(後藤貴明養子)の順ですね。
後藤貴明は(うっすらと)思い出しました。貴明の息子に、隆信の弟(は慶ァ尼が嫁いだ水ヶ江龍造寺家に三人ほど残ったようで、その内の一人)の娘を嫁がせた上、自分の子の家信を貴明の養子にしちゃうんでしたね。

政家の子は……高房と安良はわかるんですが、朝山将監と龍安ってのがよくわからない。石井茂賢というのが系図にはありますがコレ?

>龍安
>寛永一一(一六三四)年、高房の子・伯庵とともに、鍋島に対し
>版籍奉還の訴えを幕府に提起しています。

いわゆる化け猫騒動ですよね(゚.゚)。 *ニャニャ〜*
 
     

     
  瀬戸内海、尾道旅行


<あきやまじょせつさま [北海道] 2002/07/04(Thu) 13:16>

今年の夏は尾道に行くかもしれませんので、無事に
行って帰ってこれたら、ホームページに尾道特集を
組みます。
お楽しみに。
やっぱり瀬戸内海はいいです。あったかくて
(←北国の人間らしい意見)



<こたつ城主 [関東] 2002/07/04(Thu) 19:36>

>あきやまじょせつ様

>今年の夏は尾道に行くかもしれませんので、無事に
>行って帰ってこれたら、ホームページに尾道特集を
>組みます。

わ〜、素晴らしい! そうですね〜。瀬戸内海は私も行きたいんですよね〜(^O^)!
帰って来られたら、是非ぜひこちらにもご一報下さいませ。
レポアップされるのを楽しみにしてますね!
 
     

     
  野田城菅沼氏


<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/05(Fri) 12:17>

母の実家の冨永家は、菅沼氏以前の野田城主であったとされています。
証拠はといわれれば、口伝のみで文書はありません。
母の実家は、野田城から豊川を下り放水路との分岐の直ぐ下流の下条橋の右岸の長瀬という集落にあります。70件ほどの集落の3分の1ほどがトミナガ家、母の実家がこの長瀬のトミナガの本宗家といわれています。
母の兄弟は、女ばっかで、末の妹が跡を継ぎ、また、その子も娘二人
母の実家までは自転車で10分ほど、また、その手の話嫌いじゃないということで
母方祖父から口伝を伝えいくことになりました。
神代からはじまるものですが、10分ほどの短いもので野田城主については、
富永家は、菅沼家にのっとられ、城主異化近縁者は、首を撥ねられた。ゆえにそれ以降、首を撥ねられた近縁の子孫は、富から点をとった「冨永」を名乗るようになる。この点の無い「冨永」を「首無の冨永」という大雑把なものです。
正史では、永承二(一五〇五)年、野田城主・富永千若丸が夭逝、後継問題で評定を重ねるが、まとまらず、密かに城を出た今泉四郎兵衛が田峯城主菅沼定忠の三男・定則を迎えたとされる。
菅沼家は、家康の関東移封に従う。慶安元(一六四八)年、定則の後裔定実が故地新城に封ぜられるが、菅沼家の菩提寺に富永家の石塔と位牌がある。石塔と位牌は、菅沼家の家老今泉帯刀が菅沼家の男子が早死にすることから寄進したと伝える。
今泉帯刀は、菅沼家の早死には、富永家の祟りと見て、位牌を寄進したと考えられる。してみると、正史のように平和裏に委譲されたのではなく祖父の言うようにのっとられたと考えてもいいようである。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/07(Sun) 01:33>

>ピンクのトカゲさま

冨永家は、野田菅沼氏に乗っ取られたという口伝が残っているのですね〜。確かに野田菅沼氏は田峯菅沼氏(山家三方衆の一家)から出た家のようですが、「富」の字でその前と後に違いをつけているというのは興味深いし、祟りを恐れて位牌を寄進したというのは、ありそうにも思える話ですね。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/09(Tue) 12:01>

>こたつ様

>冨永家は、野田菅沼氏に乗っ取られたという口伝が残っているのですね〜。
>確かに野田菅沼氏は田峯菅沼氏(山家三方衆の一家)から出た家のよう
>ですが、「富」の字でその前と後に違いをつけているというのは興味深いし、
>祟りを恐れて位牌を寄進したというのは、ありそうにも思える話ですね。

田峯の菅沼定則を迎え入れたのが、今泉四郎兵衛で、位牌を寄進したのが今泉帯刀、ここらあたりも臭いませんか?



<こたつ城主 [関東] 2002/07/10(Wed) 16:46>

>ピンクのトカゲさま

>田峯の菅沼定則を迎え入れたのが、今泉四郎兵衛で、位牌を寄進
>したのが今泉帯刀、ここらあたりも臭いませんか?

両者の今泉にはどういう繋がりがあるのかしら。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/10(Wed) 17:34>

>こたつさま

>両者の今泉にはどういう繋がりがあるのかしら。

今泉の詳しい系図を見たことがないので、何ともいえませんが、今泉氏は、宝飯郡一宮から新城市にかけてかなりいますし、位牌を寄進した今泉帯刀は、菅沼家家老ですから、おそらく帯刀は、四郎兵衛の子孫でしょう。だから、こそ位牌を寄進する必要があったし、今泉家には、事の真相が伝わっていたのではないかと思います。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/11(Thu) 18:47>

>ピンクのトカゲさま

>今泉氏は、宝飯郡一宮から新城市にかけてかなりいますし、

ふむふむ、なるほど。例え直接の子孫で無くても、寄進者の名として「今泉」が残ってるのは事実ですものね。
 
     

     
  信州滋野氏


<しー君さま [関東] 2002/07/06(Sat) 12:30>

はじめまして!この掲示板で質問していいかわからないのですが・・・。もし知っている人がいたら教えてください。
実は、『滋野家』について誰か詳しい人はいませんか?
実は、自分の苗字が『滋野』なんですけど、同じ苗字の人に出会ったことがないんです。親戚に『滋野』っているらしいんですが、その親戚とは住んでいる所も遠くて付き合いもないので・・・。『滋野』という苗字の多い地域はどこなんでしょうか?また『滋野家』とは、今までどのようなことをやってきたのか知っている人がいたら教えてください。お願いします。
また、同じ苗字の人がいたら返事をください。



<さま [関東] 2002/07/06(Sat) 21:58>

>しー君さま

はじめまして。
滋野氏について・・・とのことですが、私は真田一族(滋野氏出身と言われています)のファンですので、それに関連して調べた滋野氏のことを記してみます。
滋野氏自体についてはあまり詳しくなくて申し訳ないのですが・・・

滋野氏は一般的には清和源氏で清和天皇−貞保親王―目安王―善淵王と続き、善淵王が信濃へ下り滋野姓を称したのが始まりとされています。(信州滋野氏三家系図・異説多数あり)
しかし、清和天皇の子に貞保親王がいたことは確かですが、目安王・善淵王に実在を立証する資料は今のところ見つかっていません。

実は清和天皇以前の平安初期初期には滋野を名乗る人物が実在しています。
滋野朝臣貞主は学者・政治家として活躍しており、一族からは天皇の妃も出していますので名族といえると思います。
貞主の子孫の中には「信濃守」や「信濃介」を務めていた人物がいるため、滋野氏(「滋野」を名乗っていないかもしれませんが)は東信州に多いようです。
実際しなの鉄道には「滋野」という駅があります。
信濃の滋野氏は平安時代には海野・望月・祢津(滋野三家)など諸家に分かれ、信濃では確固とした地位を築いていました。
三家のなかでは海野氏が嫡流と言われています。

滋野を名乗っていた人物について私にはこれ以上のことはわかりませんが、平安時代末の源平合戦の頃には海野氏当主・幸広は源(木曽)義仲に従い、幸広の子・幸氏は源頼朝のもとへ人質として赴く義仲の嫡子・清水冠者義高の従者として鎌倉へ同行しました。
義仲が討死したため身の危険を感じた義高が鎌倉を逃亡した際、幸氏は義高がまだ鎌倉内にいるように装い義高のために時間を稼いだと言われています。
しかし間もなく義高が逃亡したことが発覚し、義高は頼朝の追手により武蔵で討たれました。

幸氏は本来であれば処刑されるところを主君・義高への忠義に免じて許され、後に御家人となり「弓の名人」と讃られました。
その後の滋野氏(海野氏?)からは戦国時代に信州・上州で活躍した真田一族が出ています。

清和源氏にしても、古代滋野氏にしても立派な家柄ですね。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/07(Sun) 01:34>

>しー君さま

ようこそ、はじめまして(^^)。管理人です。
滋野氏というと、紫さまが詳しく話して下さってますが、私もやはり真っ先に真田を思い出してしまう人間の一人です(^^ゞ。

信州は諏訪氏が大祝として古くから神事を司り、これが鎌倉以降の武士の世に、領土分配上で重要な意味があったようで、滋野氏も諏訪氏の数多い一族の一つとして(どういう経過でそうなったのかは知りません(^_^;))根を張っていたようです。
だから「多いとしたら信州では?」と思ってしまうのですが、関東にお住まいのようですね。遠いご親戚は信州という事ではないのでしょうか?


>紫さま

滋野氏について、ありがとうございました(^^)。
清和天皇より三代で、もう信濃にやって来ていたのですね! ふる〜〜〜〜い! 驚きました。「三代のち」に確証が無くても、「つまりすごく古いんだな(^^;)」とは思いました。

あと海野氏は源平合戦の頃、木曽義仲親子に親子してついていたのですね!
確かにこの辺りのストーリーで、人質に出された義高が鎌倉から脱出し、それに気付いた頼朝が後を追わせて討ち果たす段が有名ですが、思えばこの幼い人質が、敵地から人目をしのいで遠い祖国に逃亡を開始するだけでも大変な事ですものね。庇う従者が居なければとても成り立ちません。それが海野氏だったとは……。

>幸氏は本来であれば処刑されるところを主君・義高への忠義に
>免じて許され、後に御家人となり「弓の名人」と讃られました。

義高はむろん哀れですけど、何かこう聞いてホッとしてしまう私です(^_^;)。
 
     



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