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<宮内少輔さま
[東海] 2000/07/19(Wed) 17:15>
>匿名希望(仮)様
長岡郡(だったかな?)と香我美ですね。
>朱天様
土佐の長宗我部元親百箇条はわりと守られてましたよ。武士のほとんどが漢字の読み書きができたらしいですし。さすが、政治は土佐♪
あ、でも途中で廃止された禁酒法は守られなかったみたいですね。土佐の人って酒好きが多いから。
<伊那猫さま [東北]
2000/07/19(Wed) 22:49>
"ちょうそかべ"に爆笑・・・!!
<味舌政宗さま [東海]
2000/07/19(Wed) 23:16>
>宮内少輔さま
長宗我部の分国法が守られたのは時代背景の違いのように思います
1597年制定つまりは豊臣政権という中央政権が出来たことで
その強力な権威を利用して国内統制をはかったのだと思います。
これは長宗我部に限らず、江戸時代に入っても毛利なども大名家
専制となるよう家臣統制をおこなったようです。
ただ、戦国時代前期1520〜30年代のように群雄割拠でかつ
国内の家臣の独立性の高い時代の場合は法を遵守させるのもかなり
難しく、重臣の起請文や連署によって効力を発揮する形が多くみられ
ます。長宗我部氏の場合はどうだったのでしょうかね。
興味はありますね。
<宮内少輔さま [東海]
2000/07/20(Thu) 00:55>
>味舌政宗様
御忠告有り難うございます。まぁ、確かに長宗我部の分国法は1520〜30ほど昔のことではありませんが、武士たちが読み書きできたのは豊臣政権のずっと前、1570年代なんです。信長への使者として、中島可之助っていう変わり者が使者となって嫡男弥三郎(後の信親)に信長の「信」の字を貰いにいったんですけど、その時に信長が土佐の情勢を一応知っておこうという時に、可之助がそう話した、というわけです。ちなみに、この話はあの有名な「鳥なき島の蝙蝠」の話です。おそらく戦国史上で信長のことを面と面を向かい合ってカンテン呼ばわりしたのは可之助ぐらいでしょう(笑)。
<宮内少輔さま [東海]
2000/07/20(Thu) 00:58>
書き忘れです(反省)。
1597年制定というのは、おそらく百箇条全てができあがったときではないでしょうか?いや、きっとそうです。実は長宗我部元親百箇条なんていうのは嘘っぱちで、さりげなく盛親もそれに手を加えていますからね。二人してその年にようやく完成に漕ぎ着けたのでしょう。
<朱天さま [東海]
2000/07/20(Thu) 01:50>
>味舌政宗様
追放した人の署名のある制定を守るのはちょっと抵抗あるかも しれませんね。体面も悪いし。しかし輝宗結構戦国大名してますよ ね。政宗のイメージだと虫も殺さない善人って感じですけど、
宗時は結局餓死したんじゃなかったですか?
>宮内少輔様
すると、若き嫡男信親の条文とかも入ってるかもしれないんですね。 |
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