「由利党レポート」
作/二見丹波守様



第3部「由利党の内紛1」



 内部での争いはというと永禄2年(1559)10月、滝沢領の百姓と矢島領の百姓とがカヤ刈り場の境論から端を発し、ついに翌永禄3年4月18日両軍の合戦が始まったと『象潟郷土誌資料』第10巻にみられる。ちなみに象潟は奥の細道の北端で、松尾芭蕉が松島と見比べてみたかったところであるが、今は地震によって島が陸と化している。さらに『矢島史談』には、大井氏の客分となっていた履沢なる者が滝沢に通じたためとかかれている。
 この両氏の争いは由利十二頭の旗頭である仁賀保氏をも巻き込み、紛争は拡大していった。ここからは矢島・大井氏の視点から書いていこうと思う。
 滝沢氏は力弱く、大井氏を単独で破るのはとても無理であった。しかし、代々知謀に富む滝沢氏は巧みな外交手腕で仁賀保氏を味方に付けることに成功する。つまり旗頭である仁賀保氏が味方になるとすれば正義は滝沢方になる。
 大井氏はというと、大井五郎満安という者が現れることで強くなった。五郎は武勇の誉れ高く、この戦いで年少ながら殿軍をつとめ、活躍したとある。でも外見は髭ぼうぼうの熊のような男だったとあるから本当に年少であったかは疑わしい。
 この戦の後、大井は再び滝沢に向けて兵を進めている。この戦いで、滝沢館は平坦地で見張りも悪く、後方からの攻撃を受ける可能性が多分にあったために永禄4年、要害の地に館を定めた。しかし、水の確保が難しく、今度は水攻め(水路を絶つ攻め方)が行われる可能性が起こってきたので、永禄10年再び館を移転する。場所は知っているがあえて書かない。^^;
 しかし、これも大井の密偵の目に留まり、天正3年、再び大井氏に攻められることとなった。館は火をかけられ、さらに後方の山を大井方にとられたために一気に攻撃を受け、ついに城主滝沢政家多くの家臣とともに自害した。政家の一子は鮎川、仁賀保を経てその後伊達政宗と双璧をなす東北の勇将最上義光のもとへ逃れ、仕えた。

 ちなみにその館の近くが私の知人の家の近くで、館の近くをみるが、思い返してみるとその位置に館を築けばどうしても弱点は裏山になるとは素人ながらによく分かるのだが・・・。攻城戦のノウハウは一応知ってるけど。


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「人質集団自殺事件」



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