「由利党レポート」
作/二見丹波守様



第4部「由利党の内紛2」



 滝沢氏滅亡後は大井氏と仁賀保氏の争いになっている。何度もこの合戦は続くが合戦の度に仁賀保氏は当主が討ち取られ、直流の血は絶えてしまった。そこで、仁賀保家の娘と同じく十二頭の子吉氏の次男とを結婚させ、婿養子に迎えた。迎えられたことで重勝と改名した。この重勝もまた大井五郎との一騎打ちによって首を取られている。いかに大井五郎が武略に優れた将であったというのがよくわかる。また、この時代に一騎打ちというのも珍しい。中国三國志や源平合戦では名乗りを上げた後に武将同士の一騎打ちが行われているが戦国になるとそれはほとんどない。戦国時代の戦い方はちょうど北条早雲の時になって始まったといわれる。そして鉄砲が入ることでさらに戦い方はかわっていく。
 この内紛が一時でも収まったのは天正17年(1589)の年の暮れだった。関白豊臣秀吉からの「御陣触れ」であった。それには、「明年は相州小田原の北条氏を討つから、由利十二頭もつまらぬ死闘をやめ、今から参戦の準備に取りかかり、最上少将(義光)の下知に従え」とあった。実際は秀吉は「奥州」を「おうしう」などとかいていたりしていたという記述があるので秀吉が書いたとは言い難い。ただちに紛争を中止し、由利十二頭は全員集まって会合を開いている。そして全員の意見一致で、これに従うこととなった。翌年の睦月中旬から全国は小田原出陣で色めき立った。東北は未だ天文の大乱以降、争いが絶えなかったが、このときは、相前後して行進するなどの奇観を呈した。
 『奥羽永慶軍記』によると由利十二頭のなかに滝沢又五郎の名前が見える。これは政家の弟で、政家の子嘉門が最上に仕えたために滝沢の遺領を継いだものである。また同資料では伊達・南部・最上らと共に領主の末席に名を連ねている。このとき大井氏は病気を理由に家臣である根井氏を代理に出した。
 大井五郎が小田原に出陣しなかったことによって、十二頭の中に不安がみなぎっていた。留守中に領内を荒らされるおそれがあったためである。そして、九戸政実の乱の帰国中に大井を討つ計画を他の十二頭が企てた。しかし大井は先の通り強く討つことも容易でなかった。そこで、最上をけしかけることにした。
 大井五郎は子吉に兵を進めた。この戦いで、ついに他の十二頭全員が大井五郎と戦った。さすがに数で劣る大井は敗北し退却した。時の仁賀保家当主勝俊は狂歌を持って大井五郎に送った。これに対し大井五郎は返歌を持ってこたえたとされる。
 大井五郎は当時、剛勇並ぶ者がいなかった。由利十二頭が秋田氏を助けて湊氏を討ったとき、大井五郎が先陣を受けてもっとも功をたて、土崎落城の要因をなしたことが記されている。しかし、一面風流の道にも通じた雅人であったといわれ、和歌の道を秋田城之介から学んだとされる。
 最上氏から大井宛に書状が届いた。内容は他の十二頭と戦って功名をたてていることを誉めたことと、十二頭の旗頭にするから山形へこいというものであった。大井五郎ははじめ、十二頭の最上に対するざん訴を聞いていたので、応じなかった。その後再び使者がきた。今度は「小田原に太閤殿下が小田原に来られたとき、五郎の武勇を語ったところ、殿下は感銘し、是非召し抱えて馬添えに取り立てたいとし、これについて来年自分と共に京都に来てほしい」という内容だった。今度は秀吉の朱印を賜ったために断ることができないために最上へ参上することを返答したという。


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