「美濃から来た童」
作/久住様



二十八、桶狭間山


「何をぐずぐずしておいでか!」井伊直盛は吐き捨てるように声を荒げた。
「まあまあ、そのようにお怒りめさるな」鷲津攻略部隊の指揮を取る朝比奈泰朝は、困り切ったという顔で答えた。
 織田信長の兵二千は中島砦に迫った松井隊を崩し、南下を続けている。その目標が今川義元の本陣であることは、誰の目にも明らかだった。岡崎勢は大高城で休養中であるが、それを除いても、今、鷲津・丸根の両砦の跡地に陣している兵は一万近くいる。今川方の事前の計画では、本陣からの烽火によって、両砦から一斉に兵を出し、織田信長を含め、一兵余さず包囲殲滅することになっていた。その計画を変更せよと直盛は主張している。仕掛けずともよい。すぐさま兵を出し、敵が本陣を攻める前に包囲しておけば、敵の士気は下がり、逃亡を試みる者も出てくるだろう。本陣との距離も、今のままでは少し時間がかかる距離であるから、近づけておくにこしたことはない。実戦経験の豊富な直盛にとっては、ごくあたり前の主張である。
 だが、御屋形様の意をくむことに汲々としている重臣たちにとっては、お屋形様がみずから立てた計画を変更するなど、神をも恐れぬ所業に思えるようで、そろって強硬に反対している。なんとか間を取り持とうとしている朝比奈泰朝であったが、ほとんどさじを投げかけていた。
「いかがでござろう。中島砦を押さえてはいただけませぬか」泰朝は自信のなさそうな表情で、直盛の反応をうかがった。
「中島砦、か。敵の背後を押さえ、援兵を遮断し、いざというときにはすぐに襲いかかれるように、ということですな」
 直盛は腕を組み、しばらく考えていたが。
「よろしゅうござる。我が隊で押さえまする。だが、いざというときにはそれがしの判断で動くゆえ、ご了承いただきたい」
「承知仕った」泰朝はほっとしたように笑顔を見せた。
 直盛はふと、目の前の実直そうな青年が気の毒に思えてきた。

 雨は降ったり止んだりしていたが、射手が注意を怠らなければ、この程度の降りは問題ない、と鉄砲頭から報告がきていた。その鉄砲頭は射撃に支障のないよう、兵たちに注意をして回っている。今川義元は山頂から興味深そうに様子を眺めていた。使い番が義元の前に走り出てきたのは、その時である。
「申し上げます。中島砦に攻め込んだ松井隊が崩されました。織田信長はおよそ二千の兵を率い、こちらに向かっております」
「朗報である!敵の大将を討ち取れるぞ!」義元は間髪を入れず、声を上げた。
 松井隊が崩れたのは意外だったが、織田信長がこちらに向かっているとなれば、かえって好都合というものだ。準備に準備を重ねてきて、ようやく我が策の実を結ぶ時が来る。義元は軽い興奮を覚えた。松井宗信は、おおかた功を焦って無理押ししたのであろう。織田方が小さな勝利に喜んで一気にかかってくれば、先ほどの伏兵のように、一撃で粉砕してくれよう。
「敵は北西から来る!備えを固めよ!」

 童はまた、空を見上げていた。この空模様が信長にとって天佑になるのかどうか。そこにすべてがかかっていた。
「お頭、嵐が来ると何人か騒いでおりますが、いかがなさいますか」
 小六が少し不安げな様子で童の元に来た。
「嵐、ですと・・・?」
 怪訝そうな表情の童を見て、小六はあきれたような顔をした。
「お頭、雨雲の行方ぐらい読めなければ、荷運びなどできませんぞ。近在の百姓なら、いつごろから嵐になるかまでわかりましょう」
「そうですか、嵐が・・・」
「馬はどうなさいますか」小六はなおもたずねた。
「どう、とは?」
「おそらく元は沼地だったのでしょう。このあたりの土の様子では、大雨になれば馬では進めませぬ」
「そうですか、土が・・・」
「重い甲冑をつけていても、身動きが取れなくなりましょう。胴丸ならば、その不便はございませぬが、あいにくと用意がございませぬ」
「信長が、軽くて動きやすく、なお頑丈な胴丸を作らせたという話は耳にしましたが、この時のためでしたか」
「お頭は、百姓をなさったことはないのですな。この程度のこともご存知ないとは」
 小六は、さらにあきれたようだったが、童は急に霧が晴れてきたような感覚を覚えた。
 嵐が来る。それが何を意味するか、小六たちにわかることならば、当然信長はそれを知っている。そして、恐らく義元にはそれがわからない。ここに信長の勝機がある。となれば、今なすべき手は一つしかない。
「皆を集めて下さい」
「討って出ますか」小六の顔がほころんだ。
「織田信長に加勢します。少しでも早く今川の本陣を崩さねばなりませんので、策を一つ行なってもらいます」
 童は策の説明を始めた。すると小六の顔はみるみる変化し、ぽかんと口を開けた状態になった。童はその表情にもう慣れっこになっていた。そんな顔をしながらでも、なんとか実行してくれるのが小六である。
「策は以上です。嵐が吹くとなれば、天佑はこちらにあります。心置きなく戦ってきて下さい」
「かたじけない。皆、このような大いくさにて死ぬるは本望というもの。吉報をお待ちあれ」
 小六の顔は、いつのまにか、さむらいの顔になっていた。

 織田の兵たちは、今もなお、三々五々集まってきていた。織田信長はそれを見越してか、軍勢をゆっくりと南へ進ませている。四万と号する大軍に周囲を囲まれている中を、二千あまりの小勢が悠長に進んでいる。柴田勝家は、気が気ではなかったし、不思議でもあった。こちらの動きは、今は敵の大軍がひしめいている鷲津砦でも、今川義元がいるという桶狭間山でも、探知されているだろう。敵が襲いかかってくる前に一刻も早く今川の本陣を崩さねばならぬのに、なぜ殿は、敵の本陣のある南東へ直接向かわないのか。
「殿、なぜ南へ向かわれるのですか?」
 問われた信長は、どう表現するべきか、考える様子であったが、ややあって、
「風向きが、な」と一言つぶやくように言うと、口を閉じてしまった。こうなっては、もう取りつくしまがない。勝家は質問することをあきらめた。
 信長は表面上悠然と構えながら、じりじりとした焦りに身悶えていた。敵の本陣に近づいているという思いから、徐々に兵たちの緊張は強まっている。その緊張が恐怖に変わる前に、仕掛けなければならない。だが、思いのほか雲の動きは鈍かった。もう少し時間が欲しい。あとほんの少しだけ。信長は馬を止め、振り向いた。すでに敵の本陣は遠目に見えている。
「これより敵の本陣を崩す。勝機はわが策の内にある! 敵が寄せれば退け。敵が退けば追い打て。首は取るな! 打ち捨てにせよ。このいくさに勝てば、この場にいた者は、家の面目を立て、末代までの高名が鳴り響こうぞ。えい、えい!」
「おう!!」兵たちは一斉に叫んだ。大声を出すことで、緊張はずいぶんとほぐれたようだ。
 信長は馬首を東に向け、さらにゆっくりと進んだ。

「織田信長が東に向きを変えました。ゆっくりと本陣に向かっております」
 桶狭間山の南東のふもとに陣を敷いている山田新右衛門は、物見の報告を受けていた。敵は真西から向かってくるようだ。ならば、すぐに動かねば背後を襲うことができなくなる。新右衛門は立ち上がり、使い番に命じた。
「陣を払う。物頭たちに用意を急がせよ」
 できることなら、我が手で敵の大将を討ち取りたいものだ。慢心というにはあまりにもささやかながら、新右衛門は軽い興奮に酔っていた。
「敵本隊の背後に回り込み、織田信長の首を取るのだ!」
 奇しくも同じころ、空家となった中島砦を占領した井伊直盛も、同じ言葉で兵たちを鼓舞していた。

 雲はなお、ゆっくりと進んでいる。

(二十八、桶狭間山 了)




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