「東海乾坤記」
作/天陽様



第八話 二個失敗


  午前五時を過ぎようとし、雨はすっかり上がっている。
  大決戦の朝。
  太陽が燦々と輝き、灰色の雲は地平の彼方へ追いやられる。梅雨前線が北上した日と重なっていたのだ。これを偶然と呼ぶべきか、それとも勝者側の天運なのだろうか。

  両軍が布陣する設楽原、その武田軍の後方拠点・鳶ノ巣山に風雲急が告げられる。
  すでに天神山まで軍勢を進めていた酒井忠次の迷いは、雨雲が流れた時点で空と同じく晴れていた。
「酒井どの」
  金森長近がすり寄る。
「うむ。部隊を三つにわける。一つは鳶ノ巣砦の表口、一つは同裏口、一つは周辺の砦、さしあたっては中山砦を攻めよ」
  ただちに全軍に通達され、半刻後に出陣することとなった。
  ――信長とは神か魔か。
  晴れるか晴れないかの差で、勝敗をわけかねない差がつくと予想された。着陣以来の悪天候が、決戦と定めた日に限って晴れようとしている。
  ――勝頼の運も、信玄公と同じく叶わなかったか。
  午前六時、鳶ノ巣山で喚声があがった。
  武田方の各砦の守兵は、迂闊にもまったく不意を衝かれた。甲冑具足を身に着ける間もなく、裸同然のまま戦わねばならなかった。これは正規の兵でない周辺砦の浪人衆において多く見られた。
「撃て、撃て! この一戦に勝利せずして、あの辛苦にどう報いる」
  と、忠次以下、奇襲部隊の将はがむしゃらに攻め寄せた。
  さすがに、鳶ノ巣砦の武田信実の正規軍は裸とまではいかなかったが、武器と気持ちの差は大きかった。周辺砦が次々と炎上していく中、一つの曲輪をめぐって攻防戦が繰り広げられた。
  忠次の寄騎として従っていた松平伊忠が戦死したものの、浪人衆の頭目数名の首を挙げた。周辺砦を落とした部隊が、鳶ノ巣砦に現れると勝敗は決した。武田信実は自害して果て、砦は朝日の昇る空を炎で焦がした。
  もちろん、この炎は包囲を受け続けている長篠城内からも見えたし、設楽原の武田本陣からも確認できた。

  その武田本陣。
「申しあげます。鳶ノ巣砦の武田信実さまよりの伝言にござります」
  銃声によって主だった将領たちはすでに集まっている。その中を鳶ノ巣からの伝令が駆け込んできた。
「なんじゃ」
「砦を守り抜くこと困難とのこと。すでに周辺の砦は攻略され、浪人衆で戦場に留まっている者はおりませぬ」
「そのようなことは存じておる。して、信実は何と申しておったかッ」
  焦りは誰の胸にもあったが、もっとも表に出していたのが穴山信君であった。
「は、そのままお伝えいたす。この信実の死を少しでも惜しむのであれば、即刻甲斐へ引き揚げられよ、とのことにござる」
  この報告を聞いている頃、まさに信実は自刃におよんでいた。
  ――どうする?
  と、いう問いが全員の脳裏を去来した。このままでは鳶ノ巣砦を落とした奇襲部隊が長篠城を解放してしまう。そうなってからでは退却もままならない。しかし、前進して敵本隊を破ったなら、後方の敵は蜘蛛の子を散らすように逃げるかもしれない。
「大膳亮は戻ったか?」
  勝頼がまず口を開いた。
  小幡大膳亮、老練の斥候である。今朝方より、野城の陣容を探るべく敵陣に近づいているはずだった。
「先ほど、戻って参りましたが、首尾のほうは……」
  無事戻ったことが、すなわち収穫のない証でもあった。
「ここに呼べッ!」
  焦りからか苛立ちを隠せない勝頼は、直接叱責するつもりだった。自軍の後方奇襲作戦が失敗に終わっている今となっては、選択肢は進むか退くかの二つ、それを即断せねばならなかった。しかし、進むためには敵の情報が足りなすぎていた。
  小幡大膳亮が引見されてきた。
「たわけが! おめおめと手ぶらで戻ってくるとはなんたる無様か。おのれの保身のために、武田全軍に夜道を進ませるつもりか!」
  いつになく勝頼は厳しかった。
「勝頼様、大膳亮とて手を抜いているわけではありますまい」
  と、内藤昌豊が諫めようとするも、
「黙れ! よいか、大膳亮。今一度、敵陣を探ってこよ。次に手ぶらで戻ってくるのなら、その首はないものと思え!」
  大膳亮は勝頼に追われるようにして死地に向かった。そして、射程距離内に一歩一歩と足を踏み入れ、馬防柵ちかくまで侵入する。昨夜までの雨によって、設楽原を濃霧が覆っていたからだ。
  そこで、大膳亮は驚くべき仕掛けを発見する。馬防柵という「見せかけ」の裏に潜む、信長の罠を。しかし、大膳亮が本陣に帰還することはなかった。見つかり、射殺されたのである。

  午前六時、武田軍突撃開始。


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