「由利党レポート」
作/二見丹波守様



第6部「その後の由利党」



 この後、十一頭と矢島の遺臣が争うこととなるが、矢島はついに奮戦の中全滅、由利に平和が訪れる。この話は資料がないために詳しいことが書けないので後にしようと思う。その前に関ヶ原の合戦が起こっている。十一頭は最上の指揮下の元、東北で戦うが、西軍のばらまいたデマを信じてしまい、大半が逃げ帰ってしまった。残ったのは赤尾津・岩谷・滝沢・仁賀保の四家のみだった。そのデマとは石田三成率いる西軍100万が北上、その参謀に直江山城守がついているということだった。東北にとって直江は恐るべき強敵だった。わずか数日で山形城の支城がことごとく直江の手によって攻め落とされているからである。このとき残る城は長谷堂城、ここが落ちれば山形城までは一直線となっていた。ここの話は味舌様が書いていたと思います。小野寺氏が寝返ったことです。
 合戦の後逃げた者は武士にあるまじき行為としてことごとく領地を没収、残った者は加増、または転封した。最上は庄内など3郡を与えられた。滝沢氏は最上の幕下なので、今の由利町に滝沢城を築城、晴れて1万石の大名となった。大井を滅ぼす決定的な役目をした滝沢又五郎は今後歴史舞台からその名前が消えている。原因はまだ分かられていない。ほかの生き残った3家は常陸への転封である。
 滝沢城は江戸に作られたので平城であった。大名滝沢政道(又五郎の甥)城下町計画に着手し、今の飯沢部落が栄えていたが城のある前の郷に人が集まり始めた。今現在前郷といわれるところである。城下町の名残はもちろんある。かぎ形になっており、敵が来たときにそこで待ち伏せるというものだったという。
 しかしながら滝沢城の命は短い。最上騒動によって最上が改易されるとその余波はもちろん滝沢に及んだ。最上の幕下であったために、同じく除封令によって改易になったのである。そして滝沢城は破却令によって打ち壊された。4年かけて作られた城もわずか16年で消えてしまったという。今現在は縄張りの後を知るよしもなく、残っているのは堀と土塁のみである。現在は前郷小学校となっている。その後の滝沢氏は仁賀保に鼻紙領50石を賜るが世をはかなみ自害したという。異説では、本庄(羽後本荘市)藩六郷氏に客分として仕えたともいわれる。残念ながら使った資料が由利町中心のため、転封した3家のその後はわかりません。おそらく旗本として存続したと思われますが。
                    了

 とまあ、こんな感じです。長い間ありがとうございました。この由利党一言で片づければ小説ロードス島戦記の舞台ロードス島のモス地方と全く同じです。普段内戦は耐えないが、対外の敵に関しては結束する。ちなみに友達に言ったら興味持ち始めてました。後半かなり適当で申し訳ありません。
  あと小野寺と大井の関係ですが、小野寺から側室をとったということですね。大井にはすでに娘がいるのですから・・・。しかしすごい顔をしていたのだろうなこの娘・・・。オヤジが熊のようなひげ面で背の丈が当時珍しく2メートルはあったといいますし。ちなみにこの時期の男性平均身長は157〜160とありますので現代人の166を下回ります。そんな世の中に200センチ以上のの人がいたというのはどのように思えたことでしょう。
 由利十二頭が誰だったのかかいてませんでした。更新する機会があったらそれにあげられる家を掲載したいと思います。実は12人以上います。一番多いときで17人も候補に挙がります。

     城主様 
 べつに編集はかまいませんが私自身レポートを最終日前日まで書いていなかったために一晩で即興に書いたものであって私自身出来は不満です。楽しかったことは嘘ではありませんが。(眠いを越えて頭がハイになっていたのかもしれないが)というわけで一応こちらとしても手直ししてます。日曜日に秋田へ行くため、もう一度図書館などで文献を洗ってみたいと思ってます。テーマが城下町と大名であったためにバランスをとるために合戦の様子などはかけなかったのです。もっとも城下町の様子は15枚中1枚でしたけど ^^;


第5部
「由利党の内紛3、
大井五郎の死」


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