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「美濃から来た童」
作/久住様
二十五、陥落B
信長主従六騎は、休みもせず一気に熱田神宮まで駆け抜けた。藤八は目を見張った。神社の境内には、炊き出しや飲み物の用意、馬の世話係までが仕度されている。
「わしはこれから願文を捧げてくる。これから集まってくる兵たちには、十分な休養を取らせるように」
殿が神頼みとは。藤八には、その方がより驚きであった。
信長が入っていくと、すでに控えている者があった。
「やはりその方か、藤吉郎。神主が手配したにしては、兵たちへの世話に目配りが行き届きすぎると思っておった」
「恐れ入ります。ただ中島で控えているのも手持ち無沙汰でしたもので」
藤吉郎は頭を下げた。信長はかまわず中に入っていき、祭壇に尻を向けて横になった。
「少し休む。あの者には会えたのだな」
「はい。中島砦でお待ちです」
「でかした。これで少しは見通しが立つ。願文は神主に書かせてあるな」
「はい。お読みになりますか」
「くだらん。そんなことより休む方が大事だ」
突然、武具のぶつかり合うような音が響いた。
「何の音だ?藤吉郎」
「神主が申すには、天意の現われは音で示されるのだそうで」
「うるさいだけだ。やめさせろ。神主というのも暇な商売とみえるな」
「は。鷺はいつごろ放しますか」
「出発するときだな。集まった兵が千近くになったら起こしてくれ。そのぐらいは集まらねば、何もできぬ」
「かしこまりました。ではごゆるりとお休みを」
あまりにもいくさには場違いな一言に、信長の頬は緩んだ。
天意か。今日は快晴のようだ。普通ならいくさにはもってこいの日なのであろうが。
いずれにしても、兵が集まるまでは、休むしかあるまい。
やがて、穏やかな寝息が聞こえてきた。聞き耳を立てていた藤吉郎は、ほっと胸をなでおろした。
殿は落ちついておられる。
今逃げ出す必要はなさそうだった。
今川義元は夜明け近くに沓掛城を出て、桶狭間に向かった。その近くの小山を本陣にすることにしてあり、すでに先発隊がその地点を確保している。山の上の今川本陣に対し、回り込もうとすれば、動きにくい狭間にはまり込む。そこを上から駆け下りれば、簡単に信長を討ち取れるかもしれない。まったく、新右衛門もうまい場所を見つけたものだ。先発隊は警戒のため、小山の東、北、北西の三方に展開している。敵はいずれも砦の中に縮こまっているらしい。義元は悠然と軍を進めていた。
千秋四郎はひたすらに耐えて待っていた。今川の隊が近くを通りすぎたときも、砦の方向で戦が始まったような音がしたときも、待つことを配下にもおのれにも強いていた。行軍中の義元を襲う案も佐々隼人正から出たが、やはり大高城へ向かう際に襲った方がうまくいく可能性が高いように思え、その案は取らなかった。待ち続けることにもようやく慣れてきたころ、玄蕃からの使いが来た。
「申し上げます。殿が出陣なされた。殿がおいでになるまで、今川義元の足を留めよ。決して大高城に入れさせてはならぬ、とのおおせでした」
「足を留めよ、とは?」四郎は玄蕃の狙いがよくわからない。
「本陣を固める前の方が狙いやすいと思っておりましたが、逆なことを仰せになるとは」隼人正も首をひねっている。
「敵将の足を留めるにはどのようにすればよいとお考えですか」飯尾信宗が隼人正にたずねる。
「伏兵を警戒させれば、うかつには動けなくなりますが、かといって簡単にこの陣を捨てるのもいかがかと思われます」
「わかりました。その時はわが隊で出ます」四郎が申し出た。隼人正が何か言いたげなのを制して、話を続ける。
「佐々隊、飯尾隊はわが隊の潰走後、今川義元が大高城へ向かう時に動くように」
「しかし」
「この点に関し、異論も質問も認めない」
「わかりました」隼人正は、なおも何か言いたげであったが、うなずいた。
「ただ、仕掛けるのは殿が近くまでいらしたときにしましょう。殿が実際にここにおいでになるのか確認致しませんと」
「では、待ちましょう」
以後、四郎はそれまで以上にじりじりと待ち続けた。
そして、今川義元着陣の報を受けると、待つことはさらに困難さを増していった。
しかし、四郎は待ち続けた。
朝比奈隊の軍議は紛糾していた。鷲津砦への即時総攻撃を主張する井伊直盛に対し、臆病風に吹かれた重臣たちは言を左右にして反対する。しまいには直盛が、おのれの手勢だけで落とす、とまで言い出す始末になり、将である朝比奈泰朝もはなはだ困惑していた。その状況を打開したのは、「御屋形様、着陣」の報せだった。それまでの反対が嘘のように静まり、朝比奈隊は直盛を先鋒に、全軍による出撃が決まった。
やはり、腐っておる。直盛は腹の底から嘔吐を感じていた。今は御当主がしっかりしているからいいようなものの、若君の代になったらどのようになることか。だが、今はその心配をしているときではない。
直盛は鷲津砦を見上げた。
待っておれ、じきに落としてくれる。
岡崎勢は苦戦していた。佐久間大学の率いる丸根砦の二番隊は本多、内藤などの諸隊を後退させ、態勢を立て直そうとしていた酒井勢にも襲いかかっていた。敵が算を乱して後退するのを見て、大学はいったん兵を留め、十名ほどで敵の本陣の様子を見に行った。ありえないことだが、敵は狼狽している様子だった。二千を越える岡崎勢が、たかだか四百のわが隊に圧倒されるとは。だが、今ならばやれるかもしれぬ。砦に戻り、全軍で一気に押し出すとしよう。
「うおおおおおーっ!」獣の吠えるような咆哮がとどろいた。大学に向かって進んでくる獣のような若武者に向かおうとした部下は、目にもとまらぬ速さで突き出された槍の柄に側頭部をはたかれて失神、落馬した。すさまじい力である。太刀を構えようとした大学は、まるで棒切れのように軽々と槍を振るう敵に袈裟懸けに斬られ、そのまま突き通された。大学は槍を受けたまま、地に落ちた。
まだ、子どもではないか。
武器を失なって逃げて行く若武者の様子を見て、大学は思った。
わしは、敵を軽んじていたのだろうか。大学は薄れゆく意識の中で、おのれをあらためて反省していた。
将を失なった二番隊に動揺が走っていた。ともかく砦に戻ろうとする二番隊だったが、その動きは先ほどまでと打って変わって統制を欠いていた。
「恥をそそげ、者ども、死ねやー!」すさまじい勢いで襲いかかったのは、赤備えをいただきながら、みじめに蹂躙された大久保隊である。それまで押されまくっていた他の諸隊も逆襲に転じた。砦の敵が本陣に向かってきたときの待ち伏せの準備をしていた石川隊も加わり、岡崎勢は一気に丸根砦になだれ込んだ。佐久間大学は砦の中に入ったところで息絶え、雑兵に首を取られた。
そのころ、本多平八郎はおじの詰問を受けていた。
「何をしていたのだ!」
「誰かはわからぬが、おれは確かに敵将を倒した」
「首は!」
「取れなかった。得物を失なって」
「何か言うことはないのか」
「今度は首を取る」
「おぬし、わしの言うことをなぜ聞けんのだ!」
松平元康の命を救い、岡崎勢の運命を救ったのかもしれない若者は、その報いとしておじの平手打ちを平然と受けていた。
「殿、三河守様からのお使いがいらっしゃいました」
「御屋形様からの御使いか、早く御通しせよ」
松平元康はあわてて床几から立ち上がり、地面に平伏した。
使者は馬上のまま元康の前に進み出、口上を述べた。
「御屋形様の命を申し渡す。丸根砦攻略は、鷲津砦陥落を待ってから行なうべし。その間、休息を許す」
「ありがたき幸せ」
元康の返事を待たずに使い番はきびすを返し、去って行った。
「兵たちを退かせよ」
元康は淡々と命じた。
「戦っている最中ですが」
「かまわぬ。向かってこぬ敵は放っておけ。逃げるようなら逃がせばよい」
「各隊に伝えます」