「美濃から来た童」
作/久住様



二十九 乱戦@


 服部半蔵正成は、大高城の通路をゆっくりと踏みしめるように進んでいた。
 大いくさの渦中にありながら、ここ大高城だけは、城外とは別世界の感があった。
 大高城代である鵜殿長照の部隊は岡崎勢と入れ替えに鷲津方面に出動しており、いま城内にいるのは、徹夜の兵糧運びと、それに引き続いての丸根砦攻略に疲れ切った岡崎勢だけである。
 寝息、いびき、歯ぎしり、どたどたという寝返りの音と、およそいくさとは縁のない騒音が、大高城の二ノ丸と本丸を包み込んでいた。その中を一人、むつかしい顔をして歩いているおのれの姿の滑稽さを思って、半蔵は吐息を漏らした。
 耐えがたく気の重い報告だが、しないわけにはいかない。
 だが、それにしても。
 半蔵はあらためて不思議の思いにとらわれた。
 おのれがなぜ、破滅への道の方を選ぶのか。岡部殿の配下になれば、生き残るのはもちろん、立身栄達の道すら開けるかもしれないというのに。
 半蔵は立ち止まり、しばし考え込んだ。やがて答は明らかになった。
 俺は今、人の歩む通路の上を歩いている。屋根裏でも床下でもない。今川の配下では、いかに立身したように表面上見えようと、結局は屋根裏か床下を常に行くことになる。俺が普通に人の歩む道を行くことができるのは、この岡崎勢と共にある時だけだ。要するに、そういうことだった。人として扱われ得るのかどうか、それだけの問題だ。
 半蔵は歩みを速めた。
「服部半蔵正成、参上いたしました」
「入れ」
 松平元康は、陰気な表情で爪を噛んでいた。
「御見事な勝ちいくさ、おめでとうございます」半蔵は言いにくそうに祝いの言葉を述べた。
「めでたいものか」元康の顔がさらに暗く沈んだ。
「松平庄左衛門、筧又蔵、高力新九郎、わしのふがいなさゆえ、あまたの者を討たせてしもうた。残された奥方や子どもをどうすれば飢えぬようにできるか、考えるほどに頭が痛い。しかも、このままいくさが続くなら、老人から元服したての者まで、男手が残らず出払ったまま、岡崎にいる者たちは、どうやって暮らしを立てればいいのか。半蔵、このいくさ、いつまで続くのだ」
 半蔵はさらに言いにくそうに答えた。
「鳴海城の岡部殿のもとに参った使者によれば、われら岡崎勢は岡部殿の配下となり、清洲城に突入。以後、美濃国境から稲葉山城までの道を斬り開くとのこと。稲葉山城を落とすまで、われらのいくさは終わりませぬ」
「勇猛をうたわれる美濃勢一万を相手に、難攻不落の稲葉山城をわれらの力で落とせというのだな」
「はい。そして稲葉山城を落とした後、われらに恨みを抱いているであろう東美濃衆をそそのかし、生き残りの岡崎勢を片付けるという話も出ておりました。あくまでも案の一つとしてですが」
「われらは、田の草か」
 そう言って、元康はまた爪を噛み始めた。今川が大軍を動員しているという不利は承知していても、雑草や害虫として駆除される前に、まがりなりにも戦える状態にある今、行動を起こすべきであった。今後のいくさで大損害を受けてからでは手遅れになりかねない。元康はしばらく考えて言った。
「刈谷のおじ上のところに使いを出そう」
「いかに御母堂の兄上とは申せ、刈谷城の水野様は織田方ですが」
「それゆえ、おぬしの手の者に行ってもらいたい。隠密裏に頼む。気の利いた使者を一名、この城によこしてほしいと」
「では、刈谷城にて一戦を?」
「なろうことなら、岡崎城で討ち死にしたいものだが、やむを得なければ致し方ない」
「それがしが参りましょうか」
「いや、おぬしにはもっと大事な用を頼む。実はな、天候次第では、このいくさ、織田が勝つかもしれぬ。その際の信長への使者に立ってもらいたいのだ」
「織田方に勝ち目がございまするのか?」半蔵は驚きの声を上げた。
「わずかではあるが、ある。織田の勝ちがはっきりしたらすぐ、信長に会い、伝えてほしいのだ。われに盟約の意思あり、と。これはおぬしでなくてはこなせぬ。問題は、信長がわしからの使者に会うかどうかだが」
 半蔵は少し考えて、うなづいた。
「できます。心当てがございます」
「それは心強いな。その時には、岡部殿への義理も果たせるよう考えておる。だが、織田が滅ぶのであれば、何も考えることはない。刈谷か岡崎で果てるまでのこと。できる限りてこずらせてやりたいものだ。そうだ、その時は冥土の土産として、うわさに高いおぬしの槍さばきを見せてくれ」
「もったいない御言葉、かたじけのうございます」
 殿はわれらを影ではなく、さむらいとして死なせてくださる。望外の感動をおぼえながら、半蔵の胸に、ある決意が浮かんだ。元康はその気配を察して、言った。
「今は、暗殺は考えるなよ。せっかくの腑抜けの若君が名将に大化けしてしまっては、逆効果になるのでな」
 半蔵は、はっとした。その顔を見ながら、元康は続けた。
「考えてもみよ。わしの祖父と父、続けざまの暗殺によって、何の証拠もないにもかかわらず、われら岡崎勢がいかなる疑念と嫌悪を今川に抱くようになったか」
 半蔵は一言もなく平伏した。
「そういえば、暗殺に備えて老師が配した者たちがいたな」
「手だれの者が六名おります」
「その者たちの動きを封じておいてくれ。いざという時に邪魔をされたくない。だが、無理に殺さずともよいぞ」
「かしこまりました」
 いかなる手だれの忍びといえど、一人で十人を相手にすれば、それだけで手一杯になる。忍びとしては大いくさなれど、誰の目に触れることも、誰の口に上ることもないであろう。信長の元に使いすることに比べれば、たやすい思案であった。相手となる六名それぞれの技能や特徴などを思い浮かべながら、六組六十名の人選と分担、それぞれの組の基本戦術と配置など、計画を頭の中で瞬く間に組み上げて、半蔵は言った。
「では、早速動きます」
「頼むぞ、急いでくれ」気ぜわしげに爪を噛みながら、元康は貧乏ゆすりを始めた。
 その、まったく頼もしげではない様子に、半蔵はなぜか快い安心感を覚えた。

 降りしきる雨の中、飯尾信宗は身じろぎもせずに座っていた。今川義元の足を留めるために今川の本陣を襲撃した千秋・佐々隊の生き残りで、まだ戦う意志のある者たちは、すでに戻ってきており、元の兵と合わせて二百五十余名が信宗の下知を待っている。今川義元はこちらの目論見通り、さらなる伏兵を警戒して、桶狭間山の陣から一歩も動く様子はなく、信宗としては、清洲から出撃した信長本隊の動きに合わせて仕掛けたいのだが、様々な偽情報が乱れ飛んでいる中、確実な情報を手に入れるのに四苦八苦していた。そして、ようやく信頼できる情報がもたらされた。
「山田新右衛門が動きました。桶狭間山の西から接近中のわが軍の後ろを取るべく、山の北側から回り込むようです」
「殿を討ちに山を降りてきたか。南側から回り込むのではないのだな」
「山の南側は、狭間やくぼ地など地形が入り組んでおり、隊伍を組んで動けるような状態ではございませぬ」
敵が山の北側を回り込んでくるということは、うまくいけば側面を突くことができるかもしれない。そうなれば、兵の多寡を気にせずに、互角の戦いができそうだ。
「これより千秋四郎殿・佐々隼人正殿両名の仇、山田新右衛門の隊を攻める」
 信宗は、いったん言葉を切り、兵たちの顔を見た。今朝から感じてきた悔しさをかみしめつつ、怒りや闘志を発散している者たちと共に、鉄砲だらけの今川本陣に突っ込んでいくのではないことにほっとしている者も意外に多いようだった。それをみて信宗は、予定していた「山田隊を崩した後、敵将義元の首を!」の言葉を腹の中に飲み込み、続けた。
「仇討ちぞ! いざ、出陣!」
 そのころ、中島砦を占領している井伊直盛は、さかんに首をひねっていた。
 中島を出て、信長を追尾しようとしていた矢先、井伊隊は織田方の一部隊に遭遇した。一当てして蹴散らそうとした井伊隊に対し、敵は小勢にもかかわらず、かえって火の出るように猛然と井伊隊を攻めたて、井伊隊がじりじりと後退するはめになっている。どう考えても、死にもの狂いで向かってくるような状況ではないのに、敵将はいったい何を考えているのか。
「しかたがない。ひとまず退却だ」そう言って直盛は、不思議そうに敵将を見た。
 その視線の先で、奇声を上げ、涙を流しながら、真っ赤な顔で狂ったように槍を振るい続けていたのは、「織田信長、鳴海城攻撃中、討ち死に」のしらせを受け、半狂乱になった佐々成政であった。

 山田新右衛門の部隊は、すでに桶狭間山の南東側のふもとに降り、織田信長の背後に回りこむべく、先を急いでいた。織田軍が、予定していた北西からではなく真西からきたために、迂回すべき距離が増え、新右衛門はあせりを感じていた。側面からの攻撃では信長を取り逃がす恐れがある。どうしても背後から包み込む状況にもっていきたいところであった。
「新たな敵の伏兵です! その勢、約三百!」
 またか、新右衛門は舌打ちした。部隊を分割すれば、信長の本隊を襲う兵力が不足する。現在の七百という数は、どうしても減らすわけにいかなかった。この敵を撃退するのに費やす時間も惜しかった。
「先を急がせろ」
「この敵を無視なさるのですか」
「この敵の向かう先は、わが本陣か信長の本隊のいずれかだ。この敵がいずれに向かうとしても、信長の首を取ってから対応すればよい」
 普段ならば、新右衛門はこのような決め付けは厳に慎むのだが、敵への侮りと今の状況へのあせり、おのれの手で敵の大将の首をあげることができるかもしれないという期待などが混ざり合って、新右衛門生来の慎重さは一時働かなくなっていた。
「騎馬の者を先行させよ、ともかく先を急ぐのだ」

「敵襲! 西から二千余。織田信長です!」
 今川義元は思わず立ち上がり、西に目を凝らした。地形の起伏が激しく、ところどころ見えない部分はあるが、長く伸びた縦隊がうねうねとこちらに向かっているのが、はっきりわかった。
 どこだ、どこにいる、あのうつけは。
「あのうつけはどこだ」
「は?」
「織田信長は!」
「先頭を進んでおります!」
 義元は思わず笑い出した。そうか、真っ先に鉄砲の的になりに来たか。それにしても先頭とは。まるで子どもだな。
 義元は呼吸を整え、はやる気を落ち着かせた。
「この雨だが、鉄砲は大丈夫なのだな」
「鉄砲頭が申すには、雨覆いというものを用意してあり、よほどの不注意をしなければ、問題は起こらないとのことです」
「各隊に伝えよ。充分に敵を引きつけ、一斉射撃。銃声が鷲津へののろしの代わりになろう」
「は!」




「二十八、桶狭間山」

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「二十九、乱戦A」

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