-
「東海乾坤記」
作/天陽様
第五話 野周舞踏
日が沈み、雨は依然として激しく降り続いている。
日付はまだ五月二十日の午後六時頃、後世にその名を残す『長篠の戦い』は、翌二十一日の早朝午前六時頃よりはじまる。したがって、まだ半日ほどの時間がある。そして、この十二時間のうちに、長篠・設楽原合戦の幕は上がっていた。
織田信長本陣。
軍議が行われていた。
着陣以来の突貫工事で行われていた野城は、日没前になんとか完成しているが、今もって信長以外の将領でその明確な意図を知るものは極めて少ない。彼らの疑問は、ここまで堅固に築城してしまえば、かえって敵は寄せてこなくなるのではないか。そして、そうなった場合、如何にして精強無比な騎馬軍団を退けるのか、ということである。
上座の信長は答えてはくれない。ただ、命じるだけである。それは形式上、対等な同盟関係にある徳川家康に対しても例外ない。家康の家臣たちに対しても、同様である。
信長はまず指名した。
「酒井忠次」
徳川家臣団の一方の旗頭で、家康の最重臣である。
「ただちに一隊を率いて、鳶ノ巣山を抑えよ」
甲高い声はその具体内容までは決して語らない。そんなものは逐一言わない男なのだ。
鳶ノ巣山には、武田軍が設楽原に出てくる折りに、長篠城の抑えの拠点に定めた砦がある。武田信実が守将となり、周辺の山々にも布陣している。信長は、実際のところ勝頼が抑えのために配置したのではなく退路確保のために配置したと判断している。そのために、ここを抑えれば武田軍は浮き足立つし、勝った暁には道のよい平野部の退路を遮断できる。
「寄騎に金森長近を付ける。鉄砲も五〇〇挺ほど貸し与える」
以上であった。
要するに戦場を迂回して、敵陣の後方にある拠点を奇襲せよとの命令である。ゆえに、地理に明るい徳川家のものが選ばれたのだが、貴重な鉄砲五〇〇を割くというのが他の将領たちを驚かせた。
――並々ならぬ大役。
と、忠次は思った。失敗すれば、自分の腹だけでは済まないかもしれない。が、そこは徳川四天王の筆頭として三河衆を牽引してきた誇りと実績がある。評定の場をあとにした忠次は直ちに奇襲部隊の編成に取り組んだ。
嫡男の酒井家次の他、松平伊忠、牧野康成、菅沼貞盈、そして道に詳しい設楽貞道らが従い、金森長近ら織田軍と併せた奇襲部隊四〇〇〇が進発したのは午後八時頃だった。
武田勝頼本陣。
依然として撤退を主張するものが、くすぶっていた。穴山信君らである。他のものたち、例えば山県昌景や馬場信房などは腹を括って各隊の持ち場などを決めている。こちらも軍議の真っ最中であった。
勝頼は黙して語らない。ここまできた以上、決戦より選択肢はないからだ。
「左翼はわしが統率しよう。右翼は美濃守に任せる。中央は穴山どのがよろしかろう」
と、山県昌景が言った。中央を実質的に統率するのは勝頼である。戦下手な穴山信君でも、鶴翼の中央なら務まるし、面子も保たれる。逆に、両翼は突撃だけが戦術ではない。
「各隊の持ち場は後まわしでよかろう。それよりも、野城の陣容はつかめておらぬのか?」
発言力の高い逍遙軒信廉が山県昌景の発言を遮った。いざ決戦となったからには、敵を知ることが第一である。信玄以来の伝統として、敵を知ることは最重要とされている。わざわざ小部隊を派遣したりする威力偵察を行うなど、武田家では徹底して戦前に敵を知る努力がなされる。
長篠から設楽原に移動するより前、敵軍が到着した時から多くの斥候を放っているが、未だ生還したものはいない。生還したものも多くいるが、それらはたいした情報を得ることなく帰還している。
「未だ有力なものはつかみきれておりませぬ。遠目に眺めて、二重三重の馬防柵があるのはわかりまするが……」
「話にならぬな」
「されど、ここ数日の雨で視界も悪く、仕方のない部分もござる」
「さにあらず。敵は万全を期して我らが突撃してくるのを待ちかまえる体勢、その陣容も詳しく知らずして突撃ができるはずもない。もし馬防柵以上のものがあったら、なんとする。もっと偵察を強化させよ」
普段は鷹揚な逍遙軒信廉も、生死が懸かるとなると頼りになる。しかし、いくら叱咤してみても、敵陣容を探って帰還する斥候はいなかった。
「敵の陣容を知ることもさることながら、拙者に一案ござります」
と、発言を求めたのは武藤喜兵衛昌幸であった。
勝頼がうなずき、意見を促す。
「敵の野城がどうであれ、当方があそこに突撃するばかりが戦術ではありますまい」
途端に山県昌景のこめかみがピクリと動いた。突撃について論じている自分をあざけっていると感じたが、ともかく聞こうと抑えた。
「敵をあの野城から引っ張り出す方策も試すべきかと思いまする」
「馬鹿な、馬防柵を築いて騎馬隊の突撃を怖れている敵が、そこから出てくると申すかッ」
「まあまあ、穴山どの。喜兵衛の意見も聞いてみようではないか。何か具体的な方策あっての発言であろう」
いきり立つ信君を抑えて、内藤昌豊が続きを促した。
「牛久保を奇襲できませぬか? あそこを奪えば、野城の中に篭もりっきりというわけにはいきますまい。前進して当方に攻撃するか、後退して牛久保城の奪回をするか、いずれにせよ勝機が見出せるはず」
「道がない。ここから牛久保までは、南の豊川に沿って南下するのが妥当じゃ。されど、豊川一帯は設楽貞道の勢力下ではないか」
「御懸念もっともにござる。されど、誰もが妥当と考える道を使っての奇襲は、奇襲と呼べますまい。北の作手高原を通り、宝川を渡って、牛久保に到達できまする」
昌幸は山県昌景の問いを一蹴した。
「ふむう、悪くないやもしれぬな」
まず、馬場信房が賛成した。そのために多くの将領も悪くないと思いはじめた。が、昌幸はみずから「されど」と前置きしてから、
「奇襲部隊の兵数が問題にござります。生半可な兵数では、敵の哨戒部隊さえ突破できない可能性もありまする。されど、これ以上、本隊から兵を割くのも難しいと存じまする」
と、自身の方策の問題点を指摘した。
「確かに、現状でさえ敵と二倍の兵数差がある。奇襲が失敗に終われば、最悪の場合で全滅もありうるゆえ……」
こういう判断は勝頼の出番である。じっと昌幸の発言に聞き入っていた勝頼も、実のところ奇襲の考えがあったのだ。
「亀山と宮崎の留守部隊でもって、牛久保に奇襲をかける。喜兵衛、甘利信康と浦野幸久の許へ行き、詳細を説明してくれ」
勝頼は本隊から兵を割くことを避けた。甘利・浦野の手勢は併せて一五〇〇ほど、昌幸はもう少し欲しいと思いながらも、両将の守る砦へと向かった。これ以上は、昌幸の地位ではどうしようもなかったのだ。
武田軍の奇襲部隊が進発したのは、酒井忠次の奇襲部隊よりもわずかに先であった。