「猫天地伝」
作/こたつむり


〈9章〉64p

「ふうーん」
  猫天地は拍子抜けしたように口をとんがらせ、首をかしげて、
「それだけか?」
「そうだ。それだけだ」
  又うなずいてから、いつだって、それ以上でもそれ以下でもあったためしはなかった、と二柳毛は思った。しかし間が保てなくなったような気がしたので、つい、
「遠い所に住む友人をたずねて旅をするというような詩は、ずいぶんと昔からあるようだ」
  と、追加してみた。そしてしかし、サマになっていないと思った。二柳毛は今、詩人ですらなくなっていたからだ。
  ところが猫天地ときたら、
「ふーん。そんなのがあるのか」
  と感心し、やっぱり男はいろいろ出来ていいな、と、つぶやいた。二柳毛はこのつぶやきを聞き漏らさず、首をかしげ、
「女にもどった気分はどうだ」
  と、聞いてみた。
「男になれたときほど嬉しくはないなあ」
「男のほうが良かったか」
  すると猫天地は、なんとも言えないなあ、と言い、
「毛は、張蒙師が悪い奴だと教えてくれたよね。それが当たりだったんだな。私はあんな悪い奴に男にしてもらって喜んでいたのさ。そう思うと、うれしくなくても女にもどって良かったのかもしれない」
「男になって、一番うれしかったのは何だ」
「そりゃあ、だって、男は強いじゃないか」
  すると二柳毛は、ワッと声をあげて笑い、まだそんな風に思っているのか、おめでたい奴だ、とつづけて言い、
「私は男だ。生まれたときから男だが、強かったためしはない。女のほうがよほど強いぞ、猫天地。おまえが強かったのは、元が女だったからだろうさ」
「そうかなあ」
「そうさ。その証拠に、おまえはだんだん弱くなっていったぞ。とくに美青蘭が死んでからというもの……いや、そんなことはどうでもいい。とにかくおまえは、これからはきっと強くたくましく生きていけるよ」
  しかし猫天地はかぶりを振り、
「それがきっと、そうでもないんだ」
「なぜ?」
「だって、美青蘭や園慕が男に生まれていたらダメな奴になってたなんて、信じられないよ。私は女だったときから、彼女たちとは全然ちがってたんだ。男も女もやってみたし、何しろあの世にまで行ったんだ。それでわかったことは、結局それだけさ」
  めずらしく自嘲ぎみに、猫天地は乾いた笑い声をたて、
「だけど、生まれてきて良かったと思えるのは、美青蘭や園慕のような人間もこの世にはいるんだと知ったことだよ。楽阜だって立派だった。楽阜は死に方が立派だった。美青蘭や園慕は生き方が立派だった。結局どっちかが立派ならいいよ。私みたいにどっちもダメそうな奴もいるってこともわかった。毛も、そうなんじゃないかな」
「『ないかな』って、とっくにそうだよ」
  猫天地は、そうだね、と遠慮もなく言い、
「一年にいっぺんぐらい彼らのマネしてみて、それでけっきょく何度も失敗して……。そういうことを繰り返すと思うよ。あの世に行ってもね……」
「マネね……」
  二柳毛は笑いながら髪の毛をかきむしった。白髪まじりの頭になってしまった。今からとことん、この頭をさげて園慕に乞えば、どうにか何らかの縁をとりもどせるかもしれない。二柳毛は何度となくそのことを考えたし、出あいがしらの園慕との会話まで、幾通りも組み立てて日をすごしてきた。
  マネだな。しょせんマネだ、俺のは。
  二柳毛は笑いが止まらなくなってきた。園珪の医術をまね、園慕の強さをマネしてきたが、結局彼の本性は、自分一人の力で生き延びることのかなわなかった母、柳女のそれを生きうつしてきたに過ぎない。マネしようと少しも思わずにいた母にこそ、彼の根は、やはりつながっていたわけである。
  立ち上がりかけた猫天地に、二柳毛はあわてて、
「もう会えないのかな」
  そう問うと、猫天地は溜息まじりに笑い、
「会えるだろう。この世かあの世かは知らないけど、どうせどこかで又、こうやってため息をついている人間に、私たちはまた会うことになるさ」
「どこに行っても……」
  言いかけて二柳毛は口をつぐみ、その場に琴を置いた。
  猫天地は、琴を持って行かないのか、と不思議そうに見ていたが、二柳毛は晴れ晴れとした笑顔でそのまま立ち上がった。猫天地も又ほほ笑み、手をさしだし握手をかわすと、差しかかる陽にあごをつき出して立ちあがる。
  浜辺には置き捨てられた琴だけが残った。朝もやに不思議な反射のしかたで、その弦だけが冷たく光をはねかえした。やがて、楽器の丸みをおびた部分を闇として、すべるように平らな面だけが朝の日の色を満喫しはじめていった。 <終>


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