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<のりちゃんさま
[近畿] 2004/06/14(Mon) 18:10>
> 孫市の街様
雑賀五組境界図ありがとうございました。
なんと、こうやって見たら、泉州ぎりぎりまでが、雑賀衆の勢力圏だったのですね。
とすると・・・。
すいません、話しが飛びますが、真田幸村の「真田庵」は、まさに、雑賀勢力圏内にあるということになるのでは・・・。
いえ。
先週の、「真田太平記」を見ていましたら、忍びの者が鉄砲を鋳造する・・・というシーンが出てきました。
ふと、真田幸村が雑賀の地に庵を作ったのは、雑賀衆との関係を重んじたからかも?とか。
・・・的ハズレかなぁ(^^ゞ?
すいません。
年表など、参考にさせていただきますm(__)m
<孫市の街さま [近畿]
2004/06/14(Mon) 22:43>
★★こたつ城主さま
早速、二番槍のご挨拶〜ありがとうございまする(^^ゞポリポリ
あちらでも、よろしくで〜す(*^o^*)/
もともと僕が博物館の方に教えてもらったりして雑賀衆について
勉強したのは、わが街が本拠だったと聞いたけど・・その証を
調べに行ったんです。五組地図のようの和歌山市と海南市が
ほとんど雑賀だった当事を知らない方にとっては、地名に残って
いる雑賀崎などが雑賀衆だと地元の方でもそう思っています。
それを説明するためでしたが、そのためには、厳密に・・
でも例えば専光寺の「血洗いの手水鉢」などには、どうしても
寛容にならざるを得ませんね(^^ゞポリポリ
>「鷺森別院」は、どこかの時点から受け継がれた建築とかでしょう
>か(じゃなくても、もちろん全然構わないと思いますけど(^^ゞ)。
こたつ城主さんが写真を見てわかるように新しいでしょ(^_^;)
いま残っている「鷺森別院」は、二度焼けてるんです。
戦争の空襲の時に大半が焼けたのと、それに何年前だったでしょう・・
不審火で全焼しました。毒カレー事件よりももっと前ですね。
10年くらい前かなぁ〜うちのお客さんが火の粉が恐いと
心配していらっしゃいましたぁ〜(^^ゞポリポリ
>「血洗いの手水鉢」などは伝承によるのでしょうけど、現在に
>まで大事に伝えられて来ているのですね〜☆ミ
この言い伝えについては、博物館で発表できない資料もみせてもらいました。
数少ない言い伝えですので、大切に残し伝えたいと思います。
>拝見して一番「嬉しい!」と思ったのは、やはり「雑賀五組」の地図です。
これ実は、湯気が立ってるようにホヤホヤの新情報ですよ〜(⌒ー⌒)
最新の研究紀要18によります。発行日は3月31日と書いてますが、
販売しだしたのは、今月に入ってからです。
>中央の「宮郷」が三組ですか。ここが信長の拠点となると、遠交近攻だったのかな。
ご存知のように根来衆は信長方についていました。
根来寄りの宮郷、中郷、南郷の三組は位置的にも根来に近かったことも
ありますし、雑賀と境界で争っていたこともあり信長の紀州攻めでは
三組が信長方につきました。
永禄五年の雑賀衆の表では、縦長で画面に入らなかったこともあり
左右に分けました。永禄五年時では、一つだった雑賀衆ですが、
のちに分裂する時の三組と二組に分けてありますねん(^^ゞポリポリ
そしたら永禄五年時の代表者の数が、二組19名、三組17名と
二組の方が多かったです。
経済的にも二組の方が海運業や漁業、外国貿易など鉄砲を沢山持てた
豊かさがありました。逆に農耕的には、三組の方が優れ、雑賀と十ヶ郷の
二組は農業的には貧しかったようです。
だから余計雑賀側(いわゆる雑賀党)から宮郷側(いわゆる太田党)に
境界で入り込みがあって、もめていたようです。そこに付け込んで
紀州攻めの口実を得たのが信長でした。もちろん石山合戦を打開する
ために本願寺援軍の主たる火の元「雑賀衆」を叩くためです。
>、「紀州雑賀鉄砲衆」などは、今後も編集して頂ければ嬉しいです(^^)。
日曜日には、ポルトガル大使杯の火縄銃の大会に長野まで遠征してる
はずです。デジカメでも撮影をお願いしましたので・・またご覧いた
だけると思います(^0^)/
★★のりちゃんさま
>なんと、こうやって見たら、泉州ぎりぎりまでが、雑賀衆の勢力圏だったのですね。
はい、一番広義の「雑賀」
(雑賀五組=雑賀一揆:一揆は一向一揆ではなく惣国一揆を意味する)は
和歌山市のほぼ全域と海南市の北部です。
>真田幸村の「真田庵」は、まさに、雑賀勢力圏内にあるということになるのでは・・・。
はい(^_^;)、残念ながら・・九度山は、高野山の麓でして
「真田庵」は、高野山の勢力化だったと思います。
ということで・・あの地図だけでは、ややこしいかもなので
戦国時代の紀伊半島の勢力図も同ページ(雑賀データ)から
飛べるようにアップしました。
広い紀伊半島からみると雑賀衆も小さい存在かもしれませんが、
高野山や根来のように有力な大寺院もなく大名もなく、紀伊半島で
一番豊かところを押せえていたのは、立派だったと考えたいです。
>ふと、真田幸村が雑賀の地に庵を作ったのは、雑賀衆との関係を
>重んじたからかも?とか。
紀州は、鉄砲が本州に一番最初に伝わった場所でもあります。
それは、雑賀ではなく根来です。津田監物によって種子島に
来た鉄砲が翌年には紀州に上陸しました。その関係で鉄砲は、
盛んな土地です。
>年表など、参考にさせていただきますm(__)m
はい、ありがとうです(^o^)
何かありましたらまた言ってください。
ページ作成の参考になりますので・・よろしく〜♪
<こたつ城主 [関東]
2004/06/15(Tue) 17:27>
>のりちゃん様
私も前から雑賀と高野山の関係ってどんなだろう?と思ってたんですが、チーター様のお話では、どうやら雑賀は小国独立の形を取ってたようですね。
真田一族が配流されてた関ヶ原(1600)〜大阪の陣(1615)の雑賀衆の事も知りたいですね(^^)。
ところで「真田太平記」ご覧になってるようで(^^)。
先々週は上杉景勝、先週は徳川家康、豊臣秀吉といった大物が次々と出て来ましたね。
そろそろ石田三成も登場です(覚えてますか? 「加藤君と石田君」(^^;))。
<こたつ城主 [関東]
2004/06/15(Tue) 17:30>
>孫市の街さま
新しいサイト、どうぞ頑張って下さいましっ(^^)。
専光寺の「血洗いの手水鉢」は、多いに結構ではないかと思います。
各地に「家康が座った切り株」「謙信の槍洗い池」「誰々の手植えと伝わる松」などがあり、ことに戦場史跡には建物がありませんから、地形が変われば史跡の存続が危ぶまれます。
雑賀五組については、私ちょっと勘違いしてたかもしれません(^^ゞ。
ちょっとその前に、地図を見ないと、ここの皆さんにもわかりづらいので、勝手にご紹介(笑)。
「雑賀衆」:http://saikashuu.fc2web.com/
チーター様の作られた歴史サイトです。メニューから「雑賀データ」→「雑賀五組図」。これが地図です。
昨日のチーター様の、のりちゃんへのレスにもありましたが、今日見たら、新たに、「16世紀頃の戦国時代〜紀伊半島の勢力配置」というのが加わってます。
(チーター様っ、もうちょっと字が大きいといいな〜〜〜(^∧^))
で、雑賀五組とは、南郷、宮郷、雑賀庄、十ヶ郷、中郷と認識しますが、これらにそれぞれ「一組、二組、三組……」と数が割り振ってあるワケではないのですね(^^ゞ?
最初に「宮郷などの三組は」と仰ったのを、「へぇ〜、宮郷が『三組』と(俗称か学説上の便宜で)呼ばれるのかな(゚.゚)」と思って、前回は喋っちゃってました。
これは「間違い」で宜しいですね?(笑)
そして、「宮郷だけが織田に通じていた」のではなく、「宮郷、中郷、南郷の(主に東部のあわせて)三組」が、元々織田に近い勢力である所の「根来」に近接していたため、織田の先導役を当初買って出た、ですね?
それに対して、「雑賀庄、十ヶ郷の(主に西部のあわせて)二組」は、豊かな海域に接していたため、海運業や漁業、外国貿易などを通じて鉄砲を沢山持てたから、根来の勢力(と通じた織田)に吸収される必然性に薄く……となると、この西の海域側が抵抗してたのでしょうか。
また、宮郷に太田党があったのですか(゚.゚)。それとも宮郷、中郷、南郷のいずれかにあったのでしょうか。
となると、最初は織田の勢力を引き入れた東部が、最後には秀吉の水攻めに遭いながら抵抗した、という事でしょうか。
また、信長が目をつけた(漁夫の利を得るために:笑)内紛とは、主に、西部(雑賀庄、十ヶ郷)と、東部(宮郷、中郷、南郷)の間であった境界争い、という事になるのでしょうか。
信長が「戦闘」によって従えようとしたのは、西部(雑賀庄、十ヶ郷)という事になりますか。そしてこれが、ある程度は軍門に下ったので、後に東部の太田党が孤立でもしたのかな(゚.゚)?
雑賀が高野山や根来などの大勢力に与せず独立していた点は、信長に目をつけられた反面、本願寺にも目をつけられた点かもしれませんね。信長の遣り方は、一点の染みも漏れもなく塗り潰すオセロのような物なので、本願寺もクサビを打つ手に出るという(^_^;)。
<のりちゃんさま [近畿]
2004/06/15(Tue) 19:39>
> 孫市の街様
かさねがさねありがとうございます>勢力図
おおいに参考にさせていただきます。
紀州は、土壌の違いというのもありますが、黒潮の関係で、いろんなものが流れ着き、いろんなものが出発する土地ですよね。
例えば、補陀洛渡海船は、那智から出発しました。
関東の茨城などの浜に、「うつろ船」が流れ着いたとする伝承が多く残るのはこれと無関係じゃないでしょう。
そういうことを考えると、むちゃくちゃ参考になりますです。
根来衆が鉄砲を手にするに至ったルートも海の便でしょうか?
真田庵が、高野山の権力下だったというのは、少し残念(?)ですが(笑)
これからもサイトの発展、心からお待ちしておりますますm(__)m
<こたつ城主 [関東]
2004/06/16(Wed) 19:41>
>のりちゃん様
のりちゃんの所も、熊野とか、紀州のお話がよく出ますよね(^^)。
今と地形が違うほど昔、南海(果てはインドネシア)の島々から果敢に大海を渡って来た人々が利用したのが黒潮と聞きます。
日本列島には、薩摩、土佐、紀伊半島に点々と上陸した、とか。
時期が一緒かわかりませんが、台湾の高砂族も南洋出身だそうです。
那智から出発した補陀洛渡海船と、関東の茨城に来た「うつろ船」のお話は初耳です。
千葉県も南端には、これらのルートの延長線が届いたのではないかと思ってます
鉄砲は、鹿児島の南海の種子島に伝来し(それ以前にも伝わってたかも(^^ゞ)、堺あたりを経由して各地に伝わって行ったんじゃないかと思います。
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