「美濃から来た童」
作/久住様



二十七、中島砦


 前方から小走りに駆けてくる者を見て、信長は馬を止めた。その者は信長の傍にひざまづき、すぐに口上を述べ始めた。
「今川義元の陣に佐々隼人正・千秋四郎の隊が攻撃をかけ、撃退されました。両名とも討ち死にの模様」
「義元に動く様子はあるか」
「ございませぬ。他の伏兵を警戒している様子です。ただ、本陣から兵千五百が中島方面に向かいました。すでに砦付近に布陣している先発隊千と共に、中島砦に攻めかかるやもしれませぬ」
「大儀であった。これからもよろしく頼む。長泰に伝えよ、例え目の前に敵の大将がいようとも、事を起こしてはならぬ。正しい見聞をわしに伝えることこそ第一と心得よ、とな」
「かしこまって候」
 前野長泰は、信長に命じられた通り、今川義元の動きを事細かに知らせ続けていた。義元が沓掛に入って以後は、沓掛の土豪である梁田政綱の情報網も利用して情報収集に努めている。
 隼人正が死んだか。愛想のない無骨者なれど、いくさになれば無類の強さを発揮するいくさ上手であったが、死んだか。
 信長は首を振り、吹き出てきそうになる感情を振り払った。今、少しでも冷静さを欠いてはならない。
兵は、これを用いること、土芥のごとくせよ。
 父に教わったその言葉に徹することだけが、死んでいった者たちと、これから死んで行く者たちへの、せめてもの手向けになる。信長には、そう信じるしかなかった。

 中島砦は、鳴海城の南、黒末川の河口近くにあり、川と湿地と深田に囲まれた要害である。寡兵をもって立てこもるには適しているが、主力同士の決戦を行なうには不向きな地形だ。柴田勝家は砦に入るや、すぐに兵の再編成に取りかかった。陣ぶれのない異常な出陣のし方であったため、もとから砦にいる兵と、鷲津・丸根両砦から来た鉄砲隊を除いて、通常の指揮系統は、今のところまったく機能していない。そこで勝家は五十人ずつ隊伍を組ませ、個々の隊の指揮を取る者を決めることから始めた。
「犬千代、犬千代ではないか!」勝家は驚きの声を上げた。
「今は前田又左衛門と名乗っております。おやじ殿、久しゅうござる」前田利家は懐かしそうに微笑んだ。
「御勘気は解けたのか」
「いえ、お許しはいただいておりませぬ。勝手に参りました」
「こんなときにおぬしがいてくれたら、と思わぬ日はなかったぞ。存分に戦おうではないか」
「はい。弱い駿河勢ではいささか物足りのうございますが、なにしろ敵は大軍。蹴散らしがいがございましょう」
 この大言壮語を聞いて、まわりの兵たちの顔が明るくなった。勝家は、みずから率いてきた手勢を利家に預け、隊を組む作業に戻った。
 部隊の再編成が済むのを見計らって、信長は勝家を呼んだ。
「今川方がこの砦に寄せてくる。鉄砲隊を全面に立て、撃退せよ。采配はお主に任せる」
「ありがたきかな」
 勝家の目が輝いた。一生の終わりに全軍の指揮を任されるとは、一兵卒として討ち死にしようと覚悟していた勝家にとって、この上もない喜びであった。
「わしはしばし策を練る。権六、まだ勝ち目はある。さようこころえよ」
「は!」
 勝家は勇んで砦の外に出て行った。気休めでもよい。今は殿を信じ切ることだ。勝家はそう思った。今、この砦にいるのは、大軍と戦う気概を持った者たちばかり。少々のことでは崩れぬ。何、小豆坂をもう一度やればよいのだ。
 織田信秀が今川の大軍を小豆坂で撃退したときには、今川方の地理不案内につけこんで要害の地へ誘い込み、一気に逆襲したのだが、その反省に基づいて今川方は今回の侵攻を計画してきた。もう一度同じ事が起こるはずはない。勝家はそんなことなど百も承知だが、あえて考えないことにした。

 勝家を頼もしそうに見送った信長は、藤吉郎に命じ、客人を迎えた。
「久しぶりだな。息災そうで何より」
 気兼ねからか、はるか下座に平伏しながら、頭を上げようともしない老人は、かつて父、信秀と中島の塩田を見たおり、説明をしてくれた庄屋であった。
「そんなところに這いつくばらなくともよいではないか。ささ、面を上げられよ」そう言うと信長は立ち上がり、みずから老人の手を取って立たせ、外の見えるところへ連れて行った。
「かたじけのうございます」老人は外見にそぐわぬ、生気のあふれた声で答えた。
「殿様もお元気のようで」
「今のところはな。だが、じきにどうなるかわからぬ。そこで一つ頼みがあるのだ。きいてくれるか」
「なんなりと」
「あの雲を見てもらいたい」信長は北西の空を指差した。
「降るか」
 老人はほんの少し首を持ち上げて、言った。
「このあたりに来るまで、あと半刻ほどですな。はじめは穏やかに降り出しますが、少しの間、大風を伴う嵐になり、激しく降った後すぐに止みましょう」
「間違いはないな」
「はい」
「大儀であった」信長は一礼の後、さらに付け加えた。
「これで少し胸のつかえが取れたように思う。ほうびは藤吉郎からもらってくれ」
「殿様、事ここに至っても百姓たちを根こそぎに駆り立てたりなさらなかったこと、ありがたいと思っております。どうか御武運を」
「すまんな。心配をかける」
 老人が村に帰った後も、信長はそこにとどまり、じっと空を見つめていた。
 銃声がとどろいた。始まったな。ここで押されれば、鷲津の部隊が攻め寄せてくるだろう。権六に鉄砲隊をうまく使いこなせるかどうかが問題だが、やらせてみるか。信長はしばらく待つことにした。

 柴田勝家は主だった将を集め、配置を決めていた。異を唱える者はなく、ほとんど問題なく進んでいったが、一つだけ勝家が頭を悩ませていることがあった。鉄砲隊である。
「鉄砲隊の指揮を取る者だが」
「それがしにお任せあれ」立ち上がったのは滝川という新参の武士である。鉄砲の名手という触れこみだったが、勝家はその腕前も将としての器量も知らなかった。緒戦の勝敗を左右しかねない鉄砲隊を新参者に任せてよいものかどうか、勝家は少し迷ったが、二心あるならばここには来るまいと思い直した。
「お任せ致す」
「この滝川彦右衛門一益、鉄砲にかけては誰にも後れを取りませぬ。御安心を」
 滝川一益は胸を張った。この一戦、たとえ敗れても命さえあれば、また仕官の道はあろう。今はただ、空前の大軍を向こうに回しての大いくさを存分に戦いたい。一益はそんな気持ちでこの砦に来ていた。
 作戦は、砦に引きつけた敵を鉄砲で撃ちすくめ、すくんでいるところを側面に迂回した部隊で叩く、という勝家の策で決まった。また、一益が立ち上がった。
「側面に迂回する部隊をもっと増やさねば、充分な効果があがらぬのではありませんか」
 勝家は不機嫌そうな表情を見せた。そんなことはわかっているが、どこからその兵を持ってくるというのか。その表情に答えるかのように、一益は続けた。
「鉄砲隊の護衛をする部隊を大幅に減らしていただきたい。それがしが指揮をする鉄砲隊は、敵を寄せ付けませぬゆえ、護衛の部隊をつけても、無駄に遊ばせることになります」自信に満ちた表情である。
「この地形では、側面に迂回するのに時間がかかるぞ」勝家は怪訝そうに言った。
「たまぐすりの続く限りは大丈夫です。さいわい、この砦には豊富に蓄えてある様子。問題はござらぬ」
 一益の提案を受け、結局、全軍の半数近くを側面攻撃に回すことに決まった。
 大変なばくちだが、このぐらいやらねば敵はひるまぬ。わが最期のいくさとして、ふさわしいものにしようぞ。勝家は、ひょっとしたらと思いたくなるおのれに警戒をしながらも、そう思った。

 中島砦を攻撃するべく本陣を後にした松井宗信は、中島砦を監視していた兵千を合わせ、攻撃の準備を終えていた。
「中島砦から、脱走する兵が相次いでおります」物見の報告を聞いた宗信は、今こそ好機、と思った。鷲津の兵の力を借りるまでもない。一気につぶしてしまおう。織田の脱走兵と見えたのは、実は側面に迂回する部隊であったのだが、信長敗走によって織田方の士気が振るわなくなっているとの先入観から、宗信は総攻撃を命じた。
「かかれ!」

 滝川一益は、百五十丁の鉄砲隊を三隊に分けた。分けたといっても、元から中島砦にいた部隊、鷲津砦から来た部隊、丸根砦から来た部隊、と元の部隊編成のまま手をつけなかっただけである。一益はその三隊を、左・中・右と配置し、それぞれの隊に命じた。
「左隊が先に撃つ。その銃声を聞き終えてから、中の隊が撃ち、同じようにして右の隊が撃つ。あとは各人自由に撃て。鷲津・丸根で死んでいった者たちへの魂鎮めと思い、一発一発、よくよく狙って撃つのだ」
 やがて、今川の軍勢が一斉に駆けてきた。
「まだだ!まだ撃つな!」一益が大声で兵たちに告げる。
 深田にはまり、今川の兵たちの進む速度が鈍り始めた。ぬかるみに滑って転ぶ者もいる。
「今しばらく!今しばらく待つのだ!」一益はさらに大きな声を張り上げた。
 今川の兵の前進が止まった。全員が深田に足を取られて身動きできず、中にはずぶずぶと沈んでしまいそうな者もいる。
「左隊、よく狙え。撃てー!」
 待ちかねたかのように、轟音がとどろいた。
 今川の兵たちは、進むも引くもならず、かかしのように突っ立っている。
「中隊、撃て!」「右隊、撃て!」
 織田方の射撃は、面白いように当たり、今川方は次々と倒れていった。
 鷲津・丸根を捨てる砦とみた場合、敵を支える最前線の砦は中島砦になる。そこで信長は、敵が大勢で寄せてこれる唯一の正面に、藤吉郎に命じて中島の百姓たちを動員し、前もって大きな落とし穴を掘らせ、よく水で溶いた泥をその中に入れて、さながら底無し沼のような状態にしておいた。つい数日前のことである。
 信長と同様の戦術的判断から中島砦に注目していた一益は、その工事の情報を得るや中島におもむき、みずからの目でその様子を見ていた。敵を寄せ付けぬとの自信は、そこからのものであった。
 鉄砲を発射してから次に撃つまでの動作の速さは、兵によりまちまちである。熟練した兵でも、精神集中のためにわざとゆっくり弾を込める者がいる。したがって、練度の不ぞろいな大勢の兵が勝手に鉄砲を撃つと、見方によってはばらばらに、だが途切れることなく鉄砲の音が鳴り響くことになる。このときも、常に十丁ほどが射撃をしている格好になった。もはや一益の役目は、敵が回り込んでくるかどうかを警戒することと、たまぐすりが足りなくなることのないように気を配ることだけであった。

「鉄砲百五十丁だと!」松井宗信は、思わず立ち上がった。間断なく鳴り響き続けている銃声が、いっそう無気味に聞こえてくる。
「早く、兵を引かせよ。すぐにだ!」
 宗信は、中島砦を単なるつなぎの砦とみて、まともな偵察も行なっていなかった。砦の様子を調べ、あらためて策を練り直さなければならぬ。そう考えて唇を噛んだ宗信は、ゆっくりと床几に座り直した。だが、すでに後手であった。
「敵襲!新手数千!」金切り声のような叫びが上がった。先ほどの退却の命令と途切れのない銃声、そして思いも寄らぬ敵襲の報が合わさり、全部隊が浮き足立っていた。実際に攻めかかってきたのは、中島砦からの迂回攻撃部隊千あまりに過ぎなかったのだが、今川方は襲いかかってくる敵を目にした途端、次々と潰走を始めた。
「おのれ!」みずからに活を入れるためにそう叫んだ宗信であったが、もはやできることはおのれの手勢をまとめ、退却することだけであった。

 待った甲斐があったな。迂回攻撃部隊を率いる前田利家は、おのれの判断が正しかったことを知り、少しほっとした。鉄砲隊の様子を観察した上で動くと決め、場合によったら砦の救援に戻ることまで考えていた利家であったが、滝川一益の指揮は利家の想像以上に見事であった。後は敵がうろたえて兵を戻す際につけ込むだけでよい。敵が逃げるのを見た兵たちは、それぞれに突進して行く。敵は踏みとどまろうとせず、さらにうろたえてばらばらに逃げて行く。こうなれば指揮の必要はない。おのが功名のことを考えるとしよう。利家は槍を握り直し、喚声を上げて突進していった。

 勝家は深追いをさせず、兵を戻し、やって来た信長に緒戦の勝利を報告した。
「よくやった。兵の士気も上がっていよう」
「天をつくばかりです」勝家はうれしそうに言った。居並ぶ諸将も誇らしげである。
「今より、今川義元の本陣を襲う」
 信長の命に、全員の顔が引きつった。
「殿、それはあまりにも・・・」勝家は口ごもった。信長は有無を言わさぬ眼光をしている。誰も何も言えなかった。
「運は天にあり。この言葉を知らぬか。敵は夜間から行軍を続け、大高城に兵糧を入れ、砦を落とし、疲れ切った兵だ。こちらは新手。数の違いなど恐れることはない」
 その言葉が兵に対する気休めに過ぎないことは、信長を含め、将の全員がわかっていた。だが、それを口にする者はいない。
「鉄砲はすべて、この砦に置いて行く。持ち替える槍は用意してある。用意ができ次第、出陣だ!」
 無言の将たちを無視するかのように、兵たちからときの声があがった。

 信長は先頭に立って進んでいる。将たちが後に続き、その後を兵たちが進む。およそ敵前ではありえないような行軍形態だが、これにより兵たちは、これから死線を越えに行くとは思えぬほどの、安心感を持って進んでいた。
 やがて、しとしとと雨が降り始めた。真昼間だが、空は暗い。

 運は天にあり。
 信長は高らかに声を上げて笑った。

(その二十七、中島砦 了)




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