「東海乾坤記」
作/天陽様




第十一話 一縷一点


  「まんまと乗せられた我らにも勝機があるというか。おもしろい。さすがは一徳斎どのの倅よ」
 実をいうと、馬場信房は野城の情報が伝えられた時点で、昌幸と同じ結論に達していた。沈黙を守っていたのは佐久間信盛の内応を待っていたわけではなく、いかにしてこの窮地を脱するか考えていたのだ。しかし、信房は全軍撤退しか思い浮かばなかった。
 昌幸はその心を悟っているかのように、
「今、撤退はままなりませぬ。敵の戦闘員は鉄砲隊だけにござる。すなわち、後方で待機している滝川や丹羽らの部隊は、これすべて追撃を念頭においてのこと」
 このまま撤退しては、さらに信長の思うつぼとなってしまう。
「ふむ。して、我らの勝機とは?」
 一条信龍が先を促す。信房もうなずく。
「信長という男は、一つの目的を達成するためなら、いくらでも力を注ぎ込み、準備を整え、待つことができます。されど、その目的を達成することが怪しくなったなら、勝つための前提が一つでも崩れたら、一片の惜しみもなく、あきらめることのできる性格にござります。あの野城も同じこと。なんのために三段も構えてあるのか?」
 一段では自信がなかったからだろう。二段でも、あるいは突破されるかもしれないと危惧していたからだろう。
「信長は追撃以外で、あの野城から出る意思を持っていない……」
 真田昌輝がポツリと呟いた。
 これで馬場信房も、昌幸の言わんとすることを理解した。
「昨夜の宝川合戦のように、陣内からの射撃で突破をあきらめさせて退かせる。それを後方の本隊でもって追撃する。それが信長の描いている戦術なのだな」
「御意にござります」
 信長が勝利するための前提が、三段に構えた野城を突破されないことである。要はこの前提を崩せばよいのだ。どこか一ヶ所でも、三段すべてを突破すれば戦況を覆せる。
「信玄公以来の合戦に次ぐ合戦で培ってきた武田軍団の結束を発揮すれば、まだまだ勝機はござります」
 と、昌幸は締めくくったが、途端に馬場信房の顔が曇った。果たして今の家臣団が結束できるか不安があったのだ。また、軍団は互いに独立した部隊から成っており、それらが別々の意思で動いているのだ。今は各個独自に動いている。それをまとめるための意思統一は、敗北を疑ってない状況では一筋縄ではいかない。
 もう一つ不安があった。それを真田信綱が突いた。
「頭ではわかっていても実行できぬのが現状ぞ、昌幸。どうやって構えを破る」
 馬防柵は金堀衆の手を借りずとも容易に壊せる。土塁もそう高いものではない。しかし、空堀は問題である。一発必中の射程圏内で、三間もある空堀を越えることは難しかった。
「戦闘開始からすでに二刻、三番手の小幡隊までの壊滅は報告されております。されば、空堀などは屍体で埋まっているはず。右翼の諸隊は中央に移って、ここを一点突破していただきたい」
 伏せ目がちに昌幸は答えた。前日、牛久保奇襲部隊の甘利信康らに行ったのと同じく、「死んでくれ」という意味が含まれている。
 確かに一段目の空堀はこれまでの攻撃によって多くの屍体が転がっている。だが、二段目以降は、自分たちが犠牲になって後続のための道を開かなくてはならない。
 前日の、甘利・浦野の両将のごとく反発されるかもしれない。そのために、昌幸は家臣団の結束という言葉を用いたのだ。他の将のために、己を犠牲にする。それしか方法がなかったのだ。
 昌幸は最低でも兄二人と馬場信房は理解してくれると思っていた。だが、
「おもしろい。喜兵衛よ、おぬしとの付き合いも長い。こっちでは俺も自信があるが、頭ではおぬしにはとても勝てぬようだな」
 と、腕を叩きながら土屋昌次が豪快な笑い声をあげた。二人には信玄の近習を務めていた頃からの友誼がある。
「喜んで、死んでくれるわ」
 昌次は、はっきりと言った。
「されば、物事には順序というものがある。まずは我が隊が一段目を突破してみせようぞ」
 と、一条信龍も覚悟を決めた。信龍は信玄の弟である。
「本筋は一点突破、されど攻撃は本陣を除く武田全軍でもって行われなければ効果はうすかろう。左翼はすでに全隊突入しておろう。修理(内藤昌豊)と玄蕃(穴山信君)どのとも意思統一を図らねばならぬ」
「内藤さまに関しては存念なく。曾根内匠が拙者と同様に説明しておりましょう」
 勝頼から戦況視察を命じられた時点で、昌幸と内匠は全軍の意思統一を図るため、独自に動こうと示し合わせていた。彼ら勝頼側近の若手たちが主戦派であり、山県ら老将らが反戦派であった。
 論理的に敵の弱点を説いた主戦派と、明確な理由もなく撤退をおした反戦派。いざ開戦となると、主戦派たちは狼狽した。
 ――乗せられた。
 彼らは一様に己の浅慮を恥じた。恥じると同時に、次の一手を練ってきたのだ。そして出した結論が、中央の一点突破だった。
 それを全軍に伝えるためには、自分たちの過ちも認めなければならない。反戦派でも、馬場信房や内藤昌豊らは「今さら詮なきこと」と前向きに耳を傾けてくれるだろう(実際、傾けてくれた)が、穴山信君らはそうもいかない。
「拙者はこれより穴山さまの陣所に向かいまする」
「うむ。わしはしばらくここを動かぬ。そのほうがよかろう」
「ははっ」
 昌幸は一礼して走り去った。三段構えの突破は、ここまでのように部隊ごとの単発的な突撃では難しい。全軍が息をつかさぬ突撃を各所で行い、敵の疲労を誘う人海戦術で、文字通り屍を越えて突破せねばならない。
 反戦派だった面々を「死地に赴かせる」ことが、武田勝利の前提であるのだ。
 昌幸が去った後、
「信綱、そなたの弟は立派よな。あれから若さが抜けて老獪さが芽を出したなら、武田家も安泰であろう」
 と、馬場信房は言った。
 どこか、意味深な言葉であった。


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