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「由利党レポート」
作/二見丹波守様
第5部「由利党の内紛3、大井五郎の死」
大井はこれによって十二頭旗頭に任命されたが、仁賀保はそれに大いに驚き、十二頭の有力者を呼んで協議した。今まで由利を荒らした大井に従うわけにはいかなかった。そこで、一斉に本拠地矢島を攻撃することを決定。しかし、大井は小笠原の血を引く名門であるために血を絶やすのは惜しい。そこで、弟を大井の当主に据えることにした。これに五郎の弟で留守を預かった与兵衛は賛同し、帰城を見計らって五郎を討つことにした。しかしこの謀反は一人の忠臣によって失敗する。いや、館を奪うのは成功したが、その忠臣は五郎の舅である小野寺茂通のもとへ逃れたのだ。
茂通をもってそのことを山形で聞いた大井は直ちに戻り、吹雪を利用してわずかな人数で自分の館を攻めた。五郎の戦いぶりと奇襲に兵士は逃げ、一気に城内に侵入、与兵衛も奮戦したがかなわず討ち取られた。五郎は与兵衛を刀で何度も刺し貫いた後に与兵衛の2人の子供の手をつかみそのまま下げ切りにした。
この内乱の直後秀吉から再び十二頭に「御陣触れ」が届いた。再び休戦して兵を肥前に派遣した。文禄・慶長の役どちらかはわからないが、文禄の役だろう。理由は後にわかると思う。しかし、実際にいったのは代表者で仁賀保氏のみだった。他はみな、代理を出している。
大井五郎もまた、昨年の内乱によって出陣しなかったが、かえってこれが命取りになった。いや、このまま出陣して領地を取られた方がよかったのかもしれない。五郎は秀吉に呼ばれていたからである。仮に領地取られたとしてもそれよりよい領地が与えられたであろうし、矢島に未練があったとしたら秀吉の威令で思う存分になったことだろう。しかも間違いなく朝鮮では島津義弘などと同じように活躍できたであろうとくやまれている。
この間、仁賀保を中心とする十二頭は矢島へと攻め込んだ。全員が相手なのでついに矢島は落城、五郎は小野寺茂通のいる西馬音内へ逃れた。しかし執拗な追撃によって家臣は討ち取られ、今の仙北群に入ったときは付き従う者が1人だけであった。それでも逃げおおせているのだからすごいと思う。
十二頭(大井も含まれるが)にとって五郎を取り逃したことは大きく、下手をすればこれを利用して小野寺が攻めて来かねなくなった。そこで、滝沢又五郎が一計を案じ、小野寺義道をけしかけることに成功した。下村・玉米は大沢山合戦の後、小野寺に幕下として付き従っていたためにこれを利用した。内容は「五郎が小野寺茂通のもとへ逃れたのはいずれ小野寺の領地を茂通と共に乗っ取るからである」と讒言するものであった。これを義道は信じ、茂通のもとへ兵を進めた。茂通はそれは十二頭の策と看破したが、逃れていた大井五郎はその責任を自ら背負い、自害した。文禄2年12月28日のことである。
これで内紛は終わったかのように思いますが、由利党の話は関ヶ原まで続いてます。