<掲示板・議事録>


「馬と土佐と長宗我部」

     
  <宮内少輔さま [東海] 2000/07/13(Thu) 18:48>

土佐馬についてですが、香宗我部親泰(一応説明しておきますが、元親の弟です)が信長のところに使者として安土に行ったときに、信長だか光秀だかが親泰の乗っている馬を見て、
「な、なんだあれは。土佐人は犬に乗るのか!?」
と驚いたそうです。
でも、実際は土佐駒は粘り強く持久力があり、重い荷物なども平気で運んだって聞きます。



<こたつ城主 [関東] 2000/07/14(Fri) 14:33>

>宮内少輔さま

>土佐馬
そうです、そうです(^^)。私が聞いたのは、そのお話。あれは元親の弟が乗っていたお馬さんの話だったのですね。私は、この話が大好き。同じ日本に、外国みたいに違う生き物がいるなんて、すごくステキ! そうか、親泰は香宗我部氏を継いだのでしたっけ。

>土佐駒は粘り強く持久力があり、重い荷物なども平気で運んだ

そのようですね(^^)。農耕馬だったのでしょうか。足とか太かったのでしょうね。想像すると、今の馬みたいに猛々しい顔をしているのではなくて、きっと可愛い顔をしていたんじゃないかと思うんですけど。



<たまこさま [東海] 2000/07/14(Fri) 19:50>

題名: お馬さん、

ここは 本当に 為になりますねえ、
「将を射るなら 先ず 馬を射よ」 私は いつも あれが可哀相と
思っていた、
軍用馬、農耕馬:昭和40年くらいまでは、一家に一頭 馬が居た、
同じ屋根の下に、 もちろん 農耕とか 馬そり、の 為だけど、
ちゃんと 鞍も あって 農家の おじさんでも 駆けていた、
裸馬に 乗って散歩してる お転婆も居た(中学生)、
洗ってやって ブラッシング してやって、大変みたいだった、
蹄鉄を 生業としている人は 結構 忙しそうだった、
戦争中は 軍馬として 取り上げられて 家族で泣いた、って
話も 聞いた、大陸に 連れて行かれたんだろうか、



<こたつ城主 [関東] 2000/07/15(Sat) 12:54>

>たまこさま

私の住む千葉県は、もともと千葉氏の領土でしたが、この千葉氏のシンボルがお馬さんとお星様なんです(^^)。何でも、平将門と妙見菩薩が結婚して生まれた子が、千葉氏の発祥だとか……。遠い都から来た落ち武者と地元の娘が結婚して……という話が原点なんだと思います。

将門伝説には馬が付き物で、むか〜し、『風と雲と虹と』という大河ドラマをやってた時も、野馬が駆ける馬蹄の響きが山からこだましてくると、村人たちが「将門さまが来た!」と言うシーンがありました。馬の背に将門の魂が乗っている、というんですね(^^)。

一方星は、元々、騎馬民族や海洋民族の信仰の源でした。山のない平野や海では、星が唯一の道しるべであったからだそうです。

私の住む地域では、今でも野馬堤がそこかしこに現存していて、これは古来から馬を放牧していたからだと聞きます。江戸時代にも馬込めが引き継がれたとか。農耕馬は、地元の豪族によって選ばれ、戦闘馬にも用いられていたようです。生活にそれだけ馬が密着していたのだと思います。
 
     

     
  <朱天さま [東海] 2000/07/18(Tue) 01:54>

長宗我部は先祖は渡来人説が有力らしいですよ。
もとは宗我部さんで長岡郡の宗我部さん長宗我部。
香我美郡の宗我部さん香宗我部。と呼び分けたのが始まりらしいです。元親の弟親泰が養子に入ったのはご存知のとうりですね。
もう一人の弟親貞は吉良家に養子に行ってます。
で、元親のお嫁さんが斎藤利三の縁者といわれてます。
春日局の親、明智光秀の重臣ですね。
このために織田が親長宗我部政策の時は明智が担当し
四国征伐の時にははずされたともいわれてますけど、どうなんでしょうね。では。



<久住さま [関東] 2000/07/18(Tue) 02:16>

>長曾我部氏の先祖
有力豪族の秦氏だったとか。
で、その先祖は中国の秦朝の末裔で、
秦朝を建てたのは、実は流浪してきた
ユダヤ人だった!
というコラムを読んだことがあります。
始皇帝の末裔程度でやめといた方が
いいんでしょうね。
始皇帝に秦朝の血は流れてないようですし。



<こたつ城主 [関東] 2000/07/18(Tue) 15:10>

>朱天さま

長宗我部氏は渡来人説が有力なんですね。何となく、頷ける気が……。名前が変わってますよね。家臣の家とかも……。

なぜ四国の中で土佐だけ変わってるのか……と言うと、ある渡来人のルートが黒潮に乗って、沖縄辺りから入って、九州最南端(薩摩)に寄り、土佐に寄り、そして熊野に着いた、という説があるらしいのです。だからこの3つの地点は、同じ渡来文化を持っている……とか(^^)。

>元親の弟親泰が養子に
>もう一人の弟親貞は吉良家に養子に行ってます。

そうなんですか(^^)。吉良家に……。(ふ〜ん)

親長宗我部政策の担当が明智で、信長に面目を潰された話は、「変」の理由の一つに数えられていますね。長宗我部のことをよく知らない私には、何とも言えないけど(^_^;)。



<こたつ城主 [関東] 2000/07/18(Tue) 15:12>

>久住さま

>>長曾我部氏の先祖
>有力豪族の秦氏だったとか。

え〜、ホント(^O^)? 何だか面白そう〜♪ いいなぁ。何か家系の調べ甲斐がありそう。

>秦朝を建てたのは、実は流浪してきたユダヤ人だった!

そ……それ、ホント(^_^;)? だ……誰が言ってるの?

>始皇帝の末裔程度でやめといた方がいいんでしょうね。

無難(^_^;)。

>始皇帝に秦朝の血は流れてないようですし。

何とか言う宰相の息子(^_^;)。映画で見ちゃった。
 
     

     
  <宮内少輔さま [東海] 2000/07/18(Tue) 20:27>

なんだか最近長宗我部の話題が多いですね。
うみゅうみゅ。予は満足じゃ。
ちなみに、長宗我部の主説とされる動きは、中国からやってきた後に京都に行って、その後に甲斐に行って、それで土佐に来たらしいです。
いや、記憶は曖昧なんですけど。
まぁ、これでも長宗我部専門家を自称する者故、長宗我部のことなら何でも聞いて下さいな。
・・・やっぱり、お手柔らかに頼みます。



<もっさん(仮)さま [地球外] 2000/07/18(Tue) 20:46>

こたつ城主さん
>>始皇帝に秦朝の血は流れてないようですし。
>何とか言う宰相の息子(^_^;)。
呂不韋ですか?



<匿名希望(仮)さま [地球外] 2000/07/19(Wed) 00:23>

題名:宗我部と宗我部

昔々、土佐国に宗我部を称する集団が二つあったという。
ある時、区別を付けるため話し合いを行ったそうな。
一方が言った。「俺たちの方がチョー宗我部だぜ」
当然もう一方は不服を申し立てたが、頑固な彼らは聞く耳を持たなかった……。
以後、前者を「長宗我部」、控訴した後者を「香宗我部」と呼んだとか呼ばないとか。



<太郎丸さま [関東] 2000/07/19(Wed) 07:38>

>「俺たちの方がチョー宗我部だぜ」

うまいッ!座ぶとん二枚!
(このネタ、いつか使ってやろ・・・)φ(. . )



<こたつ城主 [関東] 2000/07/19(Wed) 15:01>

>もっさん(仮)さま、匿名希望(仮)さま

>呂不韋ですか?

あ、そうそう(^^)。そうです! 映画は確か「始皇帝暗殺」だったと思います。始皇帝が呂不韋の死刑決定をためらっている間に、呂不韋は息子のために自殺しちゃうんです。可愛そうだった。

>一方が言った。「俺たちの方がチョー宗我部だぜ」

ぐぐっ(-_-;)!! *誰か、突込みを入れてくれ!*



<こたつ城主 [関東] 2000/07/19(Wed) 15:03>

>宮内少輔さま

お蔭さまで、長宗我部氏の良い勉強させてもらってます(^^)。中国→京都→甲斐→土佐ですか。そういや毛利氏も、甲斐だか相模だかに関係があったような……(違ったかな)。私が聞いた、薩摩→土佐→熊野、という説は、たぶんもっと古い流れみたいなんで、長宗我部氏と同一の動きではないんでしょうね。でも面白いですね。氏族の伝播とかって、意外とよくわかってないですものね。これからもお願いしますネ♪



<こたつ城主 [関東] 2000/07/19(Wed) 15:04>

>太郎丸さま

気前がいいですね(^_^;)。座布団2枚ですか。この手のネタ、(仮)さまなら連発してくれますよ、きっと(爆)。
 
     



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