「美濃から来た童」
作/久住様



二十九 乱戦A


 なるほど、五百丁の鉄砲とは、こういうことか。
 織田信長は、雨中にもかかわらず、口の中の渇きを覚え、頭の後ろがしびれるのを感じていた。ずらりと並んだ筒先から受ける圧迫感と恐怖は、近づけば近づくほど身体的感覚としての明瞭さを増し、何もかも放り捨てて一目散に逃げ出したい衝動が腹の底から突き上がってきそうになる。
 信長は有効射程のはるか手前で止まり、各隊に散開を指示した。
 ここから前へ駆け出すことができるかどうか。全員で駆け出す前に一人でも逃げ出せば全軍が総崩れになる。そんな確信を抱きながら、信長は下馬し、槍を手にした。
各隊の展開が終わった。さあ、飛び込め。誰かが逃げ出す前に。
「お待ち下さい」
 一人の兵が信長の前に立った。誰だ?
 小六と名乗る、あの男だった。
「策がございます。どうか今しばらくお待ち下され」
機先を制されて、信長は息を一つはき、待った。
「後ろを」
 後ろを見ると、黒雲が、手の届きそうなところまで来ていた。あと少し、逃げ出す者なく、この隊形のままいられさえすれば。
 数名の兵が、雲を指さして、大声で騒いでいる。
「神意だ! 神意が示されたぞ!」
「熱田明神のご加護じゃ!」
 声につられた兵たちの視線が後ろの雲に向かい、その頭の中から鉄砲への恐怖が一時的に消える。よくできた詐術だ。信長は不愉快ながら、その効果を認めた。
 雲がゆっくりと近づいてくる。兵たちは魅入られたように、じっと動かない。

 嵐は突然、来た。
 強風に背中を押され、信長はひざをついた。兵たちも、立っていることができず前のめりになっている。
 豪雨で、鼻からでは息ができない。
 すさまじい雷鳴、どこかの木に落ちたようだ。木の倒れる音。
 敵陣はどうなっている。信長は何度も顔をぬぐい、前を見ようとしたが、果たせなかった。
 今川の本陣は、壊乱していた。
 吹き飛ばされた雨覆い。武器を落とした者。あおむけに将棋倒しになっている隊。数十人単位で斜面を滑り落ちた兵たち。山頂の旗本が隊伍を崩さなかった以外、前陣も中陣も混乱に陥っていた。
雨と風が同時に止んだ。先に進んだ方が勝つ。信長は喚声を上げながら走った。思い出したように走り始める兵たちの後ろから、喚声とは異なる声が聞こえてくる。
「神いくさじゃ!」
「熱田明神の神いくさじゃ!」
 その声はあっという間に広がり、口々に同じような言葉を叫びながら、織田の兵たちが急な坂のぬかるみを駈け上がっていく。
 表にこそ出さなかったが、信長の怒りは頂点に達していた。何者かに愚弄されている。その耐えがたさは、例えていえば、何年もかかって完成させた作品を、天才にあっさりと「修正」された芸術家が抱くであろう殺意に似ていた。
 どんな相手かは知らぬが、蜂須賀党の頭、生かしてはおけぬ。その決心は、不快感や怒りよりも、危険過ぎる知恵への警戒心に基づいていた。

「御屋形様に、早く輿を!」
「たわけ! 馬だ! 馬を用意しろ!」
「円陣だ! 円陣を組め!」 混乱の極みにある後陣の喧騒の中で、今川義元は信じられない光景を眼下にまじまじと見つめていた。
 今川本陣の前陣で起こったことは、いくさの体をなしていなかった。嵐により、鉄砲は兵器としての効力を喪失した。中陣では鉄砲頭の号令で、一斉に鉄砲を地面に置き、太刀を抜き放ったが、前陣の者たちには、時間的にも意識的にも、その余裕は与えられなかった。駈けてくる敵に対し、役に立たぬ引き金を何度も何度も引き続け、射撃の体勢のまま斬られる者もいたが、鉄砲隊のほとんどの者は鉄砲を放り捨てて逃げ、その恐怖が伝染したのか、槍を持つ者も、弓を持つ者も、同じように武器を捨てて逃げ出し、前陣はほとんど戦わずして消滅した。中陣はしばらく踏みとどまったが、千対二千という兵力差以上の勢いの差があり、しかも後陣の旗本たちが逃げ支度に忙しく、後陣からの支援を受けられないことがわかると、ぬかるんだ急坂の上という地の利を活かせないまま、中陣も崩壊した。
 その間に、後陣の旗本は義元を中心にした円陣を作り、ばらばらに襲ってくる織田の兵たちと激しい戦闘をおこなっていた。織田の兵を次々と倒していく旗本たち。
「御屋形様、山を降りますぞ」旗本の指揮を取っている三浦左馬介が、義元を急き立てた。
「ここで踏み止まれぬか。山を降りたら、このような整然とした隊伍は組めぬ」急いで山を降りながらも、義元は尋ねずにおれなかった。
「敵は二千、御旗本は五百でござる。しかもここは敵地、落ち武者狩りの一揆なども、すでに起こっておりましょう。西へ向かい、先発部隊と合流するしか、道はございませぬ」
 執拗な敵との戦闘で急速に数を減らしながらも、義元と旗本は山を降りることに成功した。しかし、
 「こは、何事ぞ・・・」山を降りた義元の眼前に、見知らぬ風景が広がっていた。
 もともと狭間などの入り組んだ地形だったが、先ほどの豪雨により、くぼ地は池に、平地は沼に変り、桶狭間山の南側は、さながら水と泥濘の迷路のようになっていた。
「仰せの通り、隊伍を組んで進むことは、できませぬな」左馬介が呆然とつぶやいた。
「御屋形様、馬で一刻も早く、西へ向かってくだされ。ここは拙者らが支えます」左馬介は有無をいわせない表情で義元に言った。
「すまぬ。なんとか持ちこたえてくれ。すぐに援軍を連れて戻る」
 義元はわずか十二騎ほどで西へ向かった。

 愚かな、この期に及んで、まだ馬を使うか。山頂からその様子を見ていた信長は、可笑しさを通り越して、あわれさすら感じた。
「伝令」
「は!」
「今戦っていない者すべてに伝えよ。西へ向かうあの騎馬を追え。相手は馬だが、必ず追いつく。死ぬ気で走れ、とな」
 使い番が復唱する前に、まわりの近習や馬回りの者たちが、我先に駈け出して行った。
 信長は楽しそうに目を細めて見送った。
 尾張の兵は、弱い。その最大の特徴をいかに活かすか、から、このいくさへの信長の準備は始まっていた。未だ過半数には至っていないが、織田家の当主になって以来、信長は農作業をしない専門兵を少しずつ増やしていった。専門兵だから強くなるわけではない。だが、腕に覚えのない彼らは、どんなに多数の敵を相手にしても、逃げ出すことができない。逃げ出せば、一家そろっての飢え死にが待っているだけである。他家へ行っても文句なく召抱えられるであろう、前田利家のような豪の者は、本当に数少ない例外でしかなかった。そして信長は、弱兵である彼らを率いて、自軍より多数の敵を相手に、積極的にいくさを仕掛けてきた。味方よりも多く、なお味方よりも強い敵に対して、彼らは生き残るだけでなく、褒美を得る働きをしなければならない。信長の予想通り、その際に最も役に立つのは、剣や槍の腕ではなかった。強い敵を避け、弱い敵を選んで数名で囲み、倒す。数え切れないほどのいくさを経て、結局生き残ったのは、よく走る者たちであった。
 豪雨により、この土地は水と泥濘の地に変貌していた。それが梅雨時にこの地で決戦を挑んだ信長のねらいだった。騎馬の者は少しでも速度を上げれば落馬が待っており、重い甲冑を着けている者は泥に沈み、身動きが取れなくなる。鷲津方面にある今川の大軍は、泥の罠の中で身動きが取れないまま、立ち往生していることだろう。
 信長は、土木工事や細工仕事に妙な才能を持っている木下藤吉郎を相手に、軽くて丈夫な防具である胴丸の工夫ばかりか、戦場で走りやすく疲れにくいわらじ、足半(あしなか)までも工夫を重ねてきた。
 だから、あの者たちは、必ず今川義元の首を取ってくる。
 信長は、確信して待っていればよかった。

「御屋形様! なりませぬ、これ以上速度を上げては!」
 悲鳴の後、どさっという音がした。また落馬か。義元は振り返りもしなかった。振り返っても、野ねずみの群れのごとく、ぞろぞろと追ってくる織田の兵たちを見るだけだ。義元は、馬の制御に集中した。義元の速度について行こうとした供の者たちは、次々と落馬していくか、追いつかれるかして、織田の兵の群れに飲み込まれていった。義元は一度も振り返らなかった。
 突然、馬が前足を振り立てて、いなないた。
「どう、どう!」叫ぶ義元の背中に何かがぶつかり、鈍痛が走った。つぶてだと、卑怯な。景色がななめに傾き、一瞬、目の前が暗くなった。
 獣のような叫び声を聞き、義元は目を開けられぬまま、腰の松倉郷の太刀を抜き、その音に向けて払った。手応えがあり、音が消えた。義元は目を開けた。まだ目の焦点が合わない。どうやら倒したようだ。突然、後ろから突き出された槍が、しりもちをついたままの義元の太ももを刺し貫いた。
「卑怯者! 名乗らんかあ!」義元は後ろに向き直ると共に、刺さっている槍を引き抜いて柄をそのまま相手に突き出し、相手が後ろによろけた瞬間、ぐいっと引き戻した。相手が前につんのめってくるところ、太刀を横に払う。相手が倒れた。狙いが下にそれ、相手の膝を切ったようだ。
「殺し合いに卑怯もくそもあるんか?」
 別の敵が、後ろから左腕を義元ののどに回し、絞め始めた。義元は腕を外そうとするが、その太い腕はびくともしない。脇差をひらめかせて、右腕が現われた。
「あんたが今斬ったのは、毛利新介。あんたの首を斬るわしは、服部小平太だ。満足かね?」
 義元は、脇差を持っている右腕の人差し指に噛みついた。
「この、くそ、このやろ!」義元の首に激痛が走ったが、やがて痛みも何もかも、闇の中に消えていった。
「やられたんかい」毛利新介は横になったまま、服部小平太にきいた。
「指、食いちぎられた。執念深い野郎だ。新介、おめえはどんなだ」
「両足やられた。もう立てねえだろうな。けどよ、もう殺し合いしなくても、一生食っていけるよな」
「一生食わせていけるぜ。織田の家が滅びねえ限り、大丈夫だ」
「ああ、よかった」


(二十九 乱戦 了)




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