<掲示板・議事録>

出雲の阿国は忍者だった? 2

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2001/08/16(Thu) 18:00>

>私が神社で舞を見たのは出雲大社ですね〜

出雲といえば阿国さんですもんね。
きっとすばらしい舞だったんでしょうねぇ・・・。
(前にも書いちゃったかもしんないけど)出雲に行ったとき、阿
国さんのお墓に参りました。
ぽつんと建っていたのですが、結構な数の参拝者がおられるよう
で、供えてあるものは、真新しいものばかり。
踊りをされてる方には、憧れの方なんだろうなぁと思いました。

「布忍神社」は、「ぬのせじんじゃ」と読みます。
多分、舞は神社とは関係ないでしょうね(^-^;;
祭神はスサノオ命なんだけど、スサノオ命を題材とした舞は・・
・ありそうでなさそうですね。
あ、でも、「大蛇退治の舞」があったら、見てみたいかも!!
(ただし、多分に中国チックになりそう)



<守天働児さま [東海] 2001/08/16(Thu) 21:39>

>のりちゃんさま
昔、「敦盛」の舞いを冗談半分で習ったのですが、
表情を変えずに出来るだけゆっくり、
簡単な基本ステップを押さえれば、結構、形になるんですよ。
日本の踊りなんて、そんなモノなんですよね。
最近、サルサを踊ろうとしているんだけれど、リズム感のないこの身にとって、ほとんど盆踊りに近いです。



<こたつ城主 [関東] 2001/08/17(Fri) 19:10>

>のりちゃん様

出雲大社で見た舞は、男の人のでした(^_^;)。音楽がエライ軽快で、ぜんぜん重々しくなかった。面白かったですよ。誰も見てなかったけど(爆)。

阿国が舞を踊りながら諸国を流浪し、何らかの情報を何処ぞに持ち込む……みたいな設定のドラマを見た事がありました(^_^;)。能の世阿弥などは、楠木正成の甥にあたり、伊賀忍者の家系も引くとかで、スパイだとかそうでないとか……。松尾芭蕉もよく隠密説が出ますしね。

阿国は生涯独身だったので幾らでも憶測できますが、当時から舞で成り立つのには、相当な修業が必要だったんじゃないかな、なんて私は思いますけどね。お墓参りは残念ながらしてないんですよ(^_^;)。今でも演技家たちのお参りがあるとか聞きましたが。

布忍神社の舞は、神社と関係なく……そうでしょうね(^_^;)。今って舞を踊るなんて人自体が珍しかったりして。「大蛇退治の舞」ってのがあるんですか? 私もそれは見たいですね(^^)。



<こたつ城主 [関東] 2001/08/17(Fri) 19:13>

>守天働児さま

「敦盛」って、習わなくても舞えるんですね(゚.゚)! 日本の踊りは下半身で持ちこたえる物が多いですね。前、雅楽の演奏を聞きに行った時、踊りを見て「太極拳に似てる」と思いました。バレエとは全く違いますねぇ。サルサ……どっちに似てるだろう。
 
     

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2001/08/19(Sun) 11:09>

>阿国が舞を踊りながら諸国を流浪し、何らかの情報を何処ぞに持ち込む

高校時代に、「猿飛佐助」というお芝居をしたのです。
「出雲の阿国」は、「踊りを踊りながら春をひさぎ」「武将達の
情報をひきだし」「忍者に情報を流す」「水のように生きていく」
女性という風に脚本に描かれていて、
どうしても、そのイメージをひきずっています。
芸を売る人間ってのは、うまくすれば、かなり上層部に近づけた
のでしょうか?

「大蛇の舞」は、私のでっちあげです(^-^;;
あったら、楽しそうだなぁ・・・って、ふと思っただけなんです。
どちらかというと、しんなりした踊りよりも、めりはりのある、
力強い踊りが好みなんです(^。^)



<さま [関東] 2001/08/19(Sun) 21:52>

出雲阿国は「歩き巫女」だったという伝承があります。
「歩き巫女」というのは祈祷や占いやまじない、時には身を売ったりしながら諸国をまわり、情報収集をする女性のことです。一種の女忍者(くの一というのは最近の造語だそうです)であったと思われます。
一番有名な武田の「歩き巫女」は、武田信玄が配下の望月氏の未亡人・千代女に命じて組織・育成させたものです。
他にも色々な諜報組織を持っていた武田信玄は、甲斐にいながら諸国の情報に通じていたので「足長坊主」と呼ばれていたそうです。

忍術と芸能は古代から深い繋がりがあったようで、日本で初めて忍び(志能便)を使ったと言われているのは聖徳太子ですが、その配下の秦河勝は能の祖と言われていますし、こたつ城主さまが書かれたように世阿弥は伊賀服部氏の出身です。
私見ですが、中世の芸人は定住せずに諸国をまわることが多く、病気や怪我をした時のための薬草の知識や身を守るための武術を身につけて行き、それが「忍び」の基礎になったのではないでしょうか。
忍びが諜報活動を行う時によく化ける山伏や放下師など流浪する民なので、よそ者が入ってきても不思議に思われなかったようですが、時代劇を見ている今の人間から見ると充分アヤシイですよね。(笑)



<こたつ城主 [関東] 2001/08/20(Mon) 15:39>

>のりちゃん様

そういや前も、「猿飛佐助」の話聞きましたね。そうか、のりちゃんは演劇部だったんですものね!(やっと繋がった(^^))

阿国は(ちょうど紫さまも書かれてますが)、どう言うんでしょ……そう、やはり神事にまつわる「修業」の領域にいた人だと私は思っています。念仏踊りも、恐らく元はこれに似た雰囲気があった気がします。
これは今でも出雲あたりでは何処となく「当然の義務」って感じがそこはかとなく残ってる感じがして、勧進して歩くのは並大抵のことではないし、命懸けとまで言うと大袈裟でしょうが、同じ春をひさぐにしても、そんなに快楽的なムードじゃない気がします。

後に演劇や文学の世界などで、若干「人間として女性として、人生を自由に謳歌して」みたく使われた感じがしますが、ちょ〜っと違うかな、とは感じてしまいます(^_^;)。
ただ、そう考えると当然、情報を売り渡すなんてのも命懸けの事なので、人格的な素養としては成立すると思いますが。

>芸を売る人間ってのは、うまくすれば、かなり上層部に近づけた
>のでしょうか?

ん〜。念力と言うか、神通力次第とでも言いますか。修験者とか易者とか皆、基本はそれだったでしょうから(今の時代に上手くこれを説明する手段が無いですが(^_^;))

「大蛇の舞」でっちあげ、大いに結構ですよ(^^)。こんな舞や祭りがあったらいいなぁ、という話、大歓迎です。私も武道系の力強い踊りは好きですし、大蛇を演じる様は想像するだけで楽しそう!



<こたつ城主 [関東] 2001/08/20(Mon) 15:47>

>紫さま

紫さまは忍びの話にお詳しいですね(^^)。「くの一」は造語だったんですね!
出雲には「鉢屋衆」という集団がいて、尼子経久が富田城から追われ、これを取り戻す時、この鉢屋一党が毎年正月、太鼓や鼓、笛を吹いて城内に入城する習わしがあるので、これに紛れ込んで城を取り戻した、と言われています。

この鉢屋という一団は、元は平将門の部下だったとかで、鉢を叩き、念仏を唱えたり茶筅を売ったりして河原などに住み、全国に仲間が居たそうです。出雲大社は尼子氏の本拠月山富田城からは遠いですし、阿国が鉢屋と関係があったかは全くわからないんですが(^_^;)、出雲大社の勧進と言っても、いきなり生国を出て、途中にまるでツテが無ければ行き倒れてしまうので、私は何となくこのイメージを頼りにしています。

>一番有名な武田の「歩き巫女」は、武田信玄が配下の望月氏の
>未亡人・千代女に命じて組織・育成させたものです。

信玄は元からあった忍びの集団にせよ、それを独自の支配体制に組み込んだ点、特殊な武将に思えますね(^^)。

忍術と芸能は必然的に繋がったのでしょうね。聖徳太子も忍びを……。能の祖、秦氏ですか〜。世阿弥にせよ、忍びの仕事がまずあって、それを誤魔化すために能や踊りがあったと勘違いしそうなぐらいですよね(^_^;)。仰せの通り、諸国を廻る過程で身に付けた知識も当然あるでしょうし、あとはやはりネットワーク力だと思います。

>時代劇を見ている今の人間から見ると充分アヤシイですよね。(笑)

そうなんですよ(^_^;)。いわゆる「庶民」って人達が、みんな江戸時代の農民みたいで、忍者とか山伏や神楽師だけが、物凄く目立つ人って感じに演出しますよね。
 
     

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2001/08/21(Tue) 14:22>

>神通力次第とでも言いますか。

あはは。大河ドラマ「信長」の、平幹二郎さんの役柄を思い出し
てしまいました。(話題は、廻る)
確かに、それこそ、弓削道鏡や、ロシアのラスプーチンなど、ト
ップは、身近に神通力を持ち合わせた人物を置いてますね。
現代でも、トップに行けばいくほど、占い師に相談したりすると
言うし・・・。アメリカなんかでは、トップはほとんど、フリー
メイソンだなんて噂もあるし。

トップであることは、人間業ではないのかも知れません。

阿国さんの踊りも、何かそういうパワーのあるものだったのだと
したら・・・。想像が広がりますね(^^)



<こたつ城主 [関東] 2001/08/21(Tue) 16:32>

>のりちゃん様

平幹二朗さんのは、「加納随天」ですね。ああいう人、必ず居たんでしょうね。中世は神通力が軍師の条件だったりしますからね。今となっては、もぉワケわからんですが。

道鏡やラスプーチンはともかく、忍者は出所がデカイ神社の領域だったり修験道と絡んでいたり、何処となく神がかりを感じますよ、やっぱり。本人が何らかの信仰を持って修業してたりしたんじゃないでしょうかね。今のトップが占い師を頼るのはともかく(^_^;)、昔は情報収集が決め手だったので、そういう面もあったんじゃないでしょうかね。

>阿国さんの踊りも、何かそういうパワーのあるものだったのだと
>したら・・・。想像が広がりますね(^^)

そうですね。それが後に歌舞伎になっていた所が、また面白いですしね。



<のりちゃんさま [近畿] 2001/08/22(Wed) 21:28>

>忍者は出所がデカイ神社の領域だったり

知らなかった!!
昔は、神社は村に1つあったでしょうから、大きな神社の領域と
言うことは、大きな村だった、ということなのかも知れませんが、
それだけではないような気がしますね。わくわく(^。^)

しかし、実際のところ、忍者の術って、どんなものだったんでし
ょう。
どうしても、巻物くちに咥えて「それではドロン」をまず、イメ
ージしちゃう(^-^;;



<黒龍斎さま [関東] 2001/08/22(Wed) 23:54>

>こたつ城主さま

>忍者の話し・・・・・
忍者と言えば「伊賀衆」「甲賀衆」「雑賀衆」が有名ですね〜♪
確証はありませんが、「伊賀衆」が徳川吉宗の時代に「お庭番」
として市中の噂話しなど「市井の情報」を吉宗に報告していた
ようです。
ちなみに、「島原の乱」ですが・・・・江戸幕府は〜天草四郎が
篭城する「原城」に数人の忍者を潜入させていますが・・・・・
島原地方の人達が話す「方言」が判らなくて折角の貴重な情報が
聞き取れなくて「手ぶら」にて帰還したようです(爆)。

年配な方を除けば・・・・テレビの影響にて「共通語」が日本の
どこでも通用しますが・・・・当時なら「外国語」に匹敵する〜
「方言」です。外部と内部の人間を見分けるのに有効な判別方法
が「方言」でした。特に「方言による数の数え方」を言わせると
見分けが付いたそうです。

特に内外の人間について選別方法が厳しかったのが「薩摩藩」で
した、「関ヶ原の合戦」でも勇猛果敢な撤退戦を演じており〜〜
「赤備の井伊直政」に重傷を負わせた程の「精兵」で知られた!
「雄藩」です、江戸幕府からも目をつけられております、藩の石
高も「加賀藩」「仙台藩」と並んで高い石高です。
これで、薩摩藩が「長良川治水改修役」に就けられたか〜お分か
りと思います。(前田家・伊達家は江戸城「帝鑑の間」が御座所)
常に江戸幕府からの「隠密」に警戒しており、いつ何時「謀反」
の「嫌疑」を掛けられても不思議では無い「薩摩藩」の防衛策で
す・・・・、江戸に於ける「薩摩藩邸」も外部からの水利を制限
された程〜「警戒」されたそうです。



<志摩の守さま [東海] 2001/08/23(Thu) 13:14>

>のりちゃんさま
>実際のところ、忍者の術って、どんなものだったんでし ょう。

この疑問ってみんな感じるんですよね。
実際にはテレビの中に出てくる様な忍術はなかったでしょうね。でも、非常に希に催眠術的な能力をもった術者(忍者)はいたと言われています。
過去、その流れをくむ人物が一度だけ新聞の取材を受け、個室で待つ記者の眼前に忽然と現れるという術?を見せたそうです。
これなんかは催眠術の一種だろうとある本には書かれてました。
このようにごくまれに存在した術者の能力が忍術として過大に流布されてきた可能性はあるとおもいます。
 
     



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