「美濃から来た童」
作/久住様



三十 終わりの始まり


「織田信長の本隊が、わが本陣に向かっております!」
「いそげ! とにかくいそぐのだ!」
 山田新右衛門の焦りは頂点に達していた。先をいそごうと焦れば焦るほど、ぬかるみが行く手を阻んだ。すでに隊伍を組む余裕はなく、新右衛門の軍勢七百は、ばらばらに西へと進んでいる。新右衛門ですら、まわりに注意を払う余裕をなくし、必死になって手綱を操っている。
 嵐は、突然きた。新右衛門は、体が一瞬宙に浮き、吹き飛ばされるように地面に落ちた。落ちるとき、新右衛門の視界の隅に黒いかたまりのようなものがちらっと映ったが、その姿は荒れ狂う嵐の中に消えてしまった。
 そのかたまり、飯尾信宗の部隊は、激しい嵐の中でも、黙々と歩き続けている。新右衛門の隊で、落馬した十数名が、すでに彼らの手にかかって落命していた。ほどなくして、嵐の中、山田新右衛門自身も、その人数の中に入ることになったが、千秋四郎と佐々隼人正の仇だと気づく者はいなかった。

「大変だ、今川の殿様が首取られたぞ!」
「なんだって! 織田の間違いじゃねえのか?」
「間違いねえよ。この目で見たんだ」
「こりゃ、大変だ。今川の負けなら全然数が足りねえぞ。もっと人連れて来るべ。大豊作じゃ!」
 今川義元討死の知らせは、まず、落武者狩りのために集まっていた百姓たちの間で広まった。
 近在の百姓が、織田の兵としてはほとんど動員されていなかったこともあって、普段ないくらいの大勢が落武者狩りのためにすでに集まっていたのだが、裕福な今川勢を狩れるという噂で、その数はさらに増し、ついには女子どもも巻き込んで、熱田から沓掛にまで広がっていった。
 泥の中で動きが取れないよろい武者は、百姓たちの格好の獲物となり、従者から遅れて、後ろに一人でいるところを、物陰に潜んでいた数名が襲うという光景が繰り返された。
 まずその犠牲となったのは、鷲津方面から、朝比奈泰朝が桶狭間山に向かわせ、途中で立ち往生していた数部隊だった。
「退くもならず、進むもならずです」井伊直盛は、中島砦を放棄し、報告のため鷲津砦跡に戻ってきていた。
 朝比奈泰朝は、困り果てたという顔で腕を組み、天を仰いでいる。
「どうすればよいものでしょうか」泰朝は、しらずしらず直盛に懇願するような口調になっていた。
「織田の兵が来る前に撤退しなければなりません。甲冑も馬も捨て、徒歩で南へ向かうのです。各隊ばらばらになるのは致し方ないこと」直盛は穏やかに言った。
「御屋形様が討たれたという噂は、確かめようがないですな」
「その確認も、沓掛まで退いてからのことになりましょう」
「途中で織田の兵に出くわしたら」
「それもまた、致し方なし。兵数がいかに勝っていようと、この状況では逃げるしかございませぬ。足止めの兵を残して退くだけです」
「わかりました。撤退します」
「いそがれよ。時を過ごすと大規模な一揆が起こってきましょう」
「そのように致しますが、御身はいかがなされる」
「海道一の弓取りが、一矢も報いずに敗れたとあっては、武門の名折れというもの。まあ、それは半ば冗談ですが、若君の周りに蛆虫が寄り集まってくる様子は見たくないというのが本心ですわ」
「無茶をなさいますな」泰朝は心配そうな顔を直盛に向けた。
「まあ、甲冑も槍もなくても、それなりにはいくさができると思っております。ところで、お願いが一つござる」
「何なりと」
「この書状をわが家の跡取に渡していただきたいのだが、よろしいか」
「かまいませんとも」口ではそう言いながら、泰朝は少し中身が気になるような素振りをした。
「大したことも書きませなんだが、今川家の腐った部分とは関わりにならぬように、それから困ったことがあれば、松平元康殿を頼むようにと」
「松平殿ですか」泰朝の表情が読み取りにくいものに変わった。直盛はその変化に気がつかない。
「あの者だけは腐っておらぬ。まあ、あれだけ叩かれておれば、腐りようがないのかもしれませんが」
 泰朝は書状を受け取ると、無言で一礼して退いた。
 時がないとおのれで言っておきながら、無駄話をしすぎたか。直盛は少し反省した。さて、最後のいくさとしようか。
 直盛は、おのれの手勢の中で逃げることを拒んだ者たち百名ほどと共に、鷲津砦を後にした。なろうことなら、桶狭間山まで行きたいが、果たしてたどり着けるだろうか。しばらく行くと、甲高い呼子の音が聞こえた。織田方が兵を集めるのに使っているものだ。
「いよいよだな。方陣を組め!」やがて、集まってきた織田勢との間で、無数の野犬と熊との戦いのような死闘が始まった。

 織田方のさむらい、下方九郎左衛門が見つけたとき、その男は物陰に隠れようともせず、死体がいくつも転がっている中でへたりこんだまま、声をあげてすすり泣いていた。手には乗馬用のむちと弓を射るときの皮の手袋を持っている。
「おい、どうした」男は答えようともせず、すすり泣きを続けている。
「答えろ、今川の家中の者か」太刀を突きつけられて、男は立ち上がり、ようやく口を開いた。
「み、みんな殺されちまった。ひっ。御屋形様も。ひっ、ひっ。みんな」しゃくりあげながら男が切れ切れに話したところでは、男の名は権阿弥。今川義元の同朋衆で、むちと手袋は義元のものだという。九郎左衛門はしばらく考えた。これは、ひょっとすると手柄になるかもしれない。
「おぬし、今川の将の顔と名前は存じておるな」
「も、もちろんだ」
「手荒なまねはせぬ。身の安全も約束しよう。一緒に清洲まで行くのだ。うまくいくとおぬしも褒美がもらえるかもしれぬ」
「わし、なにもできねえ」
「首実検に立ち会って、この首は誰々というだけのことだ」
「た、たたられるのはいやだあ」
「とにかく来い!」
 ある程度気がつき、なお気がつき過ぎなかったのは、九郎左衛門にとって幸運だった。彼らの近くには、権阿弥の利用法に気づかずに権阿弥を殺そうとした二名と、権阿弥の服の、取ってつけたような濡れ方と汚れ方に不審を抱いた一名の、不運な死体が転がっていた。

「藤九郎を呼べ!」織田方、刈谷城の水野信元は上機嫌である。今川に対するまさかの大勝利に城内は沸き立っていたが、機嫌の好い理由は他にもあった。
 信元の弟、藤九郎信近は、入るなり渡された松平元康からの書状に目を疑った。
「織田と松平の盟約ですと?」
「ほっほっ。これでようやく、愛しいわが妹の、夜毎の涙も乾こうというもの。甥ご殿は今川の下では人扱いされておらぬようだからな」
「では、もう使者を」
「浅井六之助をつかわした。わしも出迎えに出るので、後のこと、よろしく頼む」
「兄者!」
「そう怒るな。断られるかもしれんが、岡崎城奪回ということになれば、微力ながらでも手助けしたいのだ。この城を頼む。まあ、攻めてくるものもおるまいが、浮かれすぎぬようにな」
 兄者はいつもこうだ。相談もなく勝手に。信元が軍勢を率いて出立した後になっても、信近の気は晴れなかった。

 清洲へ戻る道中、信長は放心状態のような表情になっていた。
 玄蕃、大学、隼人正、近江守、死んでいった者たちの、なぜか笑顔ばかりが浮かんでくる。
 わしが殺したのだ。敵も味方も。その思いは、戦い方がどうのという次元のことではなく、率直な確信として信長の中にあった。あの者たちに拾ってもらった生命であるという確信。
 今度は父、信秀の哀しそうな顔が浮かんでくる。兵は、これを用いること、土芥のごとくせよ。確かにその通りだった。これからもずっと、そうだろう。
 これからもずっと、敵味方の死肉を食らって生きていかねばならないのか。ならばせめて、味方は殺したくない。
 天下布武、おぬしたちの死が無駄でないという証。すでに死んでいるはずの信長にとって、身代わりに死んでいった者たちへの言い訳のようなものがどうしても必要になっていた。今、おのれが生き長らえている理由、天下布武。
 清洲に着くと、今川に寝返るはずであった重臣たちが、しゃあしゃあと首実検の準備を進めていた。信長は、この者たちを皆殺しにして、戦死者の墓前に捧げたくなったが、今は我慢することにした。この者たちが、天下布武に何の役にも立たなくなったら、そうしよう。
「権阿弥と申す、今川の同朋衆を生け捕りにした者がおります」
「ほう、珍しい手柄だな。そのような者が逃げ遅れて生き残れるはずもないが」
「下方九郎左衛門の手柄です。控えさせてございますが」
「すぐに呼べ」
 九郎左衛門が連れてきたのは、大柄の割には印象の薄い、おどおどとした初老の男だった。 「この者、今川義元のむちと手袋を持っておりました」九郎左衛門が説明すると、平伏していた男が突然、面を上げた。
「そ、それだけではねえ。けど、これはとのさまにしかおみせできねえ」そう言って男は、ふところから十数枚の書付のようなものを出した。小姓からそれを受け取った信長の顔が、さっと青ざめた。
「人払いを。この男以外、皆でていけ!」信長の剣幕に押され、九郎左衛門と小姓が退出した。
「おぬし、何者だ?」信長が青ざめた顔のまま尋ねた。男の様子が別人になっていた。
「それがし、松平元康が家臣、服部半蔵正成と申します。それなるは、鳴海城の岡部元信にあてて出された、今川への寝返りを約す誓紙の真筆。手土産として、盗んでまいりました」
「ということは、おぬしのあるじも織田に寝返るということか。見返りは何だ?」さすがに話が早い。半蔵は内心、舌を巻いた。
「三河一国、切り取らせていただきとうございます」
「かまわぬ。どうせわしの攻める先は西にしかない。ある程度切り取ってから、正式な使者をよこすよう、おぬしのあるじに伝えよ」
「かしこまりました。それともう一つ」
「何だ」
「今川義元の首をいただきとうございます。それをもとに、鳴海城を開城させまする」
「ふむ、岡部元信を無傷で返しては、おぬしらの苦労になるばかりだが、かまわぬのだな」
「はい」
「許す。権阿弥なる者に持たせて返すゆえ、首実検にも参加せよ。首実検の様子、おぬしらも知りたかろう」
「有難きしあわせにござります」
「入ってよいぞ!」信長が怒鳴るや、男はまた権阿弥になっていた。

 翌日の首実検の後、信長は重臣たちを集めた。論功行賞に関する評議であろう。皆が集まってしばらくしたころ、信長が入ってきて上座に座り、書付を放り投げた。
「鳴海城の岡部元信に誓紙を出した者は、返すゆえ、おのれの分を持ち帰るがよい」
 広間が静まり返った。信長は呆けたような顔でその様子を眺めている。やがて、観念したように、佐久間信盛が進み出て書付を取り、それをきっかけに、書付は一枚一枚、書き主のところに戻っていった。
「おぬしら、首がつながったのう」信長がのんびりと言った。
「今、腹を切る気のある者は、いくさ場にてそれを示せばよい。今後、美濃を攻めるゆえ、死に場所には事欠かぬからな」
 沈黙が返ってきた。ここで一言しゃべる度胸のある者がいれば、今後、楽であろうに。信長は少しがっかりした。
「こたびの合戦、功の第一は、簗田政綱とする。異存はあるまいな」
 さらに重い沈黙が返ってきて、信長はますますしらけてしまった。

「わしの命を救って、義理を果たしたつもりか? 半蔵」
 岡部元信は駿河への道中、終始不機嫌であった。同行している権阿弥も、終始無言である。
 一行は三河に入っていた。三河でも大規模な一揆は起こっていたが、隊伍を組んだ完全武装の二千の兵に向かってくる一揆はない。そのころ松平元康は、水野信元の支援により、安全に岡崎に向かっているところである。そのことも岡部元信の不機嫌の原因の一つであった。
「お返しにいいものを見せてやろう。今川勢健在ということを、織田方や岡崎勢に見せてやらねばな」
 岡部元信が指差す先に、刈谷城があった。突然の奇襲に、刈谷城はあっけなく落城し、水野信近は討ち死にした。
 権阿弥はいつのまにか姿を消していた。

 蜂須賀党の頭目を討ち取る準備に、信長は三十の兵を用意して待っていた。だが、やってきたのは書状を預かってきたという一人の少年だけで、信長は拍子抜けしてしまった。
「これにございます」少年が差し出した書状は、かなりの年月を経ている様子で、開く前に信長は少し首をひねっていたが、開くなり、信長は目を見張った。
「まむし殿からの加勢だと?」
「それがしにございます」少年は穏やかに答えた。
「おぬし一人でやったのか?」
「いえ、何もかも我が師、道三様の組み立てしことにございますれば、それがしはただ動かしたのみにて」
「美濃が欲しければ、おぬしの目にかなえと書状にあるが」
「美濃をお取りなさるには、一つだけお願いがございます。仇、斉藤義龍だけは、こちらで始末させていただきます」
「どうするのだ」
「毒見役が我が師の息のかかった者にて」
「ふむ」外見に惑わされてはならない。やはり、危険な男だ。
「天下を御望みなら、それがしがお力になれましょう。美濃を御望みなら、軍勢を率いて墨俣までおいで下さい。いずれも、詳しい話はそのときに」
「ふう」信長は毒気を抜かれてしまった。
 童はにこやかに一礼して退出しようとした。信長が思い出したように言った。
「待て、名を聞いていない」
「竹中半兵衛重治と申す。では、これにてごめん」




「二十九、乱戦A」

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