<掲示板・議事録>


「千葉、関宿城」、「上田原、武将の墓」

     
  <たまこさま [東海] 2000/12/16(Sat) 21:49>

城主さま、
>歴史には興味のない人なんですが、「イイ所を見付けた♪」と喜んでくれました(^^)。

あ、これはありますね、生の感動から入門しちゃったりするんですよね、迷路になってて、おまけに退場門が無かったりして(^^;;;)。

川の側に高い石碑がありましてね、誰が供えるのかいつも新しい花が挿してあったんです、「お墓では無いな」とは思ってました。
後で、そこは昔、紀伊国の"徳本"と言う行者が民衆に説教した場所だと知りました、文化文政の頃ですから、そんなに古くはありませんが、未だに花があると言う事は、この地においては余程感動的な出来事であり、聖地化していたのかも知れません。
詳しく調べたりしてないので、そこ止まりです。(-_-;)。



<こたつ城主 [関東] 2000/12/17(Sun) 14:32>

>たまこ様

>あ、これはありますね、
>生の感動から入門しちゃったりするんですよね、

そうそう(^^)。石段をかなり登って山奥に入って行くんで、とにかく人がいないんですよ。用もないのにそんな所に出入りすると変だけど、武将の墓参りなら何度来ても変じゃないって、喜んでくれました。

下田は、私も深根城に行った事があって、有名な観光地とかとは雰囲気ちがって新鮮でした(^^)。この時も会社の旅行で、後輩の女の子と二人で抜け出してタクシーで行きました。その子も「こっちの方が、旅行ってカンジですよ!」って喜んでくれました。

しかし紀伊の"徳本"ですか〜。検索では出て来ません。土地の人しか知らない場所ですね。村にとって特別な体験だったんでしょうね。昔は外から来た者は、話をするだけで寝泊りできたと思います。貴重だったんでしょうね、それだけ話というものが。
 
     

     
  <たまこさま [東海] 2000/12/17(Sun) 17:40>

早雲が深根城の戦いで伊豆制覇した時は60歳となっています。
城内の者は女子供も含めて皆殺しになっています。
足利茶々丸は、ここで自刃した事になっており、墓まであるのですが、郷土史家に聞きましたら、茶々丸終焉の地は掘越御所近辺で、現在の沼津市だと言う事で、その論争は20年くらい前に決着が付いている、と言うのです。
きっと、この様な間違いは(?)多々あると思うのですが、記述され出版されているものは訂正出来ませんしね。
また、苔むしている墓を捨てるわけにも行かんでしょう。(-_-;)



<聖也さま [関東] 2000/12/17(Sun) 21:01>

>こたつ城主さま

今日は、千葉の関宿城址に行ってきました♪
江戸川と利根川の川俣の部分にある、足利成氏の前線基地の一つです〜
関宿城博物館では、説明に、関宿城の歴史は天正18年から始まっているんですよ!ナゼ??
秀吉天下統一と同時に家康江戸城入城の時、家康の異母弟が入城。そこから始まるなんて!!それ以前はやはりマイナーなんですね。(^^;

>雅さま&こたつ城主さま

>> 大塔合戦

川中島から150年程前の戦い・・・
大塔合戦は、ちょうど今読み終わった小説、柴田錬三郎の「もののふ」にありました。ナイスタイミング!!
村上満信VS小笠原長秀の戦いですよね?
大塔合戦ではピンと来ませんでしたが、雅さまの掲示板で「川中島から150年前」「北信VS南信の戦い」がキーワードで、このことかと。
歴史は繰り返す、ですね。



<ぷくぷく志摩の守さま [東海] 2000/12/17(Sun) 22:26>

たまこ様

>早雲が深根城の戦いで伊豆制覇した時は60歳となっています。
城内の者は女子供も含めて皆殺しになっています。

早雲の占領地での撫民は有名で病気の治療や年貢の引き下げなど、当時の武将では考えられないほどの善政を行ないましたが、開城要求に従わない深根城に対しては他の反対勢力に対する見せしめのため皆殺しを断行したのでしょう。
民政家としての立場と武将としての立場に挟まれた苦しい選択だったろうと思います。

>足利茶々丸は、ここで自刃した事になっており、墓まであるのですが、郷土史家に聞きましたら、茶々丸終焉の地は掘越御所近辺で、

そうですね。
茶々丸が早雲に殺されるのは明応2年。堀越御所においてです。
それにしても継母と異母弟を殺害した茶々丸という人物は狂人のように描かれることが多いですが実際はどうだったのか興味あるところです。



<久住さま [関東] 2000/12/18(Mon) 08:23>

小生、
北条早雲の出自については、「室町幕府の有力者の家」説に
傾いております。一介の素浪人の妹が今川家の正室になり、
その子どもが嫡男として認められるというのは、およそ
ありえないと思うからであります。身分の低い血筋の女性は
側室どまりで、その子どもも、まず数には入れてもらえない
(他にいなければ別ですが)というのが当時の社会だと
認識しております。



<さま [関東] 2000/12/18(Mon) 14:14>

>上田原! いいですねぇ〜☆ミ 私は板垣信方に煙草のお供えしまし>たよ♪ 大塔合戦は、信州の城を調べてると異様に記述が多いんですよね!

全くですねっていうか、避けて通れないですしね・・・
村上氏の歴史を調べるには<大塔
ちなみに、僕は上田原に行ったら雨宮形部他村上方のの墓参りがしてあげたいです。板垣様には申し訳ないですが・・



<さま [関東] 2000/12/18(Mon) 14:18>

聖也さま
>歴史は繰り返す、ですね。

やはり川中島地方は信濃の中では、裕福な土地の中に存在していたようですから、やはりそれだけ重要って事でしょうね。
ある意味、村上氏はそこを拠点として制圧していたからこそ、急激な進歩を果たせたのではと思います。

運が良かったのか・・・先見の目があったのか・・・



<ぷくぷく志摩の守さま [東海] 2000/12/18(Mon) 16:39>

久住殿
早雲の出自が「幕府の有力者の家」であるというのはたぶん間違いないことだと思います。 あえて家名を上げるとすれば伊勢家という説が有力のようですね。伊勢家は小笠原家と並んで幕府の作法を取り仕切る家柄ですから駿河に下向してもそれなりの威光を示せたと思います。
 
     

     
  <こたつ城主 [関東] 2000/12/18(Mon) 20:35>

題名:今度は早雲の話(^O^)!

↑特に意味はありません(^_^;)。戦国放題で幸せを感じているのです。(←年賀状作らんかい! こらっ!) 今日は意外と早く帰って来られました。これから年末まで、いよいよバタバタあがきそうです。


>たまこ様

そうです(ニマ〜(^^))。早雲60歳! スゴイです。脅威です。

ところが残念ながら(-_-;)、私は早雲の本の何を読んでも、この辺りまで来ると集中力が途絶えて来るのです。なぜなら太田道灌も死んでしまうし、早雲がなかなか活躍せず、やっと動き始める頃には、こっちの体力がどうにかなってしまうのです。

>城内の者は女子供も含めて皆殺しになっています。

よくそんな体力が……(-_-;)。(←そういう話じゃないぞ!)

>また、苔むしている墓を捨てるわけにも行かんでしょう。(-_-;)

そりゃ、まあ……(^^;;)。でも茶々丸の墓って、堀越御所からかなり遠いんですか? まあ墓はあるだけで霊が宿るといいますから、何処に幾つあっても大丈夫ですよ。 *実に苦しい言い逃れ*

ところでそれって確か、たまこ様が足蹴に……あ、いや、間違ってぶつかってしまったトカ言う墓でしたっけ(^^;;;;)。(あ、待って! 帰らないで! たまこ様〜)


>聖也さま

おおお〜(゚.゚)! 関宿ですか! 小さい頃行きました。どんな所かすっかり忘れましたが、千葉の最北端というか、西北方面で尖がってる先端部分なんで、行ったという記憶だけは残ってます。そんなワケで(^_^;)、足利成氏の基地だったなんて、千葉県人は全く知らされてないと言っても過言ではありませぬ。 *泣けるッス*

柴田錬三郎の「もののふ」ですか。知らないです(^_^;)。でも大塔合戦が小説になってるのかぁ(読んでみようかなぁ)。

>村上満信VS小笠原長秀の戦いですよね?

なのかな(^_^;)。姓に覚えがあって名の方を知らない辺り、きっとそう。



<こたつ城主 [関東] 2000/12/18(Mon) 20:37>

>ぷくぷく志摩の守さま

そうですね。早雲は、税の一分免除など優しい面を見せる一方、治安の維持を破る者には稼業を停止の上、その家屋に火をかけるなど厳しい面も見せました。それぐらい法が徹底してないと、乱世では誰も安心して暮らせません。このように、棄民が増える時代において、領民の土地への定着化をはかった点では、早雲は極めて優れた民政家だったと思います。

>それにしても継母と異母弟を殺害した茶々丸という人物は狂人の
>ように描かれることが多いですが実際はどうだったのか

私も、同じように首を傾げる事が少なくないです。押し込められて常軌を逸した人物、というパターン。それはそれで一つの型としてはいいんですが、茶々丸に同情的な描き方をすると、人生の晩年にきてそれを討つ早雲を肯定できない、とでも作家は考えるんでしょうかね。それとも、茶々丸狂人説の動かぬ史料でもあるんですかね。

早雲は伊勢氏である事は確かで、幕府の申次衆ぐらい務めたかもしれませんが、伊勢氏のどれ程度の家系かわからんです(^_^;)。ただ、正式に北条氏になるのは氏綱からであるのは確かで、この辺、名門伊勢氏を継がなかったのは氏素性が怪しいから、ではなくて、坂東武者を治める上で「北条」の方が通りが良かったからかな、とか思ってます。


>久住さま

北川殿ですが、妹であるのは確かだが、血のつながりに薄く、あたかも早雲の愛人か初恋の女性のごとく描かれるのはナゼなんでしょうね。これも茶々丸が狂人として描かれがちなのと同じく、何となく首を傾げるストーリーなんですよね。

もしかして、早雲を下克上として描きたいが、血筋だけの連中とは一味違うタイプの快男児にしたいのであって、悪人まではしたくない、という作家の思い入れが働くからじゃないかと思うんですけど、どうですかね。



<こたつ城主 [関東] 2000/12/18(Mon) 20:38>

>雅さま

>全くですねっていうか、避けて通れないですしね・・・

んだ、んだ。
本で「おお! 城山!」ってのを見つけると、大抵「大塔合戦の頃、この城は……」だもんね(^_^;)。

上田原は甘利虎泰の墓もお参りしたかったんですけど、見付かりませんでした(-_-;)。雨宮刑部は、なぜか、かなり前から知ってて、私の書いた漫画では「山本勘介の宿命のライバル」っつー具合に出て来るんだなぁ、これが。 *ムチャクチャやわ*

なるほど。村上氏の急成長には川中島一帯の地の利が……。善光寺なんかは、あまり関係ないですかね。あと、信州各地における大塔合戦記述の多さから見て、信州の豪族たちはこの戦でかなり疲弊してしまったのかな、なんて思わなくもない。新旧交代の契機になったとでも言うか……。
 
     



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