<掲示板・議事録>


     
  横浜、小机城跡


<ナオさま [関東] 2001/01/28(Sun) 20:28>

こたつ城主さま

ウチの方でのレス、遅くなってごめんなさい!
こちらでもご無沙汰でした!(^^)

> 本当に横浜とかあの辺(詳しい所在地は知らない)にあるんですね(^_^;)。

小机城は、JR横浜線の小机駅そばにございます。
道灌が小机を落とし、長尾景春を鎮圧して、長い争いに終止符を打ったところでもありますね。
現在は市民公園となり、整備されてはいますが、遺構は良好に残っています。
「小机は、まず手習いの始めより・・・」と、兵士達の大合唱が頭に鳴り響き、すっかり享徳の乱モードです、ハイ。
次なるアップに向けて、週末は資料と取っ組み合いしとります。乞うご期待!?(−−;



<たまこさま [東海] 2001/01/29(Mon) 11:00>

小机には親戚があり、何度も行ってるが知らなんだ(-_-;)。



<こたつ城主 [関東] 2001/01/29(Mon) 17:08>

>ナオさま

小机城は公園なんですね(^^)。では、ナオ様の所の掲示板にあった写真は、公園の奥の方を写したのかな? 石神井城も、ここはわりと全体が広いんですが、やはり遺構のある辺りは、ちょっと鬱蒼とした奥地にあります。

>「小机は、まず手習いの始めより・・・」
>次なるアップに向けて、週末は資料と取っ組み合いしとります。

今度、道灌の歌を集めてアップしてもらえませんか(^^)?



<ナオさま [関東] 2001/01/30(Tue) 23:14>

>こたつ城主さま

> 小机城は公園なんですね(^^)。では、ナオ様の所の掲示板にあった写真は、公園の奥の方を写したのかな?

写真は堀底にございます。ちょっと分かり辛いですかね(^^;
ここは残念なことに、城址をJR横浜線と第三京浜が十文字に走り抜けています。ですが本丸、二の丸は残っておりますよ。

>「小机は、まず手習いの始めより・・・」
> 今度、道灌の歌を集めてアップしてもらえませんか(^^)?

この歌は道灌作ですが、小机城攻めの軍勢の掛け声にございます。
最初の小机城攻めの失敗で、低下した士気を上げるため、兵士に歌を合唱させ、軍勢に勢いをつけさせ攻め込んだということでした。
『太田家記』に、
 「小机は先手習いの始めにて いろはにほへとちりぢりとなる」
とその記述がありまする〜
軍勢に掛け声を唱えさせたのは道灌が日本史上初とのことですが、これは本当でしょうか??

道灌の歌特集?
うう・・・よく知らない・・・がんばります。



<こたつ城主 [関東] 2001/01/31(Wed) 17:55>

>ナオさま

>ここは残念なことに、城址をJR横浜線と第三京浜が十文字に走
>り抜けています。ですが本丸、二の丸は残っておりますよ。

そうなっちゃうトコ多いですよね(^_^;)。小机駅というのは、横浜駅から近いのですか? だったら無理ないです。でも神奈川県はよく残っている方だと思います。

>『太田家記』に、
> 「小机は先手習いの始めにて いろはにほへとちりぢりとなる」

太田家記だったんですね(^^)。ありがとうございます☆ミ

>軍勢に掛け声を唱えさせたのは道灌が日本史上初とのことですが、
>これは本当でしょうか??

う〜ん(^_^;)。解釈の仕方でしょうが、行進にリズム感まで付けている点は、確かに異色ですよね。道灌の独創性は、足軽を本格的に戦闘に用いた点だと思ってますが、こうした、当時は得体の知れない者達を束ねる才能の一端として伝わった面もあるのでは?
 
     

     
  河内、木沢長政の墓


<味舌政宗さま [東海] 2001/01/30(Tue) 22:45>

わたしの出身は摂津なんですが、摂津以上に河内は興亡の多き土地
でありますね。

河内ほど戦乱に多く遭遇しているところなかなかないのでは?

河内といえば楠正成と南朝から始まって、応仁の乱の後は畠山義就
と政長の争いが引き続き行われ(ちなみにこの河内で日本最初の水
攻めが行われた。)、1530年代以降は細川氏と三好氏の争いでも
この河内地方は戦乱のなかにあったように思います。
これだけ戦がおこなわれるのにはなにかわけでもあったんでしょうかね?たぶん戦略上の要地が多かったとか。そこまで詳しくはわかりませんが古墳も多いし古戦場も多いし、正に歴史の宝庫と思います。



<河内判官さま [近畿] 2001/01/31(Wed) 00:32>

> これだけ戦がおこなわれるのにはなにかわけでもあったん
> でしょうかね?

ホンマ、えらい踏みにじられやうです。これはわたしの勝手な
考えですが、やっぱり海(大阪湾・瀬戸内海)と大和を結ぶ交通の
要衝だったからでせう。さらに名前から判るやうに河内は「河の内」。
さまざまな川に囲まれてよく水浸しになる。しかしその分土地は
肥えるので物成りがいい。ま、儲かるのでせうね。ですから、諸国
源氏の首領・八幡太郎義家のもともとの領地は河内にありました。
今でも墓があります。都を制覇するにはどうしても欠かせない
土地だったのでせう。
南北朝期以降の戦乱は、「堺争奪戦」、これに尽きます。

わたしの近所には「後藤又兵衛戦死の地」「木村
重成戦死の地」「畠山政長自刃の地」「木沢長政の墓」「三好長慶の墓」
なんてのもあって……はぁ、何でこんなに……。



<こたつ城主 [関東] 2001/01/31(Wed) 17:51>

>味舌政宗さま

>応仁の乱の後は畠山義就と政長の争いが引き続き行われ
>(ちなみにこの河内で日本最初の水攻めが行われた。)、

その話は聞いた事がありますね(゚.゚)! 大河ドラマの最後のコーナーで、紹介したんじゃなかったかしら。

>1530年代以降は細川氏と三好氏の争いでも
>この河内地方は戦乱のなかにあったように思います。

この辺りで挫折してしまう私(^_^;)。



<こたつ城主 [関東] 2001/01/31(Wed) 18:00>

>河内判官さま

なるほど! 多数の川に囲まれているから「河内」なんですね(^^)(地名って偉大)。東京も江戸期から埋め立てられ、今ではすっかり陸続きですが、昔は海と川だらけでした(^_^;)。かわりに水路が発達し、水運は陸路の何倍も役に立ったと聞きます。大阪湾や瀬戸内海が大和に繋がるとなれば、そこに多方から目を付けられてしまうのは当然でしょうね〜。

>源氏の首領・八幡太郎義家のもともとの領地は河内にありました。

知らなかった(^_^;)。堺は戦国期、信長に目をつけられる手前で突然勃興したような印象を受けますが、長い興亡があったんですね〜。

>「後藤又兵衛戦死の地」「木村重成戦死の地」「畠山政長自刃の地」
>「木沢長政の墓」「三好長慶の墓」

木沢長政だけ知らないんで(^_^;)、検索してみたら、
「享禄三(1530)年、河内では細川高国派の畠山稙長と細川晴元派の畠山義英が鎬を削っていたが、義英の軍事司令官木沢長政が、本城河内飯盛山の守備をおろそかにしたまま戦おうとした」
と出て来た(^_^;)。詳しくは、↓
「戦国浪漫」:http://www.m-network.com/sengoku/index.htmlの、
狂歌・落首編:http://www.m-network.com/sengoku/uta/uta01.html
 
     



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