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「東海乾坤記」
作/天陽様
第四話 雨設楽原
五月十九日、空には不機嫌な蜘蛛が巣を作り、八本の足で踏んばったままである。
わずかな平野、騎馬を馳せさせることのできる平野、確かに天上から見れば武田騎馬軍団にとって絶好の戦場なのかもしれない。しかし、よく見るとそうではない。平野一面を薄い膜が覆うように、水が張っている。普段は田園地帯、すでに田植えを終えているので水面になっていてもおかしくはない。水に隠された正体は、膝まで埋もれる泥沼である。時期が秋なら、騎馬軍団の土俵だったであろう。
その水面の西側、着陣以来ずっと続けられていた土木作業が追い込みに入っている。織田・徳川連合の足軽たちの野戦築城は厳命である。持ち場を離れることはもちろんのこと、できあがった木柵や空堀、銃眼など、信長の意を受けた検視の目をパスできなければ、職務怠慢とされて処罰され、作り直させられる。美濃から大木を担がされ、ここにきて不安定な天候の下での苛烈な作業、不満の声は当然高まっていた。
「噂に名高い武田騎馬軍団の餌食になりたくなかったら、この築城にすべてを懸けよ。決戦の明暗を、今わけていると思えば楽なものであろう」
と、軍監たちは作業を続ける足軽たちを励ました。
一方、医王寺山の武田軍本陣には主だった将が集まっていた。長篠城を攻略できぬまま、意見は二つにわかれつつあった。
「もう一日あれば、長篠城は陥とせるはずだ」
攻城戦の指揮を執る穴山信君は現状維持を主張する。
「不安定な天候で、我が方の鉄砲隊には期待できませんぞ」
武田逍遙軒信廉の進言は、暗に同じ攻め方を続ける信君では陥とせないと言っていた。逍遙軒信廉は信玄の弟である。穴山信君に異論を唱えることのできる家臣は信廉をおいて他にはいない。
「わかっておる。されど、このまま撤退もできまい。何の実も得ぬまま帰国しては、武田家の威信に傷がつく」
「もう二、三日で梅雨も明けまする。その前に退却の命令を下しておかねば、兵が逃げ出し収拾がつかなくなることも懸念される。現に、一千単位の逃亡が相次いでいるのですぞ」
「逃亡が嫌なら、こちらからいくらかを帰せばよい。さすれば不満も減ろう。どの道、敵の追撃はないゆえな」
「穴山どの、あの野城をご覧になられての発言と思われるが、織田信長に関して、目で見たものをそのまま受け容れることはままなりませんぞ。敵が野城に篭もるとの先入観にとらわれていては、奇策への対応が遅れまする」
逍遙軒信廉と穴山信君の口論に誰も口を挟むことができなかったが、誰もが撤退を頭に入れていた。兵数差がある。時間の制約がある。信君にしても、長篠城を攻略してからの撤退を主張しており、設楽原に布陣する敵と戦うつもりなど毛頭なかったのだ。つまり、両者の口論は、長篠城を攻略するという最低限の目的を達成するか、しないかのものである。
二人の口論がやむと、山県や馬場、内藤らが意見を出し合った。そして、彼らの意見が出尽くしたのを見計らって初めて勝頼が口を開いた。
「みな撤退を考えているようだが、昌幸、其の方はどう考えておる?」
御親類衆、重臣たちの総意は撤退である。勝頼はあえて、若い武藤喜兵衛昌幸を名指しした。信玄が重用した真田幸隆の三男で、勝頼が目をかけている男だ。
「拙者は設楽原へ出るべきと思いまする」
と、昌幸は堂々と言った。
なぜか、という勝頼の問いに昌幸は弁舌をふるった。
「まず此度の遠征の目的は、当初より信長を誘いだし、家康を引っ張り出し、野戦にて叩くというものだったはず。設楽原には織田・徳川連合軍が布陣し、当方が来るのを待っております。なぜ今さら撤退なさるのか、敵方は当方の戦略に乗ってきたのですぞ」
昌幸は諸将を見渡した。
「控えよ、昌幸。かようなことは皆々方、百も承知じゃ」
と、昌幸を叱責したのは実兄の真田信綱である。
「されど兄上、連合軍の士気は下降しております。特に、織田軍の状態は数日前の長篠城兵と同じにござる。岐阜からの行軍の状況は報告されているはず。また、陣容から察するに鉄砲でもって当方の騎馬隊を狙撃しようとの意図でござろうが、あれは連射のできない代物、木柵など騎馬隊で易々と破れましょうぞ」
これには一同もうなずいた。だが、古参の重臣たちの間では信長に対する警戒心がある。遠目でのぞく限り、頑丈に見えない木柵を構えるあたり、裏があるのではと考えてしまうのだ。
反対に勝頼は喜兵衛に賛成であった。同じ規模の遠征を行うだけの余裕がないし、信玄の後継者として認められたい願望もある。喜兵衛の言うとおり、敵はこちらの戦略にはまってきたのだ。決戦を避けるなど、農繁期と承知で遠征してきたことを否定することになる。初めから、決戦が目的だったのだ。
「本日をもって、医王寺山の本陣を払い設楽原へ出る。長篠城からの反撃は考えにくいが、最低限の抑えを残すことにする。以上じゃ」
勝頼は軍議の総意を覆し、決戦に挑むことを告げた。
山県昌景と穴山信君が同時に何か言おうとしたが、それより先に、
「武田家の家宝、御旗・楯無に誓って、織田・徳川連合軍を設楽原で破る」
勝頼が武田当主のみが許される誓言を口にした。ひとたび当主がこれを宣言すれば、当主であろうとも覆すことのできない絶対の決定とされているものだ。昌景と信君は閉口するしかなかった。
翌日、武田軍は設楽原へ移動する。
長篠城への抑えとして、武田信実を鳶ノ巣山において二〇〇〇を預けている。設楽原に布陣した武田軍は一万九〇〇〇である。前日に決戦に挑むことが通達されると、夜のうちに多くの兵が脱走した。累計で六〇〇〇という。
そして、この五月二十日はおりからの豪雨であった。両軍対峙の距離がわずかに四半里でありながら、お互いの陣容を視認することはできない。連合軍の木柵の前方を流れる連吾川も増水し、徒歩で渡るのが困難になっているし、空堀の底には水が貯まった。
この日の豪雨が、決戦の勝敗を大きく左右することになる。