「東海乾坤記」
作/天陽様
第十五話 与えし者
すでに織田軍の追撃部隊が馬場信房を破り、徳川軍も野城から出撃した。
万事油断のない信長でさえも、長年の宿敵であった武田軍を破ったという実感に浸っていた。その心胆を寒からしめたのは、
「三段構えを突破した敵の一部が本陣に向かっております!」
という、まったく予想外の報告であった。本陣には、旗本以外は残っていない。勝ち戦に投入済みだったのだ。
信長は即断する。
わずかな手勢を率いる真田信綱が信長本陣に突入した時、信長はさらに後方の嫡男・信忠の本陣に立ち去ったあとであった。向かってくる兵数を聞いて迎撃を指示すると、万一に備えて退いたのだ。信長を冷静にさせたのは、すでに勝頼を敗走させ、殿軍の馬場隊を壊滅させているという紛れのない事実である。一条、土屋、真田とつないだ一点突破は遅すぎたのだ。
無事、信忠本陣へ入った信長はひどく思い詰めていた。
「仙千代はおるか」
「はっ、これに」
お気に入りの万見仙千代がすぐに駆け寄った。
「五郎左の許へ出向け。早急にじゃ」
丹羽長秀は佐久間信盛らとともに武田軍を追撃しているはずである。
「承知、して何と」
「追撃は信濃までじゃ。それ以上の追撃をするものは斬り捨てよ」
これは信長にしては珍しいことだった。
すでに同様の命令を出している。信長はそれを忘れていたのではない。命令自体は同じでも、言葉にできない部分で大きく戦略を立て直していたのだ。
――武田は、まだ強い。
信忠本陣へ立ち退くまでのわずかな間、信長は五年、十年先の見通しを変更していた。おそるべき戦略眼である。
そもそも、信長の最たる特長は戦略眼である。多くの奇抜とされる行動を起こしているが、それらのほとんどは先人たちの遺業を真似たものだ。有名な楽市楽座にしても、六角定頼が規模こそ小さいが同様のことをしている。信長はその効果のみを見据え、長い目で見た影響を読み切っているからこそ大規模に実施したのだ。
信長の当初の戦略の中で、武田家の滅亡はこの年であった。
三千挺の鉄砲を投入し、土木工事で野城を建設し、完膚なきまでに武田軍団を打ち破ったのだから、その利益を得ねばならない。甲斐まで攻め込み、武田家にとどめをさすはずであった。最初の命令で追撃を信濃までと留めようとしたのは、本隊が追いつくのを待たせるためである。そして、命令変更。
――まだ、武田家を亡ぼすことはできぬ。
信長の考えを変えた要因は何であったのか。
「お蘭はおるか」
「はっ、これに」
即座に森蘭丸が駆け寄ってきた。
「余の本陣へ戻り、遺体を丁重に弔うよう指示せよ」
「はぁ、ははっ」
蘭丸は訝りながら駆けていった。
これも信長にしては珍しいことである。蘭丸は主に敵対したものを弔うという観念があったのかと訝ったのだ。
――安いものだ。
信長は大きな過ちを冒すところであった。それを気づかせてくれた勇敢な武田兵を弔うことなど安いものだった。
蘭丸が信忠本陣を発った頃、すでに目標である信長が退去していることなど知る由もない真田信綱は、返り血で朱に染まった甲冑で突撃を敢行する。
――紅の陣羽織、六連銭の旗印――
この光景は見るものを恐怖させるというよりも、美しさに酔わせた。
一心に、ただ目的に向かって血と汗を流す。その先に待っているものは、絶対なる死だけ。彼らは味方のために己の存在を否定したものたち。
「すべては武田家のために」
信綱は残った味方を三つにわけて、時間差で突撃させた。敵が鉄砲を構えて待ち受けているのはわかっている。三つのうちどれかが標的になる。そして、弾込めの間に残りが蹴散らす。
――まだ、あきらめぬぞ。
自分たちを三段目の向こう側へ立たせるため、犠牲になった者たちのためにも倒れるわけにはいかない。
「いけッ」
一つは自身で率い、残りも一族のものに委ねた。
まず一隊が右翼となって襲いかかる。しかし、鉄砲は射撃されず白兵戦となる。
さらに左翼となったもう一隊が突入する。しかし、銃声は鳴らない。
「いくぞ」
小さく、信綱は命じた。敵は鉄砲を構えていないのか。寡兵と侮っているのか。そんな疑問もなくはないが、躊躇して考えている時間はない。
(我が身の死は、必ずどこかに影響をもたらすはず。大きいか、小さいか、いずれにしても無駄にはならぬ)
信綱の部隊が突っ込む。
「撃てぇぇーッ!」
轟音が信綱の視界を消失させた。核になる中央だけを狙うよう指示されていたのだろう。先頭切って駆けていた信綱が銃弾を交わすことなど不可能だった。また、部隊といっても十数名程度、倒れるときはいっしょである。
彼らは数十挺の鉄砲の一斉射撃を受け、華を散らせた。
常勝武田軍が敗れた瞬間だった。
真田隊、全滅。
信長の戦略を大きく変えさせたもの、それは個々の部隊による単独突撃という作戦を、一点突破のみを目標とする総攻撃へと変更させたという事実。加えてわずかに届かなかったものの、その目標を達成し本陣へ突入してきたという事実。この二つが、現時点での武田討伐をあきらめさせたのだ。
信長は後から知ることだが、もし穴山信君が無傷の手勢を前線に投入し、馬場信房が真田隊の後詰めとなっていたなら、三段構えを突破しただけでなく、信長本陣をも突破されていた。
「まだまだ、信玄の遺産が生きている。しばらくは手出し無用ぞ」
と、自分に言い聞かせる信長であった。
銃声が鳴りやみ、風が吹きはじめていた。