「東海乾坤記」
作/天陽様




第十二話 決死猛攻


  設楽原のど真ん中、激戦は硝煙の雲に隠され双方の本陣からは伺い知れない。
 かつて、これほどの不思議な戦闘があったのだろうか。謎ともいえる武田軍の突撃に次ぐ突撃の裏には、真なる状況を把握できずに味方の優勢を予想して、ひたすら突撃させた背景があった。ただし、それは前半戦に限ってのことである。
 信長の築いた野城の一段目は未だ健在である。しかし、常勝武田軍が二刻あまり攻め寄せて無傷というわけにはいかない。連吾側には数多の橋が架けられ、馬防柵前の空堀は屍体で埋まっている。
 武田軍は戦場から本陣までの間にかなり隔たりがあるが、織田・徳川連合軍はそれほどでもない。戦況は軍監の目を通して、逐一信長の許へ報告されていた。
 その信長、自分の思い描いた戦術どおりに事が進んでいるにも関わらず、白い顔の額に青筋を立てていた。
 側には丹羽長秀がいる。
「五郎左」
 長秀はびくんと肩を震わせた。柴田、佐久間に次ぐ宿老であっても、呼ばれれば緊張する。
「右衛門の布陣するあたりに、敵は攻め寄せてきたか?」
「敵右翼の馬場美濃守、未だ動く気配なしとの報告にござります」
 ピクリと青筋が動いた。右衛門とは佐久間信盛のことである。
 内応工作をさせた佐久間信盛を敬遠して攻めてこないのか、それとも内応を信じて待っているのか、信長には判断ついてない。
「全軍臨戦態勢に入れ」
 例のごとく、短く命じた。全軍とは、待機中にある各軍団長が率いている本隊のことだ。
 ――武田の将領はこぞって愚か者か?
 という疑問が信長の胸にはあった。
 これだけ攻めて戦果を挙げられなければ、なんらかのかたちで作戦を変えるのが当たり前である。それが撤退であると、信長は確信しているのだ。馬場信房が動かないのは、あるいは本陣と作戦面で齟齬がある所為かもしれないとも思った。
 しかし、その実態は単に戦況をつかみきれてないだけである。さすがの信長も、硝煙と爆音によって武田本陣が疑心暗鬼に陥っているとは思いもよらなかった。

 そして、その武田本陣に武藤喜兵衛昌幸と曾根内匠昌世が帰還していた。
 両名は馬場・内藤の許を訪れて一点突破の総攻撃を進言して快諾を得た。その足で穴山信君の許へ行こうとしたが、先に勝頼の承諾を得るべきと考え直して戻ってきたのだ。
「つまり中央の一点を突破するために、他の部隊は囮になるということか」
 一通りの説明を受けた勝頼も、ここにきて自軍の劣勢を理解するに至っていた。
「御意にござります。何もせず退いたとしても、そうとうな追撃を受けます。同じように大きな損害を出すのであれば、前進すべきです」
「それはわかった。じゃが、義兄上も囮にするのか?」
「少しでも突破の確率をあげるためには、少しでも多く敵の鉄砲隊の的をつくる必要があります。穴山さまの説得には、拙者が参りますゆえ、勝頼様の承諾をいただきたく存じます」
 内匠、昌幸の圧迫にも、勝頼はなかなか屈さない。
 ――己らの浅慮が招いた事態ではないか。
 という蔑みの心があるからだ。
「典厩さまと一条さまはすでに動き出しておりましょう。即刻の決断を」
 と、じれったくなった曾根内匠は言った。
(わしに断りもなく、こやつらは勝手に……いや、それだけわしに実力がないということか)
 ここに至って、勝頼も昌幸らの作戦を承諾した。

 その頃、武田典厩信豊と一条信龍は口論していた。信龍は信玄の弟であるから、信豊からみれば叔父にあたる。
「我が隊の屍を乗り越えていくとはどういうことにござる」
「言ったままじゃ。そなたの部隊が全滅するまで突撃し、全滅する直前にわしの部隊でもって突撃する。敵の鉄砲隊を休ますことなく、あの構えを突破するのじゃ」
「かような作戦、それがしは御免こうむります。いかなる人にも、それがしの部下に死を強要させませぬ。まして、己は後方の安全な場所にいて、部下に死ぬまで攻めよなどと命じられるわけがござらぬ」
 典厩信豊はそれが将たるものの務めと言わんばかりに、要請を断った。断り方が気に障ったのか、信龍の口調も荒くなる。
「馬鹿者め、なぜわしの言うことがわからぬッ」
「何と言われたか、叔父上。今の言葉、聞き捨てなりませぬぞッ」
 こうなってはまとまる話もまとまらない。お互い甲冑を纏って気分が高揚しているため、意見が食い違ってしまえば第三者の介入なくして、一致は不可能である。しかし、両名ともに一門衆、その場に調停できるものはいなかった。
「されば、勝手にせい!」
 この一条信龍の売り言葉に、典厩信豊は自隊の一時撤退でもって応えた。
 対して、信龍の意地がこれに反応する。
「進めい。死して、後続に道を開くのじゃッ!」
 すさまじい気迫でもって、信龍は突撃を命じていた。
 典厩信豊の言葉を見返すためなのか、初めからそのつもりだったのか、一条信龍は自身も『うし』に隠れて、射程圏深くまで入って指揮を執った。
 見かねた土屋昌次は、
「一条さま、これ以上はお控えなされよ」
 と、諫める使いを出したが、
「一段目の突破がわしの役目じゃ。それを為すまでは退かぬ。其の方は後詰めせよ」
 と、信龍は返答した。
 すでに他の部隊も動き出している。左翼の原隊、中央の内藤隊が一条隊・土屋隊の援護のために拡散して野城に打ち寄せる。
 未だ動いていない部隊は、穴山信君、馬場信房、典厩信豊の三隊である。典厩隊は先に述べたとおり、穴山隊は説得中、そして馬場隊は含むところがあった。
(昌幸の作戦でも可能性は極めて低い。最悪の場合はこの無傷の部隊でもって殿軍をつとめあげねばならぬ)
 馬場信房はそう判断して傍観している。穴山隊が右翼の位置まで動けば、馬場隊も総攻撃に加われるが、まだ動いていない。

 一縷の望みを賭した昌幸や内匠らの作戦が未完成のままに、一条・土屋両隊は屍を越えて、遂に一段目を突破するのだった。


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「一縷一点」

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