<掲示板・議事録>


     
  信州、坂城「村上義清の土地」


<まささま [関東] 2001/04/21(Sat) 13:21>

城主のたわごとを見て思い出した事・・・

やはり、坂城の地元では、村上家は忘れられた存在だった。
地元(坂城)の本屋に村上家の本はないですか?と聞いたら・・
村上 春樹の本を渡された・・・

昔は、駅前に、「村上義清・・・・」って看板が合ったりして、
「おお!我が先祖の土地だぁ」と興奮したものでしたが・・・。
役場では、冷たくあしわられたし、良い思い出はなかったなぁ。
『坂城満泉寺』 でも同様の扱いでした。やはり家系図をもって
「われ!誰に口聞いてんじゃ!」とえばってみたかったなぁ・・・



<こたつ城主 [関東] 2001/04/21(Sat) 14:56>

>まさ様

あ! 城主のたわごと、読んで下さったんですね! ありがとうございます(^^)。

>地元(坂城)の本屋に村上家の本はないですか?と聞いたら・・
>村上 春樹の本を渡された・・・

うぐっ(^^;;;;)(冗談になってないと言うか、笑えないッス:涙)。

そうなのよ! 私も10ウン年前、はじめて葛尾城に登った時(熊に遭遇した時ね(^^;;))、麓で「村上義清祭り」ってノボリを発見! この頃、石和の初陣よりは後だったから、お祭りに参加とかはもう免疫出来まくりで(爆)、「いつか村上祭り!」って思ったけど、なぜ思ったその時に参加しなかったのか……。あれは廃止になっちゃったらしい。坂城の町役場でそう言われた(-_-;)。死にたくなったのは、これも原因してるです。
 
     

     
  関西の八幡神社は……


<のりちゃんさま [近畿] 2001/04/22(Sun) 19:00>

いきなり質問なんですが、大阪府は堺市にある、百
舌鳥八幡宮。大阪城の城主が替わるごとに、百舌鳥八幡宮に参拝
する慣わしになっているとのことなんですが、どういった経緯が
あるかご存知の方はいらっしゃいませんか?
歴史に疎い私ですが、大阪城を築城した豊臣秀吉と、千利休の、
愛憎・確執については、聞いたことがあります。
この百舌鳥八幡宮は、千利休の生家・茶道の境地を開いたといわ
れる、南宗寺から、3キロ程度です。
何か関係があるのかなぁ・・・なんて思ったりして。
よろしくご教授ください<(_ _)>



<石野真琴さま [関東] 2001/04/22(Sun) 19:55>

 のりちゃん初めまして、石野真琴と申します。
 百舌鳥八幡宮ですか、ちょっと調べたけど詳細は解りませんでした。
 そこで一般的な話をします、八幡宮は欽明天皇が鎮座させた宇佐八幡宮を根本社とし、朝廷による信仰を中心とし、後に全国的な八幡信仰を集めています。
 これは、後に清和天皇が分祠した石清水八幡宮は諸源氏の氏神となり、やがて全氏の氏神として崇められたとあります。石清水八幡宮より分祠された鶴岡八幡宮の前で、長尾景虎が上杉家の家督相続を行った事は有名です。(長尾家は平氏、上杉家は藤原氏です、源氏に限らず信仰を集めていたと言う証拠です。)
 つまり八幡宮と言う社は、全武人の氏神であり、その地元に分祠された八幡宮があるのであれば、その地を預かる事になる城主ならば当然、参拝せねばならないのではないか、と思われます。
 江戸時代の武士の大半が、源氏を名乗っていますので、源氏の氏神である八幡宮があれば、参拝しない事は不敬と言う事になりましょうか。
 もし、百舌鳥八幡宮が誰の手で、どの八幡宮から分祠されたものか解れば、もう少し詳しい事がわかると思います。
  いずれにしても、武士にとって八幡宮と言う存在は、決して無視出来ない存在なのです。



<のりちゃんさま [近畿] 2001/04/22(Sun) 20:45>

>石野真琴様

ありがとうございます。所伝によれば、神功皇后が三韓征伐の事
終えて、難波にお帰りになった時、この百舌鳥の地に御心を留め
られ、幾万年の跡までもこの処に鎮まりまして、天下泰平万民を
守ろうというご誓願を立てられ、八幡大神の宣託をうけて欽明天
皇の時代に、この地を万代(もず)と称し、ここに神社に創建し
て、お祀りされたと伝えられます。

また、後白河天皇の保元3年には、当社が石清水八幡宮の別宮と
なっていた・・・とあります。

八幡宮が、武士の守り神であること、源氏の氏神であること、は
知っているんですが、ただ、この辺りは、八幡大神である、応神
天皇の時代に栄えた場所で、応神天皇陵をお守りしている誉田八
幡宮や、その他の八幡宮もたくさんあります。
大阪城から、誉田八幡宮の方が、百舌鳥八幡より近いんじゃない
でしょうか。ちなみに、誉田八幡宮の創始も欽明天皇の御代であ
る・・・となっています。

ですから、誉田八幡宮ではなく、百舌鳥八幡宮でなければならな
い理由がちょっと見当たらないかなって思うんです。

誰の手で、どの八幡から分祠されたか・・・。これは、もう、か
なり古い時代の話しになるんだろうと思います。2社とも、欽明
天皇の時代となっておりますが、それが眉唾ものだとしても、か
なり古いものだとは思います。

私の持ってる情報はこれくらいのものですが・・・。どうでしょ
う??千利休と豊臣秀吉の関係に人間模様を感じてしまうので、
何か関係があったらうれしいなぁっていう希望なんですけどね(笑)



<石野真琴さま [関東] 2001/04/22(Sun) 22:04>

 のりちゃん、なるほど・・
 一般的な話しか出来ないので、たぶんこれ以上は詳しくは出来ないのです。残念です。
 一般的に八幡宮に祭られているのは、応神天皇、比売(ひめ)神そして神功皇后の三柱の神様です。その上で石清水八幡宮の分社となっていたと言う事は、清和天皇分祠と言う可能性もあると言う事ですよね。
 源氏にも色々ありますが、もっとも人気の高い源氏は清和源氏ですから、清和天皇ゆかりの地にある八幡宮と言う事で、人気があった。そう言う事ではないでしょうか。
 ちょっと調べましたが、誉田八幡宮は解りませんでした。何しろ使っているのは、マイベディアと言う電子辞典なもので・・。
 千利休と秀吉との関係ですか、うーん。大阪城は落城して燃え落ち、その後、徳川政権が新たに作った城ですよね。もし千利休を偲んでと言う事ですと、江戸時代の大阪城主が足を向ける理由になりますかね。
 江戸時代の上方(大阪周辺)における太閤人気は、今の我々が想像出来ない程であったとも聞いております。陰気で派手さのない徳川政権、派手で華美な豊臣政権、現政権への不満が太閤人気となり、その太閤人気の裏返しが真田人気ともなったわけです。
 その辺に何かいわくがあるかも知れませんが、そうなると徳川政権下で大阪城を守る城主が、前の政権に関係して良いものかどうか・・、僕には何とも言えません。
  まあ、一般論しか書けなくて申し訳ありません。誰かレス書いてくれれば良いのですが・・そんな所です。



<のりちゃんさま [近畿] 2001/04/23(Mon) 17:24>

>現政権への不満が太閤人気となり

いつの時代も、変わりないですねぇ。
いつの日か、終りつつある森政権人気になることもあるのかも。
(無責任な発言)
ってことは、千利休を偲んで・・・っていう可能性は低そうです
ね。ちょっとがっかり。
でも、いろいろ情報、ありがとうございました。勉強になりまし
た!!
 
     

     
  <こたつ城主 [関東] 2001/04/23(Mon) 19:09>

>のりちゃん様

何だかスゴイ質問が出てますね(゚.゚)! その土地感は、さすが地元ならではって感じですわ。百舌鳥は「万代(もず)」に掛けられた名前なんですね! 言霊の国だぁぁ〜!

私は石野さまが仰る事を聞いて驚いてるぐらいですし、利休にゆかりの深い南宗寺と百舌鳥八幡宮が近い、という事も知りませんでしたから、利休と大阪城主の参詣に関係があるかはわかりません(^_^;)。

ただ、昔は確かに交通手段が限られてたから距離が近いのは便利ですが、近いから関係があると思うと、結構とんでもない目に合う事も多いです(^_^;)。寺社や史跡の類の多い土地では尚更。小説に使う時などは(想像を膨らませる上では)便利な設定だったりしますが……。
検索で調べた限りの知識で、しかもあくまでも推測……というよりほとんど無理なこじつけですが(^^;;;;)、誉田八幡宮はどうやら信長に焼かれ、その後秀吉が再建したようですね。現代でも新築の神社などは、「ご利益あるのかな」なんて思う事はあるかも、という事が一つ。

もう一つは、ちょっと訊きたいんですが、大阪城主ってのは徳川政権の話?
それだと、信長が焼いて秀吉が建てた寺なんて、信長を肯定、秀吉を否定する政権下では却下かも……(^^;;)、なんてトコぐらいですかね。



<こたつ城主 [関東] 2001/04/23(Mon) 19:11>

>石野真琴さま

わ〜(*O*)! 開けてビックリ! 驚いちゃいました! のりちゃんの質問に答えて下さって、ありがとうございました。私には到底答えられない内容でした。これからもヨロシクお願いします!

う〜ん。言われてみれば八幡宮は源氏の守り神。なのに確かに鶴岡八幡宮で長尾景虎(平氏)が上杉家(藤原氏)の相続の儀式を……うん、八幡宮は勇ましいことをヨシとした武家全ての象徴的な神宮でもあったんでしょうね!

であるとともに、鶴岡八幡宮ともなると鎌倉にとって特別な場。に対して、この辺りを席巻した後北条氏は元は伊勢氏。関東圏の御家人たち(←かなり古い言い方ですけど(^_^;))とは、元々ゆかりのあった家柄ではありません。これはもしかしたら、堀越公方家を圧した上で地元勢力の助けを得て北条氏を名乗り、鎌倉をはじめ関東の代表者たろうとした後北条氏に対して、謙信や謙信を頼みにする勢力や後北条氏を認めない勢力が、対抗する意味合いもあったかもしれません。

> 江戸時代の武士の大半が、源氏を名乗っていますので、源氏の
>氏神である八幡宮があれば、参拝しない事は不敬と言う事になりましょうか。

なるほどー☆ミ 何と言っても徳川家自体が、征夷大将軍を頂くにあたって源氏を称してますからね〜!

> 源氏にも色々ありますが、もっとも人気の高い源氏は清和源氏
>ですから、清和天皇ゆかりの地にある八幡宮と言う事で、人気があった。
あ(^_^;)、やっぱり清和源氏が人気一なんですね。

>大阪城は落城して燃え落ち、その後、徳川政権が新たに作った城
>ですよね。もし千利休を偲んでと言う事ですと、江戸時代の大阪
>城主が足を向ける理由になりますかね。

あ、やっぱり江戸時代の話よね(^_^;)。うん、茶道はお行儀のために奨励されたから武家の間で隆盛したけど、流祖の利休を拝んでるのは茶人だけだと思うッス。別に宗教じゃないから。

>現政権への不満が太閤人気となり、
>その太閤人気の裏返しが真田人気ともなったわけです。

家康自身、豊臣家が人心に残るぐらいなら、真田幸村ていどを可愛がってる方が害が無かった、と割り切ってた気がするッス(爆(^_^;))。
 
     



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