「由利党レポート」
作/二見丹波守様



第2部「人質集団自殺事件」



 こちらの資料から述べてますので前にあったとおり人質の真実などはよくわかりません。まして、本文はほとんど大学に提出したレポートの写しですし・・・。また、「道」の字が「通」になっていることもあります。
 由利十二頭は信州小笠原の一族から選ばれた。小笠原といえばかつて由里氏の残党が逃れたところである。その残党の一人が由利十二頭の一人に任命された。根城城落城の際に当主政春と弟維貫は自害したが、維貫の子維高は家老村上帯刀一行16人と逃れ、時の守護小笠原信濃守信貴の庇護を受けていた。これによって名字を改名し、滝沢氏を名乗ることとなった。滝沢とは滝沢郷という地名からきたものである(滝沢郷はうちの田舎の地名です。つまり小笠原の領地ではありません)。政春の自害から140年が過ぎようとしていた。
 全国は戦国時代に突入するが、由利は由利十二頭の統治のもと、いたって平穏であった。しかし、戦国時代も終盤、織田信長が勢力を伸ばしてくるころになって、北出羽は荒れはじめてきた。信長に臣属するために小野寺景通は雄勝城を出発、留守を嫡子義道に任せた。義道は万全の策として幕下から人質をとることにした。その命を受けて、十二頭は人質を送っている。この時期は秋田氏と小野寺氏の中が険悪になっていた時期である。
 由利十二頭の統治地域はは今の横手と秋田の間である由利郡である。つまり秋田とも関係を持っていた十二頭もいたということだ。これを察知した人質の一人石沢氏の母は、これを憂い、一緒にきていた人質である男の子供と共に自害する。自分たちが死ぬことによって、小野寺を討ってもらおうと考えたのだ。十二頭はこれにこたえ、兵5000をもって、大沢山に布陣する。これに対して小野寺方は8000、数に勝るものの結果は小野寺の惨敗であった。この戦によって小野寺は重臣14人を含め、410人戦死したとある。その後義道は人質を返すから心置きなく戦う様にとの書状を添えて自害しなかった幼女を返した。この行為に幼女の父である矢島(大井)、下村、玉米の3氏はこれに感謝し、今後は小野寺氏に味方することを返書として送った。さらに大井氏は小野寺茂道の娘を嫁に迎えている。

 ちなみに提出したときは規定が10枚でしたが、調子に乗って15枚くらい書いてます。もう10枚以上は軽かったですけど。たしか、テーマが自分のすんでいるところの城下町とそれを成立した戦国大名についてでした。一番楽しかった講義であることは間違いありません。  


第1部
「由利党、その発祥」



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第3部
「由利党の内紛1」


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