「美濃から来た童」
作/久住様



二十五、陥落A


 予定では夜明け前に開始されるはずであった鷲津・丸根両砦への総攻撃は、少し遅れていた。岡崎勢による丸根砦攻撃の遅延は、兵たちの疲労のためであったが、朝比奈隊による鷲津砦攻撃の遅れは、軍勢の多さのためであった。できるだけ兵の損耗を抑えるために、朝比奈泰朝は火攻めを予定していたが、間際になって、家格の高い重臣たちの部隊が多く配下に入ったため、部隊の割り振りや手順の調整に手間取っていたのだ。勝ちいくさを目の前にして、わざわざ死にたがる者はいない。最も重要な先鋒のなり手からして、重臣たちがお互いに譲り合う始末である。はじめは重臣たちに遠慮していた井伊直盛が苦虫を噛み潰したような表情で先鋒を引き受けるまで、軍議では延々と無意味な儀礼上のやり取りが続いた。能力は充分にあるが、若い朝比奈には、半ば公家のような重臣たちを黙らせることはまだ無理であった。
動きの鈍い今川方に対して、迎え撃つ砦側の準備はすでに完了していた。

  丸根砦では、守備兵四百を三隊に分け、岡崎勢が来るのを待ち構えている。
 もっと受身の戦い方を考えていたのだが、思うようにはならぬものよ。丸根砦の守将、佐久間大学はあたりを眺めながら、思った。あれだけ大きな盾を多数用意してきたということは、敵の狙いは強襲ではなく正攻法、盾を連ねて徐々に前進し、間合いの詰まった頃合をみて一気に襲いかかる。その手でこられては、本来策の立てようはないのだが、大学は盾の不格好さに、付け入る隙を見出していた。
「敵襲!岡崎勢です」
 さあ、行くぞ。大学は馬に乗った。一番隊の兵たちも一斉に乗馬する。無敵の岡崎勢を相手にどこまで戦えるか、大学はおのれの血がたぎってくるのを感じていた。

 鷲津砦では、罠の準備が終わっていた。空掘に敷き詰められた干草の上には、油と火薬がふんだんにまいてある。敵に馳走する油袋や火薬袋も用意ができた。
「長びしゃくまで用意してあるとは」近江守があきれたような口調で言った。
「若いころ太平記に憧れまして。一度あのような戦い方をしてみたいものと、子どものようなことを」玄蕃が照れくさそうに答える。
「そういえば、河内の赤坂城の兵もここと同じぐらいの数でしたな」
「敵も同じく雲霞のごとき大軍、何やら夢がかなったような気がします」
「来たようです」
 敵の先鋒が、盾を先頭にゆっくりと登ってきた。

 今川方の先鋒、井伊直盛は何の抵抗も受けずに予定の地点に達した。その様子をみて、後続の隊が次々と盾を並べて登ってくる。先鋒になるのをいやがった重臣たちの隊である。
 死ぬのは怖いが戦功は欲しいか。
 直盛は唾を吐き捨てた。今川の家も、大きくなって少しずつ腐ってきたのだろうか。
 それにしても、静か過ぎる。
 直盛はいぶかしげに鷲津砦を見上げた。敵の戦意は高そうだ。何かあるのかもしれない。
 直盛が砦の様子をさぐっている間に、重臣たちの隊は予定の地点を過ぎ、なおも前進を続けていた。
「何をしている!退けーっ!」気がついた直盛の声に構わず、各隊の前進は続き、ついに空堀の近くまで達した。
 ばしゃ。ばしゃ。
 砦から投げられた袋が盾に当たって音を立てる。続いて無数の火矢が飛んでくる。
 直盛は言葉を失なっていた。これでは救援のしようもない。
 空堀の回りは火炎地獄のような光景になっていた。油まみれとなって火矢を受けた盾は一瞬で燃え上がり、あわてて盾を落とした拍子に火が服に燃え移る。幾人もが火だるまになり、地面を転げまわる。後続の今川勢はその光景から距離を保ったまま、身動き一つできない。火のついたまま地面を転げまわっていた一人が、空堀に落ちた。ごうという音と共に空堀全体が燃え上がるように見え、その途端、今まで身じろぎ一つせずにいた今川方の各隊は、我先に盾を捨てて逃げ出した。
 無様な。直盛は唇を噛み締めていた。
「後退する。各自、落ちている盾を拾っていけ」
「危険ではありませんか」
「火が消えるまで、敵は追撃をかけられぬ。心配無用」

「なんとも派手ですなあ」近江守はあきれたように言った。
「派手なわりには子供だましです。これで敵の足がすくんでくれれば良いのですが、肝の座った相手には、鼻で笑われましょう。何しろ、次に同じことをするには時間がかかりすぎます」玄蕃は首を振った。
「それでも時間稼ぎには充分なります」
「そうですな。この砦の陥落は時間の問題ですが、後は天意のおもむくままということになりますか」
玄蕃は心配そうに空を見上げた。使い番が走ってきた。
「申し上げます」
「何か」
「昨夜清洲に出した使者が戻ってまいりました。殿が御出陣なされたとのこと」
「愚か者めが」玄蕃の顔がゆがんだ。
「どうなされた」近江守が尋ねた。
「息子がまだ幼いゆえ、わざわざ清洲への使者に立てた者が、信じられぬ速さで戻ってまいりました。それほどの馬の上手ならば、なおのこと死なせるわけにはいかぬ。その者に申せ、千秋四郎の元におもむき、わしからの命令を伝えよ、とな」
「かしこまりました。連れてまいります」
「御苦労の絶えぬことですな」近江守がにこやかに話しかけた。
「敵も味方も、なかなかあっさりとは死なせてくれませんわい」玄蕃は、今日何度目かの照れ笑いを浮かべた。

 本多平八郎忠勝は、おじの忠真の隊に属している。初陣の十三歳とはいえ、本家の当主である平八郎を絶対に死なさぬよう、忠真は気を配っていた。
「手柄を立てようと気負い込んでいるようだが、仮にもお主は当主。無謀に突っ込んでいくことのないようにな」
 平八郎は無言のままじっとしている。おじの言っていることを本気で聞く気のないことは歴然としていた。まあよい。いざとなれば、殿の元にやってしまえばよかろう。忠真は気を取り直し、丸根砦を見上げた。
先鋒の大久保隊が盾を構えながら、小走りに砦に向けて登って行く。赤備えが黒々とした地面に鮮やかに映える。盾の扱いにもなれたらしく、動きがきびきびしている。疲れておるというのに、気丈なことよ。忠真は晴れがましく動いている大久保隊をうらやましげに見つめた。大久保隊が横に広がった後、酒井忠次指揮下の各隊が後ろを固め、本多隊を含む各隊はその後で砦に向かうことになっている。それなりの備えはあるようだが、普段であれば苦もなく落とせる小砦である。せめて寝る間があれば、と忠真は嘆息した。大久保隊が横に広がりはじめた。そのとき、忠真はわが目を疑った。
 丸根砦の大木戸が開き、騎馬武者を先頭に軍勢が静々と進み出てくる。盾の陰に隠れた大久保隊には、音は聞こえてもその姿が見えない。
「いかん」
 忠真のつぶやきと同時に、敵が一直線に駆け下りてきた。
 大久保隊はなすすべもなく蹴散らされた。もともと接近戦を想定した盾ではない。盾の後ろに多くの兵がいてはじめて、近くの敵にも対応できるのだが、多くの兵を入れるために盾が大きくなり過ぎたことから、単独で敵に抗することは不可能になっていた。その弱点を敵に突かれたのだ。突然に先鋒が崩れたことで、その後ろの各隊も後退を始めた。思うままに馳せ回る敵に比べ、その動きは鈍い。
 出るとしよう。忠真は前進を決意した。酒井指揮下の諸隊が態勢を立て直す時間を稼がねばならぬ。さて、その前に。
「平八郎」忠真はおいを呼んだ。
平八郎は無言で進み出た。
「この書状を石川数正殿に渡してきてくれ、火急の用ゆえ、急げ」
 平八郎は無言で書状を受け取るや、槍持ちの槍をいきなり奪い、本陣の方へ走り出した。
 忠真の合図で、十名ほどが走り出し、後を追った。
 確かにただ者ではない。先々大きな功を立てるのは間違いなかろう。だが、今死んでしまっては何にもならぬ。なんとかわかってくれぬものか。
 どうやらその願いは、天にも平八郎にも届かないようだった。忠真は気を取り直し、命じた。
「前進」
 敵はいったん砦に戻り、新手と入れ替わるようだ。一気に付け入りたいところだが、今は無理ができぬ。それにしても、せめて鉄砲の十丁もあれば敵の足を止められるものを。
 それもまた、思うほどわびしくなるだけのことであった。

 もろすぎるな。それに鉄砲も撃ってこない。大学は岡崎勢の意外な弱さをいぶかしんでいた。何か敵に問題が起こっているのかもしれぬ。今度は二番隊を突出させ、敵本陣への行き方を探ってみよう。砦を捨て、全軍で敵の本陣に殺到すれば、多くの者が生き残れるに違いない。
 大学は敵陣を見やった。敵は第一陣が後退すると共に、後方の隊が前進をはじめている。敵の動きは鈍く、整然と交替できぬようだ。敵の混乱をあおるには、今が好機。
「二番隊、用意はいいか」
 ときの声が一斉にあがった。




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