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<上杉影虎さま
[関東] 2002/06/03(Mon) 20:28>
皆さん、こんばんは。
週末は非常に天気が良かったですが如何お過ごしに為られましたか?
それがしはというと日曜日は天気も良かったので予てから関心のあった武州松山城攻めをして来ました。
うちの屋敷からは西武線、東武線を乗り継いで東松山驛で下車しました。そして徒歩20分で川の向こうに小高い山が見えます。此れが城ですが、なるほど遺構は見事に残っていて謙信公、北條、武田らの争奪戦の的となった名城というに相応しい威容を彷彿とさせるものでした。
山の標高はさほどは高くなく丘と云った方がいいかも知れません。しかし深い空堀、険しい崖などは相当気をつけないと危険だと思いました。
とにかく此処は見て面白い城でありました。
さて、下城すると吉見百穴があり、ここもなかなか面白いものでした。
付近には土産物屋も多く、埴輪などを売っていました。
次に行ったのは源範頼屋敷址でした。吉見百穴からひたすら歩き、吉見観音という寺にたどり着いたのでついでに境内を見学して門前の茶屋で冷汁うどんという、味噌仕立ての汁のつけうどんを食べました。
ここで女将さんに屋敷址の場所を尋ね、云われた通りに行き、たどり着きました。
ここは現在真言宗智山派の岩殿山息障院というお寺の境内になっております。
しかし、その周りは空堀(あるいは水堀のあとか?)で巡らされ、ここが屋敷址だったことを物語っているようでした。
ここまで来たのはいいが、バスの便が非常に悪いし、最寄のバス停までひたすら歩き、途中のスーパーで顔と手を洗って麦汁を買って飲みました。此れが実に美味い!!
という訳で風流な一日を過ごしました。
<こたつ城主 [関東]
2002/06/04(Tue) 18:13>
>上杉影虎さま
武州松山城(゚.゚)。初耳(爆)。
あ、でも、地黄八幡さまのサイトに新規アップされてるのを今、発見。
松山城:http://homepage2.nifty.com/zikihatiman/
(埼玉の古城跡:http://homepage2.nifty.com/zikihatiman/より)
「埼玉県比企郡吉見町北吉見」とありますね。前は藪山だったのを草を刈って整備されたとあります。
しかし、「城将の難波田弾正と後北条側の山中主膳の風流歌合戦や、太田三楽斎の軍用犬伝説」ってのは知らなかっただっ! 良さそうな所ですね〜♪
>謙信公、北條、武田らの争奪戦の的となった名城
らしいですね〜! 関東のど真ん中だからだと、地黄八幡さまの所にも書いてありました!
ハニワってのは……古墳なども近くにあるって事でしょうか。
源範頼(頼朝の弟であります)とは……また随分古いですなぁ。
交通の便が悪い所には、そういやここんとこあまり行ってないんですね。車があるからってのもありますが。でもそういう所で歩いたり待ったりした挙句飲むビールってのは……これまた最高なんですよねぇ(^。^)。ああ、今度は飲みたくなってきた。
<上杉影虎さま [関東]
2002/06/04(Tue) 19:32>
こたつ様>
>武州松山城:「埼玉県比企郡吉見町北吉見」とありますね。
> 前は藪山だったのを草を刈って整備されたとあります。
しかし今でもいい加減草ぼうぼうですな。特に夏は虫の飛来すること風の如く、人の血を掠め吸うこと火の如しといった感じであり、虫除けまたは蚊取線香などは必需品ですぞ。
>しかし、「城将の難波田弾正と後北条側の山中主膳の風流歌合戦や、
> 太田三楽斎の軍用犬伝説」ってのは知らなかっただっ!
> 良さそうな所ですね〜♪
正直その辺の話は知りませんでした。ただ単に城の歴史のあらましだけを知っていた程度なので。
後で勉強しておきます。
>>謙信公、北條、武田らの争奪戦の的となった名城
>らしいですね〜! 関東のど真ん中だからだと、地黄八幡さまの所
> にも書いてありました!
それもあるのですが、やはり交通の要衝に当たっていたというのが大きいようですな。
>ハニワってのは……古墳なども近くにあるって事でしょうか。
その通りです。吉見百穴と言って、古墳時代後期に作られた横穴式古墳群が最大の観光名所となっております。
しかし穴の中を見てみると土の壁に夥しい落書きが彫ってありましたな。実に怪しからぬ!!
下手人を見付けたら手討ちにして呉れよう!
>源範頼(頼朝の弟であります)とは……また随分古いですなぁ。
そもそも範頼はこの地に屋敷を構え、その子孫は代々この地に住んで吉見氏、上田氏を称したらしいですな。
ちなみに安芸毛利氏の家臣の吉見氏もここから出ているそうでいつごろかは分りませぬが石見に所領を宛がわれて土着した一族は14代続きました。
戦国時代では津和野城主・吉見正頼(1513〜1588)が有名です。しかしその孫広長の代に毛利氏と共に萩に移ったものの讒言により輝元の追討を受け一族と共に自刃し滅亡してしまいました。
<こたつ城主 [関東]
2002/06/05(Wed) 16:05>
>上杉影虎さま
山城の管理って大変でしょうね。草ぼうぼうと言えば、春日山に行った時、最初の年は綺麗に整備されてたのに、次の年に行ったら凄く荒れてた事が……(^_^;)。その時は台風か何かか、巨木が折れて横たわってたり、春日山神社に降りる階段の手すりがひん曲がってたり(汗)。
夏草はそれこそ、侵略すること火の如しでしょうし(笑)、あと夏場の城山巡りは確かに虫除けスプレー大活躍ですね。雷や夕立もスゴイし。
吉見百穴は探したら出て来ました(^^)。
吉見百穴:http://member.nifty.ne.jp/vega-hoshino/Hyakketsu/
(「さいたまの歴史散歩」:http://member.nifty.ne.jp/vega-hoshino/index.htmlより)
何か古代のアパートって感じですね(゚.゚)。驚いたなぁ、あんなのがあるなんて。ガウディもビックリ。
>しかし穴の中を見てみると土の壁に夥しい落書きが
イカンですな〜!
源範頼は東村山に住んでたのですね(゚.゚)。私は範頼自身をよく知りません。前に作った系図↓
http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu/hyo/itiran/genji.txt
ここに頼朝の兄弟を書いていたので記憶にある限りでして。それが毛利氏に仕えた吉見氏に続いてたとは……。吉見正頼というのは大内義隆の娘婿だったとか聞いてますが、滅亡してしまうんですねぇ。 |
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