「東海乾坤記」
作/天陽様




第十三話 玄蕃放棄


  信長の青筋は張り裂けそうなまでに微動していた。
 一見して軟弱者と思える青白い顔も紅潮している。信長が怒りを感じている証である。こういう時はどんな用事でも、誰も声をかけられない。かけたものが八つ当たりされるからだ。サル顔の如才なき男だけが希代の天才の感情を操れることを除けば、他は見守るしかない。
 しかし、信長は怒りに分別を失っているように見えて、その内では脳細胞の一つ一つを活性化させ、最大動員であらゆる手立てを考え抜いている。
 信長の思考を乱したのは、少し前に伝令が駆け込んできてからだった。
「武田軍が総攻撃に転じた模様にござります。当方の鉄砲隊が分散され薄くなったところを……」
「突破されたか!」
「は、はい。中央の一段目が一町ほどにござります」
「敵は?」
 と、訊かれても何を答えていいかわからない。近侍の万見仙千代が、
「一段目を突破した敵はどうなされているのですか?」
 と、小声で補足する。
「敵は、その一町ほどの隙間に殺到し、二段目に寄せてきております」
 それっきり信長は黙り込んだ。
 総攻撃であるのなら、突破した部分から先を目指すことも大事だが、他の部隊の攻撃を内側から援護することも優先される。武田軍はそれをしていないという。
 信長が持っていた勝頼率いる武田軍団の像は「極めて正攻法」というものだった。信玄没後以来、勝頼の行ってきた軍事行動のすべてが正攻法であり、奇を衒ったものは一つもなかった。しかし、今現在の武田軍の作戦は部隊ごとの優勢を競うかのような単発的な突撃から、総攻撃に見せかけた一点突破の攻撃に切り替えられている。信長にとって、もっとも嫌な作戦で攻めてきているのだ。
 ――我慢くらべか。
 と、信長は判断した。

「一条さま、お退きなされい」
 土屋昌次が喧騒の中で一条信龍に退却を促していた。
 一段目を突破した一条隊は、続く二段目の一点のみに突撃を行い、空堀を屍体で埋めていった。
「一条隊は壊滅しております。この上は、それがしと後続の真田隊にお任せあれ」
「うむむ……もはや、やむなしか。頼むぞ、昌次」
 この期におよんでは信龍もあきらめるしかない。十分に戦果をあげて道を開いたのだから満足であろう。
 一条信龍が退き、入れ替わりに前線に出てきたのが真田信綱・昌輝兄弟の部隊である。
 そして、彼らのあとに馬場信房が続くはずであった。しかし、馬場隊は動静を探っており、不安が残った。
「おお、信綱どの。後続の様子はいかがにござるか?」
 土屋昌次の心配もそこにあった。この作戦の成否は全滅した部隊を踏み越えて続く後続にかかっている。
「わからぬ。馬場さまを信じるほかあるまい」
 寡黙な真田信綱は当然のことを言っただけだった。

 その頃、右翼と中央の中間あたりの後方に布陣している穴山隊が動き出していた。
 御親類衆の筆頭である穴山信君を死地に赴かせるための説得は、昌幸と内匠の二人で行われた。
 おおむねの作戦を説明しおえたあとの反応は、
「其の方らよくもぬけぬけと、かようなことが申せたものぞ」
 という罵声であった。
「だから、わしは反対したのじゃ。そもそも、四郎を主戦にたきつけたのは其の方らであろう!」
「お怒りもっともなれど、今は我らの責任を論じている時ではござりませぬ。我らの罪はこの戦が終われば神妙に受け入れる所存にござります」
「ほう、反省はしておるのか。じゃが、その作戦は受けられぬぞ」
 きっぱりと信君は言った。
「なぜにござりますか?」
「なぜも何もないわ、愚か者め」
「他に良い作戦があるのであれば、かような挙にはおよびませぬ」
 昌幸は一歩も退かぬ態度を示した。
「すでに総攻撃ははじまっております。とにかく右翼の馬場隊の位置まで移動してくだされ。さすれば、馬場隊が敵左翼に攻撃できます。山県さま亡き今となっては、右左翼を中心にした攻撃は不可能、されば中央の一点のみを突破するが得策にござります。どうか、ご了承くだされ」
 曾根内匠は現状の窮境を説いたのだが、思わぬ失言が交じっていた。
「なに?! 今なんと申した。三郎兵衛は死んだのか?」
 信君の顔に明らかな狼狽の色が走った。
 そう言えばまだ伝えていなかったことに気づき、内匠が死の様子を説明した。
「……わかった。其の方らは本陣に戻り、四郎を補佐せよ」
 状況を理解した穴山信君はそう言った。この意味を、内匠は本陣も同様に動かせという風にとったが、昌幸は信君の狼狽に不吉なものを感じた。
「繰り返しまするが、まずは右翼の前線まで移動し、馬場さまと詳細を話し合ってくだされ」
「わかっておる」
 と、信君はうるさい蠅を追い払うように、二人をさがらせた。
 その後には妙な虚無感が残った。
 ――あの山県昌景が死んだか。
 反目することが多かったが、武田家中でもっとも一目置いていた男である。それが死んだと知った途端、信君は弱気になった。  そして、穴山隊が動いた方向は戦場のある西ではなく、反対の東であった。


第十二話
「決死猛攻」

戻る

第十四話
「嗚呼悲哀」

進む