「東海乾坤記」作/天陽様
第十話 無限環戦
太陽が高くなるのに比例するかのように、武田軍の死傷者も増していた。
山県昌景が死と引き替えに、本陣へもたらされた貴重な情報も、未だ全軍へ伝達されるに至っていない。本陣の勝頼は落ち着き払って側近と供に微動だにしていないが、戦況を正確に把握していない。まともな戦況報告が一切ないのだ。
「どうなっておるのか、さっぱりわからぬ」
「霧は晴れた模様にござるが、鉄砲の硝煙激しく前線の様子わかりかねます」
秋山光次がもう何度目かの同じ台詞を繰り返した。
「昌幸、内匠、其の方ら見て参れ」
勝頼もいい加減苛立ち、かつて「信玄の両の目」と謳われた武藤喜兵衛昌幸と曾根内匠昌世の両名に前線へ赴くよう命じた。 昌幸は右翼の馬場信房の許へ、内匠は中央の内藤昌豊の許へと向かった。
その頃、武田軍の重厚な攻撃が本格化していた。
左翼を統率していながら戦死した山県昌景に代わり、原昌胤がなんとか統率しているが、山県隊はすでに全滅に近い。中央から、二番手に仕掛けた逍遙軒信廉の部隊も然りだった。ちなみに、信廉は昌景のように最前線に出なかったので無事である。中央は、内藤隊も加わっているので、そうとう厚みができているはずである。
しかし、部隊後方で指揮を執る各将たちの予想に反して、前線は一段目すら突破できていない。本陣を介して山県昌景の情報が伝わってきているが、泥沼と空堀の存在はどうにも打破できていない。さらに、硝煙の向こう側が優勢であると信じて、次々と後続が突撃してくるので意識を修正する暇がなかった。
そんな中で、未だに右翼は沈黙を守っていた。
統率するは馬場美濃守信房、【不死身の鬼美濃】の異名を取る勇将である。その指揮下には真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次、一条信龍などがある。なぜ馬場信房ほどの経験豊富な将が、左翼中央が猛攻を仕掛ける中で沈黙しているかというと、彼らの対面に佐久間信盛が布陣しているからである。
『日頃よりの信長の仕打ち許せぬ。返り忠を誓い、戦中に信長本陣を衝かん』
と、戦前に佐久間信盛は内応の約束をしている。
織田家臣団で、柴田勝家と並ぶ宿老の信盛が裏切るはずもないと、この約束に多くが懐疑心を抱いていた。勝頼とて、
――真実であれば儲けもの。
程度の思慮でいた。気楽なものである。
実際に真偽を見極める役は自然と馬場信房に押しつけられた。歴戦の将でも、この判断は難しい。左翼を率いた山県昌景が思っていたように、信房もまた、
――右翼が勝負をわける。
と、必要以上に気負っていた。
剛勇でならす土屋昌次が、幾度となく突撃命令を要求してきたが、信房は耐えた。しかし、いつまでも沈黙しているわけにはいかない。御親類衆の一条信龍あたりが独断で動く可能性もある。
唯一、石のごとく信房の命令を待ち続けていたのが、真田兄弟である。信濃先方衆として信玄に召し抱えられた真田幸隆の遺児たちである。幸隆は戸石城攻略など、数々の謀略戦を指揮し、晩年は上野経略を任されていたほどの重臣である。信綱・昌輝兄弟も、父とは逆に質実剛健な武者ぶりを発揮し、馬場信房の寄騎として三増峠の戦いなどで活躍している。信玄以来の重臣の中で、勝頼が本音で信頼できたのはこの二人だけだといわれている。
その両名の許に信房からの使番が訪れた。
「殿、馬場さまの召集にござります」
いよいよ決断かと、両名は無言のままに床几を立った。
すでに土屋、一条の二名は焦れ顔で待っていた。
もう一人、信綱・昌輝の弟にあたる昌幸も、本陣からの使番として来ていた。
昌幸は二人に恭しく頭を下げると、単刀直入に本題へ入った。
「馬場さま、佐久間信盛の件は忘れるべきにござる」
「それは本陣の意思であるか? わしは佐久間の件について一任されておる。勝頼様の意向であれば従うが、それは其の方の考えであろう」
「御意にござる」
昌幸は幾分も悪びれるところなく言った。
「喜兵衛、勝頼様の用向きだけを伝えよ」
小生意気な弟を、寡黙な兄・信綱が諌止するも、信房は意に介さず笑みさえもらした。
「存念なきよう述べよ。ここには小うるさい方々もおらぬゆえな」
普段は彼らの所為でいろいろと抑えつけられているが、馬場信房は昌幸の実力を見抜いていた。本当は勝頼も見抜いているが、当主でないという微妙な立場から、御親類衆のほうを立てねばならず、昌幸や曾根内匠などの進言を退けることが多かったのだ。
「佐久間信盛の内応の件、どう思うか?」
と、信房が問うと、昌幸は口元を緩ませた。
「その前に重要な話がござりまする。お歴々の方々、決して他言いたさぬようお願い申しあげます」
山県昌景が死んだ。昌幸があっさり言ったため、さすがの信房も硬直した。この事実は左翼の一部と本陣を除いては漏らしていない。士気に関わるからだ。
「真のことか、喜兵衛。山県さまが、あの山県さまがか?」
「今、左翼を統率しておられるのは原どのにござる。秘中の秘、この合戦が終わるまで他言無用にござります」
昌幸はこの大事にさえ、顔色一つ変えず黙している兄二人を尊敬した。
――大将の鑑よ。
戦場では常に冷静でなくてはならない。取り乱し気味の土屋、一条の二人は結局のところ次の山県昌景にはなれないだろう。
「して、それが佐久間の件を忘れろとの理由か?」
馬場信房も血が止まったのは一瞬だけであった。
昌幸は首を振ってから、
「拙者はこの戦、信長にうまく乗せられたと考えております。当方がつかんでいた敵軍の士気の低さは偽りにあらざるが、あれだけの鉄砲を並べれば関係ありますまい。脆弱な馬防柵を張り巡らせ、佐久間信盛に偽りの内応を約束させたのもすべて、当方に著しく不利な泥沼の設楽原へ引っ張り出すための伏線にござろう。見抜けなかったのは拙者の不覚」
「今さら詮なきこと。判断するための情報が少なすぎたのだ」
信房は同情の念を表してやったのだが、当の本人は口ほどに気にしていない。
「左様。信長は野城の陣容を探られまいと、厳戒態勢を敷いて斥候の目に触れさせませなんだ。されど、このこと、逆に利用できまする」
昌幸の目が光った。