「東海乾坤記」
作/天陽様
第十四話 嗚呼悲哀
武田家中にあって山県昌景と並ぶ武将に、馬場信房がいる。昌景同様、信玄によって見出された男だけに、武田譜代という意識が強い。勝頼が後継になってからも、穴山信君のように表だって反対はしないが、重い抑制にはなっていた。慎重な保守派というのが、勝頼からみる譜代衆であるが、信房も類にもれない。
右翼を預かり、寄騎の諸部隊を中央の戦線に投入してからは、小隊を参戦させる以外はおおむね傍観に徹している。
「信玄公以来の合戦に次ぐ合戦で培ってきた武田軍団の結束を発揮すれば、まだまだ勝機はござります」
と、昌幸は窮余の策の絶対条件を提示していた。
頭ではわかっているが、失敗すればそろって全滅になる。信玄とともに築き上げてきた武田家への矜持と守りの姿勢が、信房の足を引っ張っていた。
――わしが動くのは最後の最後。
二の足を踏んでいる典厩隊や、後方の穴山隊が動いてからである。微妙な曲折の果てが敗北であったなら、殿軍となって勝頼を逃さねばならない。
曲折の果て。
それが悪いほうに傾いたのは武田軍だった。穴山信君の遁走である。
「馬鹿な」
と、その報告を受けた信房だったが、
(所詮は血筋だけの玄蕃か、三郎兵衛の戦死を耳にして臆病風に吹かれたのだろう)
と、あきらめと同情の混ざったものに思い直した。譜代家老衆といっても、さして実力をもたず家柄だけで名を連ねているものも数名いる。彼らが地位保身のみに固執している癌腫であることはよく知られている。逆に、逍遙軒信廉や一条信龍のように普段は鷹揚としていても、いざとなると頼りになる面々もいる。
「昌房、すみやかに退却なされよと勝頼様にお伝えせよ」
馬場信房は息子を呼んで、本陣にいくよう命じた。
「父上はどうなされるのですか?」
「わしは殿軍を引き受ける。鳶ノ巣山、長篠城には敵がいるゆえ、北へ退けとな。おまえは武藤、曾根らとともに勝頼様を御守りして躑躅ヶ崎まで随行せよ」
若い昌房には、穴山隊の遁走がそれほど重大事に思えなかった。
「よいか、昌房。穴山玄蕃は我ら将領間ではさほど評価の高い男ではない。されど、下のものたちにとっては亡き先代様にもっとも頼りにされた男なのだ。それが退いたと知って、士気が下がらぬはずもない」
その目には死に遅れた男の強い決意が宿っていた。
開戦から四刻あまりが過ぎたころ、退き貝が鳴り響き、武田軍はずるずると退却をはじめたのだった。
左翼では、山県昌景の戦死により、統制権を委ねられた原昌胤が銃撃に倒れた。昌景と同じように敵射程圏内に駒を進めての不幸であるが、同じ過ちを繰り返したわけではない。一条信龍がそうしたように、指揮官みずから前線にでなくてはならない状況だったのだ。また、捨て置かれた山県昌景の遺体から、家臣の志村又右衛門が首を切り取り持ち帰った。
その一方で、一条信龍と口論になった典厩信豊は退いた。穴山隊の遁走に続いたのだ。小幡隊・信廉隊は壊滅、宝川合戦で苦杯をなめた甘利信康は自刃した。
甘利信康は敗走する中で、中央の柳田というあたりに立っており、退き貝が鳴り響いた時、
「この堀、この土塁、土民の協力なくして造りえるものではない。我が死に懸けても、柳田に繁栄の道は開かせぬ。我が、死の呪いを思いしれ!」
と、立ち腹を切った。その場所は柳田の庄屋のあったところだった。一帯の宣撫工作に従事していただけに、無念も人一倍だったのだろう。余談だが、戦後に柳田の土民たちは甘利信康の呪いを怖れて、全員立ち退いたという。
中央を統制していた内藤昌豊もまた、戦死している。退き貝の音は耳にしたが、信じなかった。一点突破を試みている土屋・真田の両隊が二段目を越えたとの報告を受けたばかりだったので、浮き足立つ味方を束ねて最後の援護に出撃したのだ。硝煙で視界の薄らぐ中を、自殺行為に等しい攻撃に出た。中央の援護部隊が他にいなかったからだが、内藤昌豊も四秒射撃の的から逃れられず、泥濘に顔を埋めたのだった。
多くの部隊が全滅し、将が倒れ、勝頼も旗本衆とともに雪崩を打って退却に転じた。設楽原から出るには豊川を渡らなければならず、少ない細い橋に殺到していった。
これを見た鳶ノ巣山を抑えている酒井忠次ら奇襲部隊は、長篠城内の奥平勢の呼応を求めて包囲陣を破り、解放した。東の退路を封じられたため、武田軍は北へ向かう。当然のごとく、温存していた織田軍団の佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀らの諸勢が追撃を開始する。
さんざん突撃を繰り返しながら跳ね返されたという事実と、御親類衆の穴山信君・典厩信豊の遁走、さらに山県昌景の戦死などなど、諸要因が重なった武田軍に「統制」という文字は皆無である。崩れるようにして設楽原を抜けていく敗軍は織田軍の餌食でしかない。
「信濃にまでは追撃せよ」
と、信長は命じている。
追い込む織田軍は勇躍する。敵が逃げるばかりなので、命を落とす危険性もない。手柄の立て放題なのだから、専従足軽で構成される織田軍はひたすらに追撃する。
ところが、思わぬ反撃が待っていた。
混乱しながら退却していた武田軍が、反転して逆襲してきたのだ。信じられないような統制の許で勢いだけの織田軍から勢いを削ぎ取っていく。馬場信房の手勢であった。武田流軍学の中に「かくれ遊び」という戦法がある。変幻自在、進退周旋な陣形でもって、敵を翻弄する戦法であるが、馬場隊はこれを実践した。
織田軍の中には、佐久間信盛のように三方ヶ原の戦いに参加した将もいる。信玄の戦史のうちでもっとも芸術的とされるこの戦いでも、かくれ遊びの戦法がとられていた。当然、おののくものも多く、守備に徹することで被害をほとんど出していない織田軍が、追撃に転じた途端に多くの被害を出したのも皮肉である。
馬場隊は退いては反撃し、反撃しては退くことを繰り返し、勝頼の退路を確保した。が、多勢に無勢、衆寡敵せずである。殿軍でいくら敵を打ち破ろうとも、致死率の高いこの役を担った時点で結果は見えていた。
「わしの死に様こそ、武田の姿ぞ。かかってこいッ!」
次々と部下が倒れていく中、信房は豪槍を振るい続けた。
敗走する勝頼は豊川を渡って、その東岸を駆けた。馬場隊も豊川西岸まで退いてきたが、遂に渡ることなく踏みとどまり戦い続けた。
修羅となった信房だが、寄る年波には勝てないのか、岡三郎左衛門という若武者と組み合いになり、若さにおいて負けた。落馬し、組み伏せられ、脇差しの冷たさを味わった。
最期に思ったこと。
(もっと早くに殿軍をすべきであったか……)
陣代となった勝頼のために、刺し違えても盤石な体制を整えておくべきだった。勝頼を当主に就けるための政争の殿軍を、ということであろうか。
馬場信房が命の最期の灯火を燃やしている頃、さらに苛酷な場所でまさに最期の輝きを放つものたちもいた。
真田信綱・昌輝兄弟だ。
野城は三段構え。その一段目は一条信龍が土屋昌次の後詰めで突破した。二段目は土屋昌次が真田兄弟の後詰めで突破した。これは一段目のように空堀を屍体で埋めるほど攻めていないため、わずかに残っていた金堀衆も投入した。連吾側を渡るために用いた梯子状の架橋を、二段目の空堀に渡したのだ。工作は言うほどに易くはない。投入された金堀衆は全滅し、工作を助けるために特攻した土屋昌次が戦死した。
犠牲の上に犠牲を重ね、さらなる犠牲によって突破していく。勝てる戦しかしてこなかった武田軍の不思議なまでの結束だった。
――残すは一段のみ。
その向こうに信長の本陣がある。全滅は承知の上だが、野城の後方を攪乱する意義は高い。実弟の武藤喜兵衛昌幸が戦前の牛久保奇襲で行おうとしていた戦術を、信綱と昌輝は戦中に行おうとしていた。奇を衒い敵の本拠を衝くというこの戦術は真田家の御家芸として、彼らの子々孫々へ受け継がれていくことになる。
――やれぬことはない。
敵の鉄砲隊とて当初のような機械仕掛けの自動作業を続けているわけではない。度重なる突破によって乱れているのだ。
「後詰めはみえるか?」
彼らは銃声轟く野城深くに攻め入っていたため、退き貝が吹かれたことを知らずにいた。
信綱の問いに、昌輝は首を横に振った。信綱は自身で十以上の首を挙げ、その返り血をあびて視力が低下していた。
「ままよ、昌輝」
「御意、それがしが先に参りましょうぞ」
寡黙な兄弟は昌幸を含めて読心力に長けていた。そう、兄二人を少しでも援護しようと、退き貝が吹かれる前に、昌幸が命じていた金堀衆がいくらか追いついていたのだ。お互いの真意を一言二言で察することができたのだろう。
さらに二人に福となったのは、織田軍には追撃令が出されており、野城から出るために馬防柵や土塁を壊して空堀を埋めはじめていたのだ。これは主に左翼のほうなので、中央の一点を攻める真田隊への影響は、鉄砲隊の指揮系統がさらに乱れることだった。
真田昌輝の部隊は、二段目で土屋昌次がやったのと同じように金堀衆の架橋工作を援護するため、絶え間なく猛攻を仕掛けた。
――兄者、先に参る。
真田昌輝は三段目の空堀に沈んだ。
そして、昌輝の戦死と引き替えに、真田信綱は三段目の土塁を越えた。続くはわずかに四〇余、目指すは信長本陣。