-
「美濃から来た童」
作/久住様
二十六、死線@
今川義元は見晴らしのよい小山の上に陣を構えている。童はその陣の様子をじっくりと見て、首を振った。
よく考えて布陣してある。これといって弱点は見出せなかった。
今川義元は本陣の兵五千を前陣二千・中陣千・後陣二千の三隊に分け、各部隊を小山のふもと、すぐ上の斜面、頂上と、それぞれ北西に向けて配置し、ふもとと斜面は鉄砲隊が、義元のいる頂上は旗本が固めている。ふもとは周囲の小山との間で狭間をなしており、回り込まれるのを防いでいる。唯一開けた南東側のふもとには、義元の懐刀、山田新右衛門の兵七百が布陣している。おそらく選りすぐりの兵たちであろう。
鉄砲隊の弱点である側面と後方から攻撃される可能性を封じ、五百丁の鉄砲を最大限に活用した布陣である。正面から攻めるしかないが、正面攻撃だけでは、倍の兵力でも崩すのは困難。しかも攻撃している間に、後方の鷲津方面から一万になろうかという兵が迫ってくる。鉄砲の射程内に踏み込んだが最後、もはや全滅覚悟でしゃにむに進んで行くしか方策はない。
死線を踏み越えても、まともないくさにはなるまい。
たかだか二、三千の兵しか持たぬ信長が崩せる陣ではなかった。織田方の兵たちの屠殺場として、入念に組み上げられた陣であるように、童には思えた。
奇襲でもかけなければ無理であろうか。
しかし、奇襲が成立する見込みはまったくないようであった。義元が布陣した小山は周りの小山より一段高く、どの方向から近づいても、見つかってしまう。しかも義元は、本陣の五千とは別に、それぞれ兵千からなる三つの警戒部隊を北西、北、北東の三方に配していた。北西の部隊が織田方の中島砦、北の部隊が善照寺砦を監視し、北東の部隊は鎌倉街道からの迂回を警戒している。どの方向から敵が来ても、今川方は、接近されるかなり前に準備を整えることができるだろう。しかも日はすでに高く上っている。真昼間に奇襲をかけるなど、どだい無理なことであった。もし仮に夜襲をかけたとしても、狭間に迷い込み失敗する見込みが高い。今川本陣の兵が五千と少ないことも、兵の統制を取りやすい要因として働き、奇襲による混乱を起こし難くしている。
まさに鉄壁の布陣。だが、鉄壁さゆえの弱点も同時にみえた。
義元はこの陣に執着するだろう。おのれの策の完璧さに酔いたいならば、義元はこの陣から動けない。この陣を崩す策さえあれば、義元の命運は尽きる。
元来、大げさな細工を使わなくても、大軍をぶつけてしまえば勝てるいくさである。それをわざわざこのように時間をかけて仕組んだところに、童は義元の慎重さばかりでなく、おのれだけの力で勝ちたい、おのれの優秀さを証したいという焦りのようなものを感じていた。
老師を越えたいということなのだろうか。童には、少し義元が気の毒に思えてきた。
義元の育ての親といってもよい老師、雪斎は、政戦両略において、怪物的な芸術家であった。義元が幼いころにその師となって以来、今川家の家督争いに介入して義元を当主の座につけたことに始まるその政治的軍事的な「作品」には、徹頭徹尾、いささかの曇りもない。雪斎であれば、鉄壁の布陣をみずから鮮やかに消し去って、敵を混乱の極に陥れることすらやりかねない。そこに雪斎の老獪さと義元の幼さが同時にみえてくるのだが、義元はおのれの執着に気がついていないようだ。
だが、崩せるのか。義元個人にすきがあっても、陣を崩せなければ付け入りようがない。童はしばらく考え込んだ。
地の利がなくても、天の時を得れば、あるいは。しかし、そうすると、鷲津方面の敵をどうにかして足止めしなければ。
「今川の物見が近づいております。お戻り下さい」
童の考えは突然さえぎられた。
「では、戻りましょう」
童は空を見上げた。信長もさぞかし空が気になるであろうな。
信長は海を、いや、空を見つめている。佐脇藤八は気が気でなかった。
「殿、今は潮が満ちております。ここから南へ行くことはできませぬ」
信長はなおも空を見つめ続けている。やがて、つぶやくように言った。
「承知しておる。来た道を戻り、丹下砦へ向かう。先触れを出しておけ」
「はっ」
駆け出して行った藤八には目もくれず、信長はなおも空を見つめていた。
あの雲がそうだとすれば、いささか虫が良すぎるが、そうでなければ終わりだな。いずれにしても、昼を過ぎなければいくさはできぬ。
信長はゆっくりと馬首をめぐらせた。
これから丹下砦の兵を合わせ、善照寺砦へ向かう。佐久間信盛が何か企んでいるようだが、その時はその時のことだ。ことここに至っては、おのれの才覚でどうなるものでもないが、不思議といらだたしさはない。後は進む時を見定めるのみ。誤まれば死ぬ。それだけのことだ。
信長は悠然と馬を進ませていった。
「殿は!いずこにおわす!」もぬけの空になっていた熱田神宮を見て、佐々成政はこらえきれず叫んだ。まわりの者たちは一様に疲れ切ったような表情を浮かべ、ある者は力なく首を振った。佐々党と前野党を率い、丹下砦の近くに陣を敷いていた成政の元に、急使が飛び込んできたのは夜明けごろのことだった。
「殿は笠寺方面に御出陣。早急に御出馬あれ!」
だが、鳴海城から西へ、海を隔てた笠寺方面に行ってみれば、そのような様子はまったくなく、待っていても、同様のしらせを聞いたわずかな兵が集まってきただけだった。殿を待ち続ける間にも、様々な噂が次々と飛び込んできた。
全兵力を清洲に集め、籠城なされるとか。
熱田で集合と聞いたのだが、まことであろうか。
古渡城で陣ぶれがあったそうな。
中島に集まると聞いた。
善照寺砦から鳴海城を攻めていると。
那古屋で敵を迎え撃つとのしらせであったが。
悩みぬいた末に、成政は熱田へ向かった。しかしそのころ、すでに信長は丹下砦の兵を合わせ、善照寺砦に向かっていた。熱田では、近在の百姓たちが落ち武者狩りのために集まりつつあるようではあったが、織田の兵が集まっている様子はない。信長の足取りを見失なった成政は、結局最初にいた陣へ戻ることにした。
いったいどうなっているのだ。混乱した頭を抱えながら、成政は思った。いずれにしても、いったん陣へ戻り、兵たちを休ませねばならない。皆の足取りは重かった。
「織田の兵たちは混乱しているようだな」鳴海城の岡部元信は、してやったりという笑顔で服部半蔵に言った。
「様々にまいた噂に踊らされ、今のところ千あまりの兵がうろうろとしております。しかし、時がたてば信長の元に集まってまいりましょう」半蔵は冷静に答えた。
「その、時が大事なのだ。信長の首を取るはずの者たちは、いかがした」
「何もできずに清洲城の守りを固めております。敗れて戻ってきたときを狙っているようです」
「つまらん連中だな。落ち武者狩りしかできぬとは」御屋形様が返り忠を好まれぬのも、むべなるかな。元信は少々気分を害しながら思った。
「噂ではなく、本物がそろそろ参ります」
「そうか。半蔵、おぬしはどう見る。佐久間信盛の申し出は信用できるであろうか」
「詐術ではないようです。佐久間の手勢が信長を討つ準備を進めているのは事実です。ただ、信長がこの程度の策で命を落とすものかどうか」
「わしもそう見る」元信は少し考えて、言葉を続けた。
「半蔵、手だれを十名ほど伏せておけ。暗殺とは思われぬように頼む」
「では、流れ弾に当たったということに」
「うむ。目立たぬようにな。織田勢が逃げていく時に襲うのがよかろう」
「手配いたします」
半蔵は一礼して、出て行った。
元信も立ち上がった。すでに出迎えの準備は完了しているが、もう一度配置の確認をしておこう。
もし信長が来なかったら。
歩きながら、元信はあらためて考え直した。できることならこの城を捨てて動きたいが、それは許されぬ。来なければ城の守りを固め、勝報の届くのを待つしかないか。もう何度目かの同じ結論が出て、元信はさらに気分を害した。
新右衛門、うまくやってくれよ。
元信は突然、祈りたいような気持ちになった。
「あいつらは何をしているのだ」物頭はいらだたしげにつぶやいた。この物頭の隊は、義元の構想の中で北警戒部隊と呼ばれる部隊に属していたが、その名はこの物頭の知るところではない。
物見に出した兵たちの帰りが遅いのを心配して、捜しに出たこの物頭の目にうつったのは、村の入口付近で、赤い顔をして寝そべっている兵たちの姿だった。戦闘中に敵地で饗応を受けるとは、なんたる阿呆どもか。物頭はみずから村へ走り、無警戒に寝そべっている兵たちを拳骨で殴って回った。
「これは、いかがなさいました」純朴そうな中年男が驚いた表情でかけよってきた。
「この村の者か」物頭は息を弾ませながら怒鳴った。
「庄屋にございます。このあたりの田畑への乱暴を思いとどまっていただくよう、天下様の軍勢にお願いをしていたのですが、何かまずいことでもあったでしょうか」
「おぬしらの心根はともかく、われらにとり、ここは敵地。このまま連れて戻る。迷惑をかけたな」
「とんでもございません。天下様の軍勢をもてなすに、迷惑などと」
物頭は無言で兵たちを連れ、振り向きもせずに去っていった。
庄屋と名乗った蜂須賀小六は、ふうと一つ息をつき、汗をぬぐった。
この策はどうやら、うまくいくらしい。お頭から聞いたときは、どうなるものかと思ったが。
「百姓は命あっての物種、逃げもせずにそのようなたわけたことをする村など、あろうはずがございません」
百姓が逃げて無人になった村に入り、今川の兵が来たら、酒肴でもてなすという策を童に示された小六は、珍しく反論した。
「三河侍ならともかく、駿河遠江の兵ならば、警戒致しますまい」童にそう言われて不承不承同意した小六であったが、今になって、ようやく心中の不安が消えていくような気がした。
しかし、これからわが軍勢はどうするのだろう。村の中で待機している百五十の兵は、この大いくさにあって、ちっぽけな虫けらのようなものだと小六は思い、あらためて心配の種が芽を出し、育っていくのを感じた。けれど小六には、再び今川の陣を見に出ている童を待つ以外、何もできない。
おまかせするしかあるまい。今までと同じように。ようやく小六は、それでいいと思うことができた。心配はどんどんと大きくなっていったが、小六はもうそこには関わらなかった。