「美濃から来た童」
作/久住様



二十五、陥落C


 戦闘中止の命令を聞いて、大久保忠世は落胆とも空虚とも違う空白感を感じた。ただ、することがなくなってしまったような、穴の開いたような感覚である。
「助兵衛、何をしている」疲労に襲われ、砦の近くでへたり込んでいる者の多い中で、小谷助兵衛は土いじりをしているように見えた。
「あ、大久保様。やっぱりここの土、持って帰りましょうよ。表面は固めてありますが、少し掘れば、ほら」助兵衛は手に持った小枝を黒い土に差し込んだ。さしたる抵抗もなく、小枝が土に吸い込まれていく。
「すごく深くまで耕してありますよ。いい土だなあ」
 忠世はあきれて立ち去った。だが、まだ子どもだな、と思うと共に、何か大事なことを忘れているような感じを受け、忠世はその場に座り込み、考え込んでしまった。

「まことに重厚な布陣ですな」近江守は楽しそうに言った。
「付け入る隙がまったくありません」玄蕃も楽しそうである。
「やはり火攻めですか」
「今度は敵方からですが。こちらが油袋を投げても届かぬあたりから、火矢を射込んでまいりましょう」
「それに対して、弓隊を並べましたか」
「左様。数の勝負になりますので、あまり能のある策ではございませんが」
 あたり一面に盾がすきまなく並び、ゆっくりと前進してきている。
 砦方は弓隊を並べ、間合いを計っている。
 盾の前進が止まった。
「射かけよ!」
 双方の物頭が叫び、おびただしい矢の応酬が始まった。盾のある今川方が優勢だ。平地なら曲射で盾の向こうを狙えるのだが、上から下に向かって射かける場合、盾の向こう側を射抜くのはほとんど不可能である。砦方の弓隊の被害が多くなり、射かける矢の数が減ってきたころ、今川方は火矢を多く射だした。
「後退しましょう」近江守は玄蕃にうながした。
「弓隊も後退ですな」玄蕃が合図をすると、弓隊は一斉に所定の場所へ後退した。
 敵は用心してなかなか進んでこない。かわりに火矢を大量に射かけ続けている。やぐらが次々と炎上し、柵も倒れていく。
 火矢の流れが、止まった。
 一瞬の沈黙の後、喚声を上げながら今川の各隊は突撃を始めた。先頭は井伊隊である。
 砦方は生き残っていた弓隊の射撃と共に、討って出た。すでに砦の建物にも火災が発生し、もはや砦の用をなさなくなっている。
 乱戦の中、飯尾近江守は、残った部下をまとめて、敵の本陣を目指したが、斬り死にした。
 織田玄蕃は猛火の中で腹を切ったらしいが、遺体は確認されなかった。

「鷲津砦から煙が上がっております」
「攻撃開始!」
 休息を取った岡崎勢は、みちがえるような強さを示していた。すでに逃げる者は逃げ、砦と運命を共にするべく残っていた者たちだけが相手であるが、その死兵たちを相手に、鎧袖一触の戦いが始まっていた。もはやこれまでと思ったのか、丸根砦にも火がかけられ、両砦のふた筋の煙が、五月の空にたなびいていった。
「殿、大変でござる。これは罠ですぞ!」
 大久保忠世が、血相を変えて飛び込んできたのは、攻撃終了の合図をした直後だった。
「いかがなされた」鳥居彦右衛門がたずねた。
「彦右衛門、人払いを」元康は何かを感じたらしい。
 忠世は元康と彦右衛門の二人に、自分の発見を伝えた。
「殿、早速各隊に知らせねば・・・」彦右衛門は言葉を飲んだ。元康の表情が一変していた。
「彦右衛門、忠世、おぬしらに聞く。今川義元に忠義をする気はあるか」
 問われて二人とも顔が青ざめ、歯を食いしばった口の奥から、言葉は漏れてこなかった。
 だが、目の奥の表情は、二人とも雄弁に岡崎勢全員の本心を語っていた。
「二人とも、この件は他言無用ぞ」元康は表情を変え、笑顔で言った。
「殿、三河守様からのお使いがいらっしゃいました」
「御屋形様からの御使いか、早く御通しせよ」
 松平元康は急いで床几から立ち上がり、地面に平伏した。
 使者は馬上のまま元康の前に進み出、口上を述べた。
「御屋形様の命を申し渡す。大高城に入り、休息せよ。丸根砦の占領は、朝比奈隊の者が行なう」
「ありがたき幸せ」
 元康の返事を待たずに使い番はきびすを返し、去って行った。
 すでに丸根砦占領の栄誉を得るべく、朝比奈隊にいた部隊が近くまで来ていた。井伊直盛に嘔吐を催させた重臣の隊である。
「御屋形様の御心遣いにありがたく従うとしよう。全軍、大高城へ」

信長は起こされるまでもなく目を覚ました。爽快な気分である。
「殿、そろそろご出陣を」藤吉郎が声をかけると、信長はすぐに跳ね起きた。
 これから丹下、善照寺の各砦の兵を合わせ、中島に向かう。信長が進んで行くと、後ろで鳥の羽ばたく音がした。
「白鷺じゃ」
「神の御使いじゃ」
 信長は白鷺を無視し、空を見つめていた。ひょっとしたらあの雲が。いや、中島につくまでは、なんとも言えぬ。
 信長は先を急いだ。やがて、軍勢から動揺の声がいくつかあがった。
 見ると、ふた筋の煙がたなびいていた。
 落ちたか。
 信長はそれ以上の感慨を抱かぬよう、おのれに命じた。
 あらためて信長は先を急いだ。

(その二十五、陥落 了)




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