「美濃から来た童」
作/久住様



二十六、死線B


「今川勢が動いた。隼人正殿、今川義元は動くであろうか」千秋四郎は血走った目を向けながら、突然佐々隼人正に尋ねた。
「すぐには動かぬでしょうが、兵を送った先の状況次第では動くことがありえます。いずれにせよ、今川が本陣の兵を動かしたということは、殿が近くまでいらしているのは確実でしょう」
 信長が鳴海城を攻撃し撃退されたという情報は、すでに四郎たちの元に届いていた。本陣の兵を動かした目的が、信長を討つことにあるのは明白だった。四郎は立ち上がった。
「隼人正殿、後は頼む」そう言って四郎は深々と頭を下げた。
「短気を起こしますな」隼人正の言葉に四郎は首を振り、
「もう充分に気を長くして待ちました。この上は、今川義元の肝を冷やしてやりたいだけです。お二方ともに、お世話になり申した」もう一度頭下げて四郎はその場を去った。
「人が変わられたな」飯尾信宗がつぶやいた。両砦から二筋の煙が上がって以来、先ほどまで、四郎はまったく口をきかず、ただじっと今川の本陣の方向を凝視し続けていたのだった。死ぬとするか。信宗にはあのような状態のまま、四郎を敵の手にかけるのは忍びなかった。
「飯尾殿」隼人正が声をかけてきた。
「なんでござろう」虚をつかれて、信宗は少しうろたえた。
「おそらくそれがしと同じことを考えておられるご様子だが、今の四郎殿には、それがしの方が力になれましょう。どうかこの陣にお残り下され」信宗が答える間もなく、隼人正は信宗の前に出て、土下座した。
「お願い致す」
「面をお上げ下さい」信宗はひざを着き、隼人正の肩をかき抱いた。「隼人正殿の方がこの世に必要とされるお方でございましょう」
「わが息子のこと、わが家のこと、すべて殿によくよくお願い申し上げてから、砦に参りました。死ぬことこそわが役目でござる」隼人正は面を上げ、立ち上がった。
「ごめん」
 立ち去った隼人正を見送って呆然としていた信宗も、やがて立ち上がった。

 四郎はおのれの隊に戻り、黙々と出撃の準備を始めた。おびただしい殺気が四郎の回りをただよっている。その気配を感じ取ってか、隊の全員が、沈黙のまま出撃の準備を始めた。
 奇妙な静寂の中、四郎は準備を終えた。すでに隊の者たちは隊伍を組み終えている。
「出陣」かすれたような声で言うや、四郎は一人で進んで行った。隊の者たちは後ろから整然とついて行く。隊の誰一人として、見送りに来た飯尾隊には目もくれず、気付きもしない様子である。千秋隊は無言のまま、まっすぐ前だけを見て今川義元の本陣に向かって進んで行く。
 これでいい。信宗にはなぜかそう感じられた。どこかおびえたような飯尾隊の者たちにかまわず、信宗は四郎のいた場所に行き、腰を下ろした。隊の者たちも、同様に腰を下ろした。皆、無言である。

 隼人正は、おのれの隊の者たちを集め、言った。
「わしはこれから死にに参る。おぬしらも仲間を討たれ、わしと同行したいところであろうが、しばらく待て。わしが討たれた後は、いったん敗走し、ふたたびここに戻り、飯尾殿の下知に従え。死ぬならば、殿をお守りして死ぬのだ。今死ぬべきは、わし一人でもよい。すまぬが、こたびは生き延びてもらいたい」隼人正は、いったん言葉を切り、皆の顔を見た。皆一様に血走った目をし、無言の怒気が、吹き上がる機会をうかがっている。これは、多く死ぬかもしれぬ。隼人正は少し残念な気分になった。が、いたしかたあるまい。
「準備でき次第出陣する。急げ」

「敵襲!兵三百!」
 今川の本陣に緊張が走った。
「どこからだ」義元は緊張を和らげるように、のんびりとした口調で聞いた。
「北東方向、伏せていたようです」
 伏兵か。なるほど、信長の切り札はこれか。いくつかの要所に兵を伏せてあるとすると、これはうかつに大高城には入れぬな。陣を構えて動かずに正解であった。
「戦闘準備」
 前陣と中陣の鉄砲隊が一斉に弾込めを始めた。壮観である。それにしても、兵一万をもってしても抜くあたわざるであろう堅陣に対し、わずか三百とは、信長もたわけたことをするものだ。大高城への移動中を襲うつもりであったのだろうが、あてが外れたとみえる。そこに義元は信長の浅知恵の限界を悟った、ようなつもりになった。

 敵襲の知らせは、山田新右衛門のところにも、同時に届いていた。
「敵の背後に迂回し、味方の前陣と中陣の鉄砲で、敵が崩れかかったところを蹴散らすのだ」
 この状況は、すでに何度も訓練してある。訓練通りに行なえばいいだけであった。
 それにしても、三百とは少ない。伏兵を置くなら、最低でも千はなければ話にならない。それも、一気に襲いかからねば、無駄死にするだけだ。敵もよほど知恵が足りないとみえる。
 新右衛門の心の中に、少しずつ敵への侮りが広がっていたが、新右衛門自身は気付かなかった。

 鉄砲の射程に近づいて四郎はいったん立ち止まった。後に続く兵たちも前進を止め、さっと横に広がった。敵は大量の鉄砲の筒先をそろえ、こちらが襲いかかるのを待ち構えている。五百丁の鉄砲。味方の数をはるかに越える量の鉄砲に、正面から向かって行くことが何を意味しているか、四郎は充分承知しているつもりでいた。だが、死への恐怖以上の、言い知れぬ威圧感の前に、四郎は立ちすくんでしまった。
「四郎殿」声をかけて肩を叩いたのは、隼人正だった。四郎は隼人正の笑顔を初めて見た。
「四郎殿、いくさを始めるにあたり、名乗りを上げるのが礼儀ですぞ。源平のころとは違いますから、長々とはいりませぬが」そう言って隼人正は大音声で名乗った。
「我こそは佐々隼人正政次。命の惜しくない者は、かかってきませい!」
 隼人正にうながされ、四郎も名乗った。
「我こそは千秋四郎季忠。今川三河守義元、御しるし頂戴いたす!」
四郎の脚の震えは止まっていた。それを見た隼人正は、来てよかった、と思った。
「四郎殿、わが隊の者には、最初の鉄砲で退却するように命じてあります。ここはわしに任せ、お退き下され」
 四郎はうってかわった穏やかな顔つきで、ゆっくりと首を振ると、叫びながら駆け出した。
「進めやー!」
 三百の兵が一直線に駆け出した。前陣の二百丁の鉄砲が、轟音を発した。射手の練度が低いためか、倒れる者は少ない。そして、退く者も、足を止める者もいなかった。隼人正は四郎を追い越し、盾になるかのように、四郎のすぐ前に出た。中陣の三百丁が火を吹く。先頭に立って駆けていた者たちの半分が倒れた。
「隼人正殿!」
 四郎は崩れるように倒れた隼人正を抱きかかえた。
「もう・・・助かりませぬ」隼人正は、切れ切れにつぶやいた。
「気を確かに。傷は浅うござります」
「気休めは・・無用のこと・・・早く・・・退却を」
 四郎は隼人正を横たえ、立ち上がって叫んだ。
「退けー!退くのだ!」
 隼人正の隊がすぐに退きはじめ、四郎の隊の者たちもそれに続き出した。
 今川義元はおのれの独特の美学からか、一斉射撃にこだわった。一斉射撃の心理的効果は大であるが、反面、連射速度の大幅な遅れを招くことになった。そのほころびをつくろうべく、山田新右衛門の隊が戦場に到着した。
 四郎は隼人正の身体を抱きかかえ、走り出した。後ろから一騎の騎馬が追ってきていたが、四郎は振り返ろうともしなかった。突然、迫ってきた騎馬武者が四郎を背中から槍で刺し貫いた。四郎は声もなく倒れた。
 これが鉄砲隊を相手に名乗ったむかし者か。新右衛門は脇差を抜き、倒した敵将の首を取る前に顔を見た。驚きも恐怖もその表情にはなかった。このような古い愚か者たちが相手なら、信長の首を取るのも難しくはあるまい。新右衛門はなにげなく空を見上げた。
 陽がかげりはじめていた。

「敵は兵五十と将二人を失ない、潰走した模様」
「深追いはするなと新右衛門に伝えよ。次の襲撃があるやもしれぬ。早く持ち場に戻れ、と」
「は」
 やがて四郎と隼人正の首が届けられた。義元は満足げに言った。
「天魔の軍勢でも、この陣は崩せぬ。わが槍に、かなう者なし!」
 鼓と笛の音が、それに答えた。先ほどの者たちである。
 義元はさらに満足そうな表情を浮かべ、謡をうたい始めた。

(その二十六、死線 了)




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