「東海乾坤記」
作/天陽様



第七話 成否之鍵


  すでに日付がかわって五月二十一日になり、時刻は午前二時ごろになっている。大決戦まで、残すところ四時間ほどの猶予しかない。結果を知っている諸兄方には、今しばらく両陣営の動きを見守ってもらいたい。
  合戦において、両陣営が不思議なほど似たような思考になることはよくある。
  酒井忠次の率いる鳶ノ巣山奇襲部隊が設楽原の南を流れる豊川、さらに南の船着山の南麓を進んでいる。道は険しい。一方で、設楽原の北を武田軍の牛久保奇襲部隊が粛々と進み作手高原を抜けた。
  その瞬だった。
  高原から平野部に出たところ、正面に織田の軍旗が林立していた。そして、一斉射撃の銃声が轟く。
「すでに知れていたかッ!」
  まるで奇襲部隊がそこに現れることを知っていたかのように、簡単な柵が作られ鉄砲隊が多く投入されていた。
  織田軍の鉄砲隊は精確であった。十分に調練を積まれた鉄砲隊、指揮をとるのは佐々成政だった。
「撃てい、撃てい! 近づくものだけを撃つのじゃ」
  佐々成政はあくまで柵の内側から、接近してくる敵だけを撃つように命じていた。信長からは、敵を壊滅させるのではなく、追い返せとの達しを受けている。戦闘を短く終わらせて、後方での混乱を避けるというのが信長の意図であった。ゆえに、鉄砲隊指揮経験豊富な成政を抜擢したのだ。なぜそれだけの用意周到さが可能だったのか。
  それは高原の進軍中、織田軍の哨戒網に引っかかっていたのだ。詳しく言うならば、戦場を避けて作手高原に待避していた民たちや、高原に暮らす民が、武田軍の動向を逐一織田本陣に通報していたのだ。牛久保奇襲の立案者である武藤喜兵衛昌幸は、早くから民たちの人心をつかむべく作手において宣撫工作を実施していたので安心していたのだが、民の心は未だ徳川家にあったようだ。
  さらに、山林の中から伏兵が襲いかかる。
「ぬう、味な真似を。迎え討て!」
  甘利信康は即座に迎撃を命じた。が、迎撃したところでどうなるものでもなかった。
  ――勝っても、負けても、捨て駒ではないか。
  牛久保まで敵に見つからないことが彼らの生きる道だったのだ。
「浦野どの、先に退かれよ」
  退却は容易であった。正面の織田軍は執拗ではなかった。追っ払うことで可と命じられていたのだろう。そして、山林の伏兵は正規の兵ではなかった。土民たちが扮して、旗指物を掲げ、太鼓などを打ちならし、声を挙げているに過ぎなかったのだ。
「不覚……されど、もう遅い」
  作手の宣撫工作に尽力していたのは、他ならぬ甘利信康だったのだから無念であろう。甘利信康は来た道を引き返すしかなかった。
  奇襲部隊の死傷者はわずかに二〇〇、この損害が宝川合戦の全容を物語っている。合戦というほどの衝突がなかったのである。

  雨が、あがろうとしていた。
  時刻はまわり、午前四時を過ぎている。
  武田軍後方拠点の鳶ノ巣山砦、守将は御親類衆の武田信実である。決して華やかな戦功を挙げてきた武将ではないが、堅実さにおいてこの任は適役といえる。
  信実は鳶ノ巣山以外にも中山、久間山、姥ヶ懐、君ヶ伏床の四ヶ所に砦を築いて部隊を配置していた。その部隊の構成は、信実の手勢を除けば浪人衆であった。このあたりがよくわからない部分である。せっかく雇った浪人衆をなぜ後方に配置したのか。野城への突撃は正規の軍勢だけで行いたかったのだろうか。
  いずれにせよ、鳶ノ巣山の武田信実も、周辺砦を任された浪人衆もまったく油断していた。当時の夜襲と呼ばれる作戦は、おおむね明け方に行われる。ところが彼らが眠りにつく頃は豪雨であった。この雨の中を攻めてくるとは考えなかったし、鉄砲が攻城戦に有効と考えられはじめていたので、その鉄砲を大量に抱える織田軍が強行に出るなどと思いもよらなかった。
  そして、織田軍の奇襲部隊は鳶ノ巣山より南に四半里ばかりの天神山で、戦闘準備を整えつつあった。こちらは土民の協力もおおいに得られた。得られたと言っても、土民たちの中に武田本陣に通報するものが出なかっただけであるが、武田軍の牛久保奇襲が土民のせいで失敗していることを考えると、まず協力を得られたと言っても良いだろう。
  奇襲部隊を率いる酒井忠次、彼は迷っていた。
  ――鉄砲を生かさない術はない。
  忠次は、信長が五〇〇挺もの鉄砲を託した真意を探りかねていた。鳶ノ巣山奇襲が決定した段階では豪雨であった。雨が上がるとは限らないし、上がらなければ鉄砲は行軍の重荷でしかないのだ。
「酒井どの、いつまで待機するつもりか?」
  目付の金森長近が天を見つめる忠次の傍にいた。
「今しばらく……」
「されど、敵に気づかれてはせっかくの強行軍が無駄になる」
  長近も一廉の武将である。攻城戦に鉄砲が使えないのは痛いが、ここで待機していて先に敵の攻撃を受けるのは立場上、もっと痛いのだ。
  ――どうする、忠次。
  天空を睨み続ける酒井忠次であった。


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