<掲示板・議事録>


     
  城主のたわごと6月


<梵天丸さま [関東] 2002/06/19(Wed) 13:43>

たわごと早速拝見させていただきました。
あの釜飯くん6連射、おまけのもう一つ、いいですねぇ。
読んでて、何故あのお店で買わなかったかもよくわかりました(^^)
「真田の太鼓」これも、レポートを読めば読むほど、食べたくなってくるのですが、今度行ったら、ぜひぜひゲットしたいです♪
こうしてまた、リベンジしなければいけない地が増えていくのです(^_^;)
↑お菓子のためだけなのか?!(笑)



<こたつ城主 [関東] 2002/06/19(Wed) 19:50>

題名:「城主のたわごと」更新(^O^)!

↑いたしました。詳しくは「今週のご挨拶とお知らせ」を。



<こたつ城主 [関東] 2002/06/19(Wed) 19:50>

>梵天丸さま

たわごと、いつもありがとうございます〜〜〜! 昨日はサッカー関連の番組とか見ながらトロトロやってたら、アップするのが遅くなっちゃいました(^^ゞ。ごめんなさい。
あーー! でも、かまめしクン見て貰えて嬉しいですーーーー(≧▽≦)!

>読んでて、何故あのお店で買わなかったかもよくわかりました(^^)

お金がー、お金がー(TOT)(爆)。

>↑お菓子のためだけなのか?!(笑)

いやいや、「真田の太鼓」は是非ぜひゲットして下さいませ! そんなにスグ悪くなるものでもないので、たくさん買うのが秘訣ですぞーーー!(←完全に回し者(^^;))
 
     

     
  三河牛久保、牧野氏、一色氏、1


<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/06/26(Wed) 12:37>

当方、越後長岡城主・牧野候が家康の関東移封前に領主をしていた牛久保に住んでいます。
武田(これは禁句?)の軍師・山本勘助も牛久保ゆかりの武将です。



<こたつ城主 [関東] 2002/06/26(Wed) 21:17>

>ピンクのトカゲさま

えと、東三河と牧野氏についてわりと詳しく書いてあるサイトを発見しました。今、私も試合見ながら書いてるんで全ては読んでませんが、好感の持てるサイトですね。↓
東三河の戦国時代:
http://www.d9.dion.ne.jp/~hongo/013senngoku-makino.htm#■戦国期の三河牧野氏

>武田(これは禁句?)の軍師・山本勘助も牛久保ゆかりの武将です。

いや、全然禁句じゃありませんよ。山本勘助は子供の頃から思い入れのある人です(^^)。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/06/27(Thu) 11:56>

こたつ城主さん
>東三河と牧野氏についてわりと詳しく書いてあるサイトを発見しました。
おっとりしてるのは、ちょっとどうかと思います。お祭りバカ沢山入るし
手筒煙火なんて普通じゃないしね。で、手筒なんて戦国じゃ重火器ですよね。
うちの隣町の中条(旧鍛冶村)なんかは、鉄砲の火薬の調合の研究のために家康が許可したって言い伝えありますし
でも、不思議なのは、家康のお膝元の西三河岡崎には、手筒煙火がない。
また、三河百矢場って有事のために百姓町人を問わず、弓の携帯を許したって家康名義の許可状があるんですが、これも西三河岡崎にはない。
家康の直参なんかも三葉葵の本家の本多は、伊奈(宝飯郡小坂井町伊奈)だし、大久保も田原(渥美郡田原町大久保)です。榊原、岩瀬なんていうのは元は伊勢ですが、戦国期に東三河に入国します。
牧野氏については、大島内科クリニック院長の大島信夫さんが「越後長岡と東三河」のタイトルで東日新聞に連載しています。
大島院長の「越後長岡と東三河」のサイト↓
http://www02.so-net.ne.jp/~oshimamd/nagaoka.html



<こたつ城主 [関東] 2002/06/27(Thu) 19:53>

>ピンクのトカゲさま

牧野氏のHP、ありがとうございました(^O^)! 昨日提示したトコ、今日は読めました。トカゲ様とは逆に土地鑑に疎く、三河、遠江、駿河の境界も曖昧な私でしたが、東三河の豪族……特に牧野氏については「ふむー、なるほど」と思って読みました。
よく家康の幼少期、今川や織田に挟まれた苦労話を聞くものですが、牧野氏が天下でも取ったら、同じように「徳川(松平)氏にイジメられた」と伝えられたんだな、などとしみじみ思いました(笑)。

ところで鉄砲の産地や弓の携帯が許されたのが東で、西の家康の地元がそうじゃないって話、なかなか興味深い視点ですね。家康の謎っぽい所は、身内にやたらと厳しい……というか、むしろ積極的に不利な取り決めをする所だと思えるもので。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/06/27(Thu) 21:22>

>こたつさま

>牧野氏のHP、ありがとうございました(^O^)! 昨日提示したトコ、今日は
>読めました。トカゲ様とは逆に土地鑑に疎く、三河、遠江、駿河の境界も
>曖昧な私でしたが、東三河の豪族……特に牧野氏については「ふむー、
>なるほど」と思って読みました。

牧野氏(特に出自)については、弊サイト第三話にも書いてありますよ。

>よく家康の幼少期、今川や織田に挟まれた苦労話を聞くものですが、
>牧野氏が天下でも取ったら、同じように「徳川(松平)氏にイジメられた」
>と伝えられたんだな、などとしみじみ思いました(笑)。

天下取る条件は、やはり源氏の血筋、牧野氏は、平家だから、一色時家(時家は、一色城主、家臣の波多野全慶に討たれる。全慶を牧野成時(古白)が討ち、一式城に入る)あたりの系図を盗んで、波多野氏は、大悪人だってやるんじゃないかな?

>ところで鉄砲の産地や弓の携帯が許されたのが東で、西の家康の地元が
>そうじゃないって話、なかなか興味深い視点ですね。家康の謎っぽい所は、
>身内にやたらと厳しい……というか、むしろ積極的に不利な取り決めをする
>所だと思えるもので。

っていうより腹心のほとんどが、東三河と遠州(井伊家)なんですよ。謎は益々深まります。



<こたつ城主 [関東] 2002/06/28(Fri) 18:51>

>ピンクのトカゲさま

牧野氏は一色氏の旧臣だったようですね。一色氏がやはりその家来の波多野全慶に討たれたので、敵討ちって事でしょうかね? 波多野氏を討って領地を引き継いだという事ですね。信長を討った光秀を秀吉が討ち返して天下を引き継いだ図と同じですね。
旧臣というより縁戚関係ででもあったのでしょうか。それなら平氏が源氏に鞍替えしても通らなくはないですよね(^_^;)。
源氏でなくては……それも特に源義家系でなくては、というこだわりは、家康の特徴の一つに思えてなりません。前は「単に政治に利用しただけ」と思ってたのですが(まあそれもあるでしょうが(^_^;))。
 
     

     
  <ピンクのトカゲさま [東海] 2002/06/29(Sat) 10:16>

>こたつさま

>牧野氏は一色氏の旧臣だったようですね。一色氏がやはりその家来の
>波多野全慶に討たれたので、敵討ちって事でしょうかね?

建前はそうでしょうね。秀吉なんかも建前そうですから
少し、一色氏と牧野氏について、
一色城主・一色刑部少輔時家は、永享一〇(一四三八)年、上杉憲実に敗れ、鎌倉から三河守護職・一色義範を頼りこの地に逃れ、時家は、翌年に一色城(豊川市牛久保町岸組)を構えます。
時家が一色城を構えた翌年の永享一二(一四四〇)年、今度は、三河守護職・一色義範は、幕府謀反の咎で処刑されます。
代って三河守護職につくのは、細川成之であるが、応仁の乱(一四六七〜一四七七)で東軍に加わり没落し、三河は守護職不在の乱世となります。
そして、応仁の乱が終る文明九(一四七七)年に、一色時家は、波多野全慶に討たれます。
一方、牧野氏は、明徳三=元中九(一三九二)年、南北朝が統一されたにもかかわらず、三河は治まらないため、応永年間(一三九四〜一四二八)に四代将軍足利義持が、讃岐の田内左衛門尉成富を招び寄せ、中条郷牧野(豊川市牧野町)に館を構え、成富の子・成時が、本姓田内を改め牧野氏を名乗ったことに始まるとされています。
そして、牧野成時は明応二(一四九三)年に波多野全慶を討ち、一色城に入城し、二年後の明応四年に一〇代将軍義稙から三河諸氏の旗頭を命ぜられます。
波多野氏については、足利尊氏に従い、宝飯郡の森下(宝飯郡御津町豊沢)を拠点にしていたとされています。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/07/01(Mon) 18:04>

>こたつ城主さま

>牧野氏と一色氏の事、ありがとうございました(^O^)!

どういたしまして

>この時すでに「三河国、吉良庄一色」に所領があるのですが、トカゲ様の話し
>てる「義範」はこの5代後(ヒヒヒ孫)で、三河守護となったのが足利氏が天下
>を取ってからか、その前からの経緯かこの辺りは私も詳しくないです(ちょうど
>味舌さまが来て下さったけど:笑)。

一色義範が、三河守護職に任命されるのは、応永一四〜一五年(一四〇七〜〇八)ごろだといわれています。

>それで時家という人物はこのどっかの枝かしら? 鎌倉に居たんですね(゚.゚)。

一色阿闍梨公深の子が二郎範氏、範氏の子に左京大夫宮内少輔・直氏、右馬頭修理大夫・範光、左馬助・範房といるわけです。
三河守護職に任命される一色義範は、範氏の子の右馬頭修理大夫・範光の曾々孫になるわけです。

一方、時家は、永享一〇(一四三八)年の乱に際し、足利持氏側につき敗れますが、そのとき討ち死にした宮内大輔・直兼の甥とされています。
討ち死にした直兼は、範氏の子の左京大夫宮内少輔・直氏の孫に当たります。

>一色義範が処刑された時、牛窪あたりではすでに基盤を持っていた(国人
>化してた?)のですね。

前回と重複しますが、三河守護職・一色義範は、永享一二(一四四〇)年、幕府謀反の咎で処刑されます。義範が、三河守護職に任命されるのは、上述のように応永一四〜一五年(一四〇七〜〇八)ごろだといわれていますからどうでしょうか?
一色氏は、矢作川下流の幡豆郡一色町を発祥とします。吉良氏は、一色町の東隣の幡豆郡吉良町、今川氏は、幡豆郡の北の西尾市今川を発祥としています。また、細川氏、仁木氏は、ともに矢作川中流域の岡崎市を発祥の地としています。足利氏の氏族は、矢作川流域の西三河を発祥の地としているわけです。
豊川流域の東三河は、律令以前は、穂国と呼ばれ、当時三河と呼ばれていたのは、矢作川流域の現在の西三河です。
西三河は、濃尾平野の東端に位置します。律令時代の穂国と三河国の陸路は、現在でも東名高速、国道一号、名鉄本線が並行して走るように宮路山と観音山に挟まれた陋路しかありません。
そのように考えると、一色氏が高々三〇年そこそこで、東三河の牛久保(当時は常荒(とこさぶ))まで基盤を広げていたかは疑問です。

>牧野氏は讃岐から来た一族だったんですね〜。将軍の声がかりで来た
>ぐらいだから、元は地元の警察官(取り締まり)みたいなもんだったんで
>しょうか。

まず、将軍のお声がかりということに疑問を感じます。
蓋し、田内左衛門尉成富が何ら室町幕府とは、関係ないからです。
田内左衛門尉成富の子を称する牧野成時は、神社の棟札などでその名が確認できますから、応永年間(一三九四〜一四二八)には、実在した人物だと考えられます。
中条郷牧野に興った牧野氏は、波多野氏を討つ前年に一色城を望む瀬木城を築きます。牧野氏は、牧野から瀬木そして牛久保と南下していくわけです。
弊サイト地図V参照してください。
逆に牧野の北の豊川インター付近には、縄文から平安にかけての複合遺跡(麻生田大橋遺跡)があります。
私見では、牧野氏は、この麻生田大橋遺跡に暮らした人の後裔だと考えています(詳細は、拙稿第三話第四章参照してください)。



<こたつ城主 [関東] 2002/07/02(Tue) 20:09>

>ピンクのトカゲさま

一色家の三河守護職は義範が初代だったのですね! しかも一代でわずか30年余りで処刑(^^;)。よほど無茶な経営でもした経緯があったのかしら(笑)。

まず足利泰氏から始まる、一色氏の初代が、↓

泰氏(足利)┬家氏(斯波)
       ├義顕(渋川)
       ├頼茂(石塔)
       ├公深(一色)
       └頼氏(足利)−家時−貞氏−尊氏−義詮−義満−義持−義量

こうですね。尊氏から数えて四代目の義持には、目が離せない地域なので、介入権を行使するためなら何でもアリかな(^_^;)、とも思えますが、後年牧野氏の方が、「幕府のお墨付き」を騙って勃興した可能性の方が想像しやすいかも(笑)。

牧野の「牧」って牧場とは関係ないんでしょうかね(^_^;)。千葉では多くの地名や氏名が馬に絡んでますが、「マキ」は「馬城」→「万喜」氏や、雨城(久留里城の別名「アマキ」)。ズバリ「馬」を使った地名だと「馬津郷(現在の「松戸」)」、馬加氏→「馬加り(現在の「幕張」)」なんてのが多いです。

トカゲ様の所で、麻生田大橋遺跡は縄文系、アイヌ語との関連と書かれてますが、縄文やアイヌ語に詳しくない上、細かい地図を持ってないので読み取りがちょっと厳しいです(^_^;)。

一色時家の出自について、詳しいご説明ありがとうございました☆ミ
トカゲ様のお話に沿って、公深から始まる一色氏の系図を書いてみましょう(^^)。

公深−範氏┬範光−詮範−満範―――┬持範−(三代)――┬藤長
        ├直氏−氏兼−直兼┬〇 └義範−義直−義春 └秀勝−崇伝
        └範房      └時家

このように一色氏は、戦国時代には一色藤長を出し、天海僧正に並んで家康を補佐した金地院崇伝をも出している家系ですね(^^)。
また時家の叔父さんの直兼は、永亨の乱で持氏に味方していたのですね。その関係で時家は鎌倉から落ち延びて来たのかしら。何かだんだん繋がって来ました(^^)。ちなみに系図はこれで正しいでしょうか?(直兼を氏兼の子供にしちゃいましたが(^_^;))

知多半島から渥美半島に到る三河湾(知多湾と渥美湾を含んで)の各勢力図についても、少し頭に入って来ました。ここんとこゆとりが無くて地図を確認できなかったのですが、牛窪城というのは前のお話にあった本多家の小坂井にとても近いんですね。

この湾内における海上権は誰が(誰がって言い方も変でしょうが(^_^;))握ってたんでしょうね。三河と穂国はこの湾で繋がっているように思えるのですが。
 
     



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