|
|
|
|
<紫さま
[関東] 2001/12/16(Sun) 10:35>
>那波氏と由良氏という二大勢力
うちの付近は那波氏の勢力圏だったらしく、学区内のお寺が那波氏のお城だったということを最近知りました。
戦国時代の信州と上州は周囲の武田・上杉・北条(ちょこっと徳川)の草刈場と化していましたから、生き残るのは大変だったでしょうね。
<魔矢さま [関東]
2001/12/17(Mon) 01:46>
>紫さま
学区内のお寺が那波氏のお城だった!?
那波氏はあちこちに城を築いていますが、
それはもしかして伊勢崎市の堀口町ですか。
「那波城址」なら昨日自分のHPに写真をUPしたばかりです。
>こたつ城主殿
里見義俊は新田荘内にも領地を持っていたようですね。
里見氏が建立したと伝わる寺が太田市にありますから
ちょいと偵察に行ってみますよ。
<魔矢さま [関東]
2001/12/17(Mon) 10:19>
こたつ城主殿は松戸在住ですよね。
うちの掲示板に書き込みをしてくれた菜花(はなか)さんの
情報によると、市川・船橋周辺に「里見公園」というのが
あるんですって。ご存知でした?
ただし、これは史跡ではなくて「心霊スポット」らしいです。
ε========\(~0~;/
<地黄八幡さま [関東]
2001/12/17(Mon) 23:02>
こたつ城主さん こんにちは
相互リンクありがとうございました。土曜日は「矢切の渡し」と「野菊の墓」の取材に松戸にいました。初めて乗った「矢切の渡し」に感動しました(笑)。流されてしまい向こう岸につけないと思いましたが、なんと途中から加速装置(エンジン)で加速していきました(笑)。
<魔矢さま [関東]
2001/12/18(Tue) 12:15>
こたつ城主殿 読むも涙、書くも涙の物語です。v(^oT)
【概論:戦国期の新田地方】
建武の新政が崩壊し、南北朝の争乱がエスカレートすると
新田義貞をはじめとする新田一族の主だった武将は全国を
転戦し、足利勢に蹴散らされて離散・消滅してしまいました。
新田荘は足利方についた岩松氏が支配するのですが、岩松氏
は内紛を起こして二家に分裂してしまいます。室町時代後期に
岩松家純が反対勢力を一掃して岩松氏を統一し、金山城を
築いて新田地方に君臨しますが、すでに下剋上の時代となり、
重臣の横瀬氏が政務を独占します。家純の孫の尚純の代には
横瀬氏は横暴を極め、横瀬泰繁によって尚純は隠居させられて
青蓮寺に移り、代って城主となった尚純の子・昌純もまもなく
殺されてしまいます。次の城主となった昌純の弟・氏純も
横瀬氏の圧力を受けて自刃。生き残った氏純の子・守純は
金山城外へ隠棲させられ、横瀬氏の金山城奪取は成功するのです。
横瀬泰繁の子・成繁は姓を「由良」と改めて、金山城主由良氏
という戦国大名の地位を得て、鎌倉時代より続く名門の那波氏と
東上州の覇権を争って幾度となく激突し、最終的には勝利を
収めるわけです。最盛期には伊勢崎、太田、桐生、館林、足利まで
勢力圏を拡大しました。
その後は…上杉と北条(武田はすでに没落)という強大な相手に
翻弄されて、成繁の子・国繁の代で金山城を開城して北条の軍門に
下ります。小田原の役では北条方として小田原城に篭城しますが、
北条氏降伏後は前田利家のとりなしで家名断絶は免れて、常陸国
牛久へわずか五千石余で移封されて、由良氏は大名の地位を失って
しまうのでありました。国繁の子・貞繁には嫡子がおらず、
由良氏宗家は結局滅びてしまうのでありました。
その後、徳川幕府は由良氏血縁の者に1000石でお家を再興させ、
高家として存続させたといいます。
一方、由良氏によって金山城から放り出された岩松守純は、
関東に入った徳川家康に謁見し、新田氏の末裔ということで
家臣として拾ってもらうことができました。岩松氏はかつて
支配した旧新田荘内に120石の領地を与えられて明治維新を
迎えます。(めでたしめでたしかな?)(^_^;;; |
|
|
|
|
|