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「東海乾坤記」
作/天陽様
第三話 信長着陣
雨は激しさを増していた。
梅雨である。武田兵の間から湧きあがる不満の声が日増しに多くなっている。早く帰国して田植えを終えなければならない。今すぐでも遅いくらいだが、勝頼に帰国の意思はない。
長篠城の攻囲は依然として続いていた。二の丸まで占領し、残るは本丸のみの裸城にしているので、落城は時間の問題と見られる。
勝頼は穴山信君以下の主だった将領を集めて軍議を開いた。その席での開口一番に、
「長篠城への攻撃をゆるやかにせよ。本丸を陥としてはならん」
と、命じた。
「何故か?」
山県昌景や馬場信房らはすぐに理由を察したが、穴山信君などから声があがった。
「信長が岐阜を発った。今、長篠城を陥として、また引き返されるわけにはいかぬ。徳川軍と合流したところを全力をもって叩く!」
強い決意だった。その決戦に、信玄の夢をはじめ様々なものが懸かっているのだ。自分の家中での立場を確固たるものにするためにも、武田家の将来のためにも、負けられない決戦になる。
戦前、対上杉の最前線にあたる川中島の海津城から呼び寄せた高坂弾正が反対した理由の一つが、絶対に勝てるという確証がないことだった。後年の信玄は五分五分の戦などしなかった。勝てる戦にしか挑まなかったのだ。まず調略によって崩すだけ崩す方針である。武田家の調略を担う諸国使番衆の動きは凄まじい。勝頼も諸国使番衆を引き継いでいたが往年のように使えなかった。なぜか。信玄の調略の源は金山であり、その金山は渇する兆しが見えているからだ。もはや、凄まじい調略に注ぎ込むだけの予算がないのだ。今回の遠征にしても、二度と同じ規模の遠征が行えないほど武田家の財政は切迫している。そういう意味からも負けられなかった。なんとしても、織田・徳川を撃破して、裕福な土地の遠江・三河の覇権を手に入れる必要があった。
「天気に詳しい者の話では、もう数日中に梅雨明けという。長居は無用ぞ」
「わかっておる。されど、当方が仕掛けた決戦じゃ。この遠征の大きな目的を果たさずして帰国はならん」
信君と勝頼の議論は、主従とは思えないものだった。それほど、勝頼の地位は低く見られていたし、信君の勢力は増長していた。
見かねた内藤昌豊が、
「信長に決戦に応ずる気持ちがなければ、高天神の時のようにゆるゆると行軍してくるはず。我らはそれを見極めて、進退を決めるべきでござる。長篠城は本丸を残すのみの裸城であれば、いつでも陥とせるよう務めるべきじゃ」
と、両者の食い違いを仲裁した。
実際、長篠城兵の士気は極限まで下がっていた。城将・奥平信昌の脳裏には、昨年の高天神城を見捨てた家康が浮かんでいた。信長の援軍なくば、家康に出撃するつもりはない。それはつまり、主君ではなく、その盟友の意思に家臣の命運を頼んでいるということになる。
(なんたる情けなき主か……)
信昌にしても、家康の心情はわかる。勝てない戦に挑んで、長篠城兵以上の損害を出したくない。しかし、預けられている家臣の生命を、隣国の盟友に預けるなど決して納得できるものではない。奥平信昌は信長の家臣ではないのだ。
逃亡する兵が出ていた。城が、長くない証だった。
武田軍は昼夜をおかずの人海戦術で攻め立ててきていたので、城兵の疲労は目に見えて弱っている。兵糧はまだ存分にあるが、それを食べるだけの時間がない。生米をポリポリ噛むだけである。
その城兵の士気が一瞬にして高まった。
「織田・徳川連合軍は現在、牛久保のあたりを進軍中にござる。城内の方々、もうしばらくの辛抱にござる。援軍は、もう二、三日で到着いたすぞ!」
と、城に向かって叫ぶ者がいたのだ。はじめは武田の策略か何かだと思われたが、叫ぶ者の顔をよくみれば、先に城を抜けさせて吉田へ遣いにやった鳥居強右衛門だった。どういう経緯か知らぬが、武田兵に付き添われた強右衛門が朗報を叫んでいた。
城内は歓喜に湧いた。
同時に、強右衛門は武田兵に口をふさがれ引きずられていった。
翌日、織田・徳川連合軍は長篠城の西に広がる設楽原へ着陣した。
茶臼山に本陣を敷いた信長は、ただちに各将へ馬防柵を築くよう命じたが、おまけがついていた。
「馬防柵の前に空堀を掘り、底には竹槍を植え付けよ。馬防柵の後には空堀を掘った土を積み重ねて土塁を築き上げよ。土塁には銃眼を開けて、土塁に隠れて鉄砲が撃てるようにするのだ」
信長はこれを三段造るよう指示している。簡易の城に近いものである。
案の定、軍議の場がざわめいた。この野城が完成すれば、騎馬隊を鉄砲で防ぐことになるのは明白だった。
雨は、ここのところ、降ったりやんだりを繰り返している。武田軍が、晴天を選んで突撃してくると限らないのだ。雨が降っていれば、鉄砲は使い物にならない鉄の筒と化す。織田諸将の杞憂は一様にそこに尽きたが、信長への質問など許されない。だから、蟻のごとく従うだけである。
ただ一人、竹中半兵衛という者だけは何となく信長の意図するものを読んでいた。彼は主の羽柴秀吉に告げた。
「設楽原は田園地帯、そして降雨の影響もあいなって泥沼になっています。いかに武田騎馬軍団が疾きこと風の如しでも、あの泥濘の中を疾駆することは不可能。雨中では鉄砲も使えないが、騎馬隊も使えないのです」
したがって、武田軍が雨中に攻撃してくる可能性が少ない。そう言った半兵衛にしても、信長にしても、今回の試みは初めてである。織田軍が持参してきた鉄砲の数は実に三千挺、これが同時に火を吹いた時にどうなるかなど、誰にも知る由もないのだ。
織田軍の野城の建築は三日に渡った。
その間、武田軍が長篠城から目と鼻の先の設楽原へ出てくることはなかった。なぜなら、あと一押しで陥とせるはずだった長篠城が踏んばっていたからである。この状態で設楽原へ出れば、挟撃の危険性があるし、包囲の兵も割かねばならない。勝頼が掴んでいる敵兵数は織田軍が三万、徳川軍が八千であるから、味方のほうが少ない。質で上まわっているとはいえ、あまり望ましくないのだ。
「信君、なぜ本丸だけの裸城が陥とせん!」
勝頼は苛立ち、焦っていた。もっとも気を遣うべき相手を、激しく叱責していた。
長篠城兵は鳥居強右衛門の所為で息を吹き返していたのだ。来るか来ないかわからなかった援軍が、目視できるところまで来ているのだ。守り通した時の功績を考えれば、否応なしに昂揚する。
結局、長篠城の本丸に武田兵が乱入することはなかった。