<掲示板・議事録>

雑賀孫市の祭り、3

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2004/06/16(Wed) 20:25>

茨城に流れ着いた「うつろ船」の話しは、有名なところでは、滝沢馬琴の「兎園小説」に載せられてます。
本当に、アダムスキー型に近い形の「船」に、小箱を持った南蛮の女性が乗っていたというので、「補陀洛渡海船」とはかなり雰囲気が違うんですけどね。

私は、「兎園小説」しか読んでませんが、江戸時代のいろんな作家がこの「うつろ船」について書いているようです。

で、その頃、和歌山の那智からは、いろんな「即身成仏希望者」が、「閉鎖された船」で、東の海を目指してる・・・という寸法です(笑)

鉄砲伝来は堺を経由。
そう考えるのが自然かもしれないですね(^^ゞ



<孫市の街さま [近畿] 2004/06/17(Thu) 01:33>

★★こたつ城主さま
こたつ城主さま、こんばんは♪
向こうにも、ありがとうございます。

>ことに戦場史跡には建物がありませんから、地形が変われば史跡の存続が危ぶまれます。

はい、どこともそうなのですね。
太田城水攻めの堤防前の空き地ではがっかりしましたね。
もうちょっとなんとかならないものかと・・(U_U;;)ウム

>「雑賀衆」:http://saikashuu.fc2web.com/

紹介・・ありがとうございます〜♪

>(チーター様っ、もうちょっと字が大きいといいな〜〜〜(^∧^))

ちゃはぁ〜これは急ぎアップしまして、とある所より間に合わせで・・
折を見て変更いたしまする(^^ゞポリポリ

>で、雑賀五組とは、南郷、宮郷、雑賀庄、十ヶ郷、中郷と認識し
>ますが、これらにそれぞれ「一組、二組、三組……」と数が割り
>振ってあるワケではないのですね(^^ゞ?

はい、説明不足ですみませんです。
雑賀五組とは、五搦(ごからみ)ともいいまして・・
近隣の村落連合の集合体の五つの「くみ」からなっていました。
ひとつの組は、惣という村や荘単位に構成された地縁集団です。

>これは「間違い」で宜しいですね?(笑)

そうですね。
宮郷=三組では、ありません。
以下、僕の説明を整理していただいて〜ありがとう♪
もうすっかりご存知のことですが、番号的な組の愛称でなく
三組=(宮郷、中郷、南郷) 二組=(雑賀庄、十ヶ郷)です。

>この西の海域側が抵抗してたのでしょうか。

そうです。この二組は真宗戦力の強い地域でした。
浄土宗の土橋も含めて信長と戦い本願寺を助けました。

>また、宮郷に太田党があったのですか(゚.゚)。それとも宮郷、中郷、
>南郷のいずれかにあったのでしょうか。となると、最初は織田の
>勢力を引き入れた東部が、最後には秀吉の水攻めに遭いながら
>抵抗した、という事でしょうか。

ここらが、またややこしいところでして(^^ゞポリポリ

まず太田党、雑賀党という表現ですが、専門の研究されている
方からは、この言葉は聞きません。ホームページとかでよく聞き
ますね。多分ですが、太田党=太田城の周りの大田村、
雑賀党=雑賀庄の軍と考えて良いんでしょうか。
あいまいなところです。

太田城は、雑賀五組境界図に場所を印してます。宮郷内ですね。
親信長だった根来や太田党は、家康との戦いに秀吉が小牧へ出陣
した時にその留守のスキに大阪は泉南(貝塚や岸和田)へ攻め入った。

それで秀吉は、根来寺を焼いたり太田城を水攻めにしました。
この場合の雑賀は、本願寺はすでに秀吉と和睦しているので
正確には、雑賀門徒衆以外の雑賀衆が秀吉に反抗しました。
太田党や四国に逃げた土橋などがそれです。

>信長が「戦闘」によって従えようとしたのは、西部(雑賀庄、
>十ヶ郷)という事になりますか。

そうですね。形上、降伏したのちも二組は、本願寺を援軍して
信長と戦いました。また、報復に南郷に攻め入り宮郷などに
対しても圧力をかけています。宮郷は、直接攻撃は撃退する
ものの有形無形の圧迫に耐えかねて本願寺に詫びを入れて二組
と仲直りしたようです。

信長亡き後は、根来と雑賀門徒衆以外の雑賀衆が秀吉と戦った。
土橋は勝てないと長宗我部を頼り四国へ逃げました。

>信長の遣り方は、一点の染みも漏れもなく塗り潰すオセロのよ
>うな物なので、本願寺もクサビを打つ手に出るという(^_^;)。

でしたが、もろもろの諸情勢のため中途半端に和睦し京へ戻りました。
・・と、ここまで書いていましたが、今日あの「雑賀五組境界図」を
執筆された武内さんに二三質問できる機会がありました。
今の最新の研究からすると・・途中からの二組vs三組では考察できない
とのこと・・この辺は、本館の「いろいろ奮闘記」に書いておきます。

★★のりちゃんさま
のりちゃんさま、こんばんは♪
新サイトへの応援メッセージ〜ありがとう♪

>根来衆が鉄砲を手にするに至ったルートも海の便でしょうか?

そうです。
種子島から四国沖を通航する航路で泉州境浦に入港して
上陸後風吹峠を越えて根来に持ち帰ったといわれています。
これが雑賀衆など紀州全域に伝わったものと思われます。

こたつ城主さま
>鉄砲は、鹿児島の南海の種子島に伝来し
>(それ以前にも伝わってたかも(^^ゞ)、堺あたりを経由して
>各地に伝わって行ったんじゃないかと思います。

そうなんですね。
紀州の根来寺の杉坊が津田監物を遣わし、鉄砲を一挺譲り受け、
同時に火薬の製法も教わりましたが、同じ頃・・和泉堺の商人
橘屋又三郎という者が種子島にやって来て一、二年滞在し、
鉄砲を学び堺へ帰りました。
これが、それ以後関西や関東にまで鉄砲が広まって行った
ようですね。



<こたつ城主 [関東] 2004/06/17(Thu) 19:03>

>のりちゃん様

茨城の「うつろ船」。「滝沢馬琴」や「兎園小説」で探したら出て来ました(笑)。
「うつろ舟」の流れ着いた浜:http://www.nsg.co.jp/ntr/TIME/ESSAY/10th.htm
(「日本板硝子テクノリサーチ(株)」:http://www.nsg.co.jp/ntr/index.htmより)

1803年なんですね! 那智の「補陀洛渡海船」も江戸期ですか。
(てっきり古代の話だと思ってました(^^ゞ)
このサイトには馬琴の創作かもしれない、と書いてありますが、不倫した女が流刑されたなんて話は、事実(であって欲しい)だったら面白いですよね〜(笑)。



<こたつ城主 [関東] 2004/06/17(Thu) 19:05>

>孫市の街さま

>はい、説明不足ですみませんです。

いえいえ(^^ゞ。おかげ様で、東部の三組と西部の二組、頭に入りましたぞー!
私も早とちりのままだと、「雑賀には一組二組三組というのがあるらしくてぇ〜(^。^)」とか、ほうぼうでパーな事を喋ってしまいますから(爆)。

「チーターの森」の「いろいろ奮闘記」も拝見しました(^^)。
一向宗が全国に根を張った理由に、蓮如が村や惣という日本独特の農村の仕組みに目をつけたからだと聞きます。
私は雑賀あたりも、ジワジワ本願寺一色に染まったのだと思ってました。
が、どうも違いますね(笑)。

元は宗派に関係のない地縁集団が、信長につくか本願寺につくか、という事態によって、鈴木と土橋の二大勢力を生んだんですね。となると、宗派にまで影響がすぐに出た、とは限らないかもしれませんね(土橋は浄土宗でしたか……)。
信長の頃には、村上水軍ですか、本願寺は強い水軍を味方に引き入れていたから、西部の二組(雑賀庄、十ヶ郷)はそちらの影響の方が強いかもしれません。

また、西部の二組と東部の三組という区分けは、信長の死で一度解消し再編成となった、と見た方がいいのかな、とも思いました。

しかし全体として見ると、信長の頃は、織田軍がやって来ると降伏し、去って行くと本願寺に謝るってな構図だったのかな。
実はそれ、北条と上杉の合間にいた松戸(ウチの方です)の豪族も同じです(爆)。
雑賀も信長の頃は、結構ウマウマやってたんですねぇ(笑)。

それが、秀吉の大転換でそうは行かなくなったと。真田の悲哀と同じですね(汗)。
秀吉が本願寺と和睦した時期をハッキリ覚えてないですが(^^ゞ、小牧の頃と言えば大坂城できてますから、和睦はとうに成ってますね。取り残された東部三組も必死だったのかもしれませんね……。。

そういや、これも時期を正確に把握してませんが、雑賀には長曾我部と通じる手蔓が確かあったはず。
それが土橋でしたか。長曾我部は明智に近かったので、そういう経緯もあったのかなぁ……?

風吹峠は「尻くらえ孫市」のラストに出てきますね〜。孫市がここで暗殺された、という伝承に沿ってたような……(違ったかな)。

鉄砲の事はオボロながら思い出しました。確か二挺しか無い高価な鉄砲(吹っ掛けられたのだろう:笑)のうち、一挺をウマウマと貰い受けたのが堺の商人。これが橘屋でしたか(^^ゞ。
種子島でも部品を分解したりして、刀鍛冶屋だったかが作るんですよね。これを教わって来たのが、では津田監物ですか。
 
     

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2004/06/17(Thu) 19:18>

>鉄砲伝来ルートと、
>補陀洛渡海

・・・ちょっと無理あるまとめかたかも?

近畿への鉄砲伝来は、やっぱりまず「泉州」なんですね。

http://www.ztv.ne.jp/web/kiho/nachihudaraku.htm
によると、18世紀初頭までってなってますから、「同時期」っていうのは嘘だったかも(^^ゞ

で、9世紀ごろから始まったとありますから、「古代」とはいわなくても、かなり古くから行われてきたことなのは間違いないですね。
ただ、補陀洛渡海って、仏教的な感覚だと思うんで、やっぱ仏教が盛んになってからのことでしょうね。

ただ面白いのは、



<のりちゃんさま [近畿] 2004/06/17(Thu) 19:23>

うぎゃ〜、すいません。編集途中で送信してしまいました・・・。
わけわからんくなってるかも(T_T)
削除キー設定しとくべきですね、やっぱ。
これからは気をつけますすいませんm(__)m

http://www.ztv.ne.jp/web/kiho/nachihudaraku.htm
は、補陀洛渡海についてのサイトです。

で、泉州ですが、面白いな、とちょっとだけ思うのは、泉州も、鉄が採れるらしいんですよね。
泉州へ運ばれたのは、商売のためもあるでしょうが、もしかしたら、「鉄砲製造のため」ってのもあるのかなぁ?と。



<こたつ城主 [関東] 2004/06/18(Fri) 21:02>

>のりちゃん様

「補陀洛渡海」の説明サイト、ありがとうございました(^^)。
なるほど、1000年代から1900年代と言えば、かなり長期ですよね。
それに紀州に土佐に九州……見事に黒潮ルート地域に集中!!
しかも行き先が黒潮ルートの親元とも言うべき南海!!!
最近亭主が沖縄に行ったんですが、お墓が女陰の形をしているそうで、死は「母の胎内に帰る」と考えられたからだとか。ダブらなくもないですね〜(笑)。
渡海は仏教が盛んになってからなのでしょうが、日本人は「都合の悪い事は聞こえないフリ」をしますから(笑)、こんな危険な事でもやったのは、何らか受け入れる要素があったのではないでしょうか。
あと鉄砲については、なるほど、鉄製造との関連ね……。あるかもしれませんね。

>うぎゃ〜、すいません。編集途中で送信してしまいました・・・。

あ(^^;)、それ私もよくやるんで……(爆)。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/06/18(Fri) 21:58>

補陀洛渡海ですが、似たようなものに、「即身成仏」ってのがあるじゃないですか。
ほら、穴を掘ってそこに即身成仏志望の僧が入り、息ができるくらいの穴だけ残してあとは埋めちゃう。
んで、僧が生きている間は、鐘を鳴らし続けるっていう。
確か、人魚を食べた八百比丘尼も、最後はそういう亡くなり方をしたという伝説もあったと思うんですけど。

生きたまま西方浄土へ向かうという発想は一緒だと思いますが、どっちが先なんでしょうね?
土に埋まるよりは、船に乗るほうが、「どっかに辿り着く」可能性は随分高いと思うけど(笑)



<こたつ城主 [関東] 2004/06/20(Sun) 03:01>

>のりちゃん様

うんうん「即身成仏」。
土の中でひからびてる仏様に、上から湯をかけると3分で美味しく出来上がる……(それは即席!)。
聖武天皇の頃には在ったのではないでしょうか。渡海よりは先じゃないかな。
いろいろある苦行の内でも、これはドッカリ定着したけど、ちょっと仙人になる修行に発想が近い感じがするんですよね。
ただ苦行と言うよりは「自殺」ですけどね(^^;)。。八百比丘尼もそうだったんですか。
 
     



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