「美濃から来た童」
作/久住様



二十六、死線A


  善照寺砦を目の前にして、信長は兵を留め、単騎で進み出て行った。
「右衛門! 出てまいれ! 急げ!」
 善照寺砦の守将、佐久間右衛門信盛は、信長の叫び声に、震え上がってしまった。
「兄者、どうする?」弟の左京助が駈け込んできた。弟の慌てた様子を見て、信盛は、少し気持ちが落ち着いてきた。
「我が手勢を集めよ。予定を早め、鳴海城で始末する」
「砦の中に潜んでいる者たちは?」
「皆、出て来させよ。砦での待ち伏せは中止。わが手勢全員で殿を囲み、鳴海城からの鉄砲を合図に殿を討ち取る。物頭たちにそう伝えよ」
「わかった。うまくいくのであろうな」左京助は念を押した。信盛は腹を立てた。
「知るか。うまくやるしかあるまい」信盛は、実は自信がないながらも、精一杯の虚勢を張って答えた。
 しばらくして、同心していない者たちを砦に残し、佐久間隊二百余は信長の元に向かった。信長の率いる兵は徐々に増え、今は千五百を越えている。単独では勝ち目がないが、鳴海城の岡部隊二千と共同で奇襲するなら、討ち取ることもできそうである。
「右衛門、遅かったな」信長は、普段と変わらない表情で信盛を迎えた。信盛は計画通り、信長に言った。
「殿、お喜び下され。今川に恨みを持つ者たちと渡りが着き申した。殿が鳴海城に攻めかかれば、それを機に城門が開かれます」
「右衛門、でかした!」信長は叫び、近寄って信盛の肩を叩いた。感極まった様子である。信盛は少しほっとした。
「ほうびじゃ、受け取るがよい」信長が小姓に合図をすると、小姓が信盛の前に進み出た。
「これは・・・」信盛の顔色が変わった。信長は何食わぬ顔で命じた。
「わが馬印を与える。わしの名代として、鳴海城を奪い取れ。名誉であろう?この上は、さらなる功をあげるのだな」
 信長の言葉は、今の信盛の耳には入らないようであった。二人の間の空気が一変していた。殺される。信盛はただ殺気だけを、今の信長から感じ取っていた。
「承知仕った」信盛は蒼白な顔のまま受け取ると、隊に戻り信長の馬印を掲げた。
「兄者、正気か」左京助があきれたように言った。
「こうせねば殺される」信盛はつぶやくように言った。勝ち目のない相手に牙をむいてしまったおのれの迂闊さを、信盛は呪っていた。今の信長にとって、佐久間兄弟を討つのは実にたやすいことであった。左京助は、軍勢を率いて善照寺砦に入っていく信長を恨めしそうに見つめた。
「逃げれば」左京助の問いかけは、隊へ戻る間に、信盛がすでに何度もおのれに問うたものであり、その答も、もう何度も信盛の中で出ていたものであった。いや、すでにその前に、信長の無言の姿から発せられていた答かもしれなかった。
「追われ、討たれる」
「では」
「進むしかない。この馬印を掲げて」
「無理だ。あの城をこの人数で落とすなどと」
「敗れるは承知の上」信盛は奇妙に冷静になっていくおのれを感じた。
「万が一、城を取れれば良し。敗れて砦に戻っても、よもや討たれることはあるまい」
「兄者、やめてくれ。味方を殺すために進むなどと」
「進まねば、皆死ぬ。進めば、生き残る者もあろう」
「兄者」何か言おうとして、左京助は口をつぐんだ。もはや何も言うことはないと気付いたからだった。
「では、行こう」信盛は左京助を促し、先に立って進んだ。

 なかなか見事な動きだ。よく訓練できている。信長は佐久間隊の動きを見て思った。お互いに生きて戻れれば、今後大いに使ってやるとしよう。
 今川義元とは異なり、叛意を抱いたからといって、誅殺するような意思は信長にはなかった。かえって、叛するなら叛するで、なぜ昨夜のうちに首を取らないのか、その実行力のなさが、信長には許せなかった。佐久間信盛など、一応の計画を調えてあっただけ、まだましである。こたびは思い切り肝を冷やすがいい。生き延びれば許してやろう。さしあたり信長には、おのれが生き延びる心配の方が先であった。善照寺砦に残っていた兵を合わせ、織田勢は砦の外へ出て、南へ向かった。しばらくして、鳴海城の方向から銃声がとどろいたが、信長は気にも止めなかった。

「織田信長、出て来ました!その勢二百!」
「二百?間違いないか」
「間違いございませぬ」
 少なすぎる。岡部元信はいぶかしげに外を見た。確かに信長の馬印を中心に二百ほどの兵がこちらに向かってきている。分進しているのでも、後続があるのでもなさそうだ。
 確かにあの馬印は織田だが、率いている将は?
「半蔵!いるか!」元信は叫んだ。
「代わりの者が控えております」後ろから声がした。元信は振り向きもせずに言った。
「暗殺は中止。以後、信長には手出し無用。そう伝えよ。それから、噂をまけ。織田信長が鳴海の城を攻め、討ち死にした、と」
「承知」
 元信はもう一度目を凝らし、近づいてくる敵将を見た。間違いない。佐久間信盛が蒼白な顔で馬上にいる。
「あのうつけに、たばかられたか」元信は口惜しそうにつぶやいた。しょせん、佐久間の策に乗せられるような相手ではなかったということだ。今後いかなる方法で信長を殺そうとも、暗殺という事実は御屋形様の知るところになろう。それは避けねばならない。元信が他の方策を考えようとしたとき、轟音がとどろいた。いかん。元信は振り返って叫んだ。
「鉄砲隊に撃つのを止めさせろ。追撃も許さん。急げ!」
 使い番が走り出て行った。
 これから味方になろうという者を殺す必要はない。たとえ、いずれは御屋形様に誅殺されるとしても、今のところは。
 元信は気持ちを切り替えた。善照寺・丹下両砦占領の準備を始めねばならない。信長討ち死にの噂を信じて意気阻喪する隊ばかりでなく、気丈にこの城を攻めに来る隊もあるだろう。手順の確認をしながら、元信は胸中に不安がわだかまっていくのを感じていたが、元信はみずからの不安を無視することにした。

「先行する隊があります」
「味方か?」裏切り者たちに隊伍を組む余裕を持たせないように出陣したのだが、先行している隊があるとは、信長には少し意外だった。
「柴田様の軍勢です」
「権六か。ここに呼べ」
 ほどなくして、柴田勝家がやってきた。ずいぶんと急いでいる。勝家は信長を見るとあわてて下馬し、走り寄ってきた。
「殿、どちらへ参られます」勝家は息を切らしていた。
「中島だ。おぬしらもそうであろう」信長はなおもぜいぜいと苦しそうに息をしている勝家を、不思議そうに見やった。
「なりませぬ!ここから中島までの道は、じきに深田の中の一本道になります。一本道に並ぶ格好になれば、敵にこちらの小勢なることを知らせてやるようなもの、どうか御戻り下され」勝家は信長の馬にすがりついて止めようとした。
「おぬしも中島に行くのであろう?」信長は、よくわからない様子で、きょとんとした顔をしている。
「それがしは一戦して死のうと思っていただけで、殿がおいでになるなどとは思いもよりませなんだ。鷲津・丸根が落ちた今、次に敵が寄せてくるのは中島砦です」
「そんなことはわかっておる。先陣を勤めよ。行け」
「は」
 こうなればいかなる説得も無駄であることを勝家は承知していた。後は殿の御前にて、華々しきいくさを披露するのみ。幸い中島砦は、攻めるに難い要害なれば、思うまま暴れてみせよう。勝家は気力がみなぎってくるのを感じた。最期のいくさならば、やはり殿の御前で死にたかった。勝ってやる。勝って勝って勝ち続けて死んでやる。すさまじい勢いで馬を走らせる勝家の心を、子どものような昂揚感が満たしていった。

「織田信長が鳴海城を攻撃し、撃退されました」
「敗れた信長は鳴海城攻略をあきらめ、中島砦に向かっております。その数、二千たらず」
 北と北西の警戒部隊から次々に報告が入ってくる。そのいずれもが、織田方の敗勢を示しているように、今川義元には思えた。特に、二千という信長の兵の少なさは、織田方の兵の脱走が相次いでいるのではないか、という想像をかき立て、このまま信長が退却してしまうのではないかという不安すら起こってきた。本陣の兵をわざわざ五千に減らしたのだが、まだ織田信長をかいかぶっていたようだ。
「松井五郎八を呼べ」
 遠州二股城主、松井五郎八宗信は、歴戦の功を買われ、山頂の部隊の指揮を取っている。
「まかりこしました」宗信はすぐにやってきた。
「兵千五百を率い、北西に出してある部隊千と合わせて、中島砦を攻めよ」
「山頂が御旗本だけになりますが」
「ここに二千もの兵を置いたのは誤まりであった。多くの兵を遊ばせてしまうのでな。山頂の兵が少ないほど、敵は侮って攻めかかってくるというもの。ここはわが旗本五百だけでかまわぬ。それより、中島砦に織田のうつけが敗兵を率いて向かっておる。これを叩け。敵の士気が阻喪し、崩れそうであれば、のろしを上げよ。鷲津に控えている軍勢が中島に殺到するであろう。決して織田信長を取り逃がすでないぞ」
「承知仕りました。すぐには鷲津の兵を動かさぬのですか」
「あまり早く兵を動かしては信長に逃げられてしまう。この陣に攻めかかってくれれば逃がすことはないのだが、贅沢は言うまい。頼んだぞ」
「すぐに山を降り、中島に向かいます」
 宗信は兵をまとめ、南東の方向に降りて行った。狭間にはまらない用心である。ふもとで、軍勢をそろえて見送ってくれる中に山田新右衛門の姿を見つけた宗信は、馬を止めた。
「新右衛門殿」
「松井様、御武運をお祈り申し上げます」
「かたじけない。殿をよろしく頼む。深いお考えがおありなのはわかるが、どうにも心細くてな」
「必ずお守り申し上げます」
「わざわざすきを作らなくても、充分勝てるいくさだと思うのだが、御屋形様は完璧を求めていらっしゃるようだ。くれぐれも用心してくれ」
「かしこまりました」
 宗信の軍勢は平地に降りるとまっすぐ北西の中島砦に向かって行った。山頂からそれを見送る旗本たちの間に、緊張感と少々の不安が起こってきたのを、義元は見て取った。緊張感はよいが、不安は崩れの元になる。
「鼓を持て。誰か笛をたしなむ者は」
「こちらに」
「鷲津・丸根を攻め落とし、満足これにまさるものはない。謡をうたう。楽を奏でよ」
 義元は謡を三番うたった。兵たちの間に安心感が広がっていくのが、義元にははっきりわかった。




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