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<久住さま
[関東] 2000/12/18(Mon) 20:57>
志摩の守様
御教示ありがとうございます。
道灌と直談判できるということ自体、
何らかの権威がなければ無理では・・
と考えておりました。
室町幕府の権威というもの、なかなか
あなどれないですね。
戦国時代、幕府の実質的な権力機能が失われても、
織田信長の台頭までは、名目的権威が
機能していたという目でみなければ
理解できないことが多々ありまして、
「童」を書き直す際にも視点の一つとして
反映させたいところです。
<味舌政宗さま [東海]
2000/12/18(Mon) 21:29>
>北条早雲のこと
しばらくぶりにこちらに書きこみます。北条早雲で盛り上っておられ
た様子。以前ならば伊勢の素浪人が妹の伝を辿って駿河に赴き家督争いを調停し、伊豆を瞬く間に平定という風なものが流布されてました
が、最近の高校の歴史の教科書はどうか知りませんがだいぶ趣が違っていますよ。
1.早雲の出自については伊勢氏が有力なようです。そして備中伊勢 氏伊勢盛時という人物が早雲ではないかともいわれていますが
まだ確定はしていないようですが
2.早雲の伊豆侵攻については豆州騒動という足利茶々丸が家老であ
る外山、秋山両氏を殺害したことから発生した内乱に乗じたと
いう「鎌倉九代後記」による。また北条氏研究で名高い小和田
哲也氏「後北条氏の研究」においても「勝山記」という記録から
伊豆堀越へ攻めこんだのが1493年ということを明らかにした
とされます。
また茶々丸にしてもその場で殺されたのではなく伊豆の茶々丸
支持派の元に逃れ、最終的には甲斐の武田信縄(武田信玄の祖
父)のもとに逃れたものの、1498年に今川氏親と連合した
早雲が甲斐に侵攻し、茶々丸はそのときに討ち死にしたという
論があります。この甲斐侵攻は武田氏の内紛乗じた侵攻で茶々丸
を庇護した信縄に対抗した油川信恵に合力したのが真相です。
また早雲の伊豆平定は侵攻後5年を要していてなかでも中伊豆
狩野川流域の狩野氏などは強行に抵抗したらしく、軍記などで
描かれている平定とは趣を異にするようです。
ちなみに茶々丸の生存に衝いては小和田氏の一連の北条早雲研究
や家永遵嗣「室町将軍権力の研究などに」詳しく出ているようで
す。
どうもこのあたりが現在の歴史学会での定説との話を聞いたことが
あります。(本当ならいいんだが)
<ぷくぷく志摩の守さま
[東海] 2000/12/18(Mon) 23:01>
>味舌政宗様
うわー!お詳しいですね。
おっしゃるように甫庵太閤記に伊勢盛時という備中で300貫持ちの領主が伊勢新九郎すなわち早雲であるというようなことが書いてあるようですね。
いずれにしても早雲の前半生は謎だらけですね。
<たまこさま [東海]
2000/12/18(Mon) 23:18>
>久住さま、(祝 生還)
>一介の素浪人の妹が今川家の正室になり、
その子どもが嫡男として認められるというのは、およそ、
私も物語で読んだ時、最初に?と思いました、
それで、"無頼の息子はいつも親を泣かせていた、でも心優しい妹は お兄ちゃんを慕っていた。"
「♪俺が居たんじゃ、お嫁にゃ行けぬ〜」と家出した・・。
決して寅さんの影響を受けている訳ではありません。
味舌さま、
>伊勢盛時という人物が早雲ではないかともいわれていますが、
伊勢新九郎長氏、が本名だと思っていました。
>茶々丸の墓。
>ところでそれって確か、たまこ様が足蹴に……あ、いや、間違ってぶつかってしまったトカ言う墓でしたっけ(^^;;;;)。
城主さま、良く覚えていらっしゃいましたね、驚き。
はい、バイクをぶつけたんです。(-_-;)
そしたら城主さまが、「早雲のやった事に比べればナンて事は無い」
と、おっしゃって下さった様な・・(おお!記憶良好)。
<光慶さま [関東]
2000/12/18(Mon) 23:28>
>早雲は、税の一分免除など優しい面を見せる一方、治安の維持を
破る者には稼業を停止の上、その家屋に火をかけるなど厳しい面も見せました。
>それぐらい法が徹底してないと、乱世では誰も安心して暮らせません。
どこぞの国の現状を見ていると・・・
早雲の再来は無いのですかね〜(^^;;;)
<朱天さま [東海]
2000/12/19(Tue) 01:25>
ありゃ、乗り遅れた。
早雲ネタですね。「箱根の坂」と学研漫画「北条早雲」
を読みましたね。そんな私が持ってる早雲のイメージは
とらえどころの無い人です。司馬マジックにかかってる気もするが。 |
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