「美濃から来た童」
作/久住様



二十四、大高城兵糧入れ@


 今川義元出陣の報は、清洲城下を騒然とさせた。まだ実際に逃げ出す者こそ少なかったが、城下に住むほとんどの者たちが、逃げ出す準備をおおっぴらに始めていた。四万を越える大軍が無数の鉄砲を先頭に進んでくるという噂は、半蔵の手の者たちによって流されたのだが、特にあおる必要もなく、たちまち城下全体に広まっていった。織田家の重臣たちの動揺は頂点に達していたが、ただ一人、そんなことを意に介さない信長は、梁田政綱の報告を聞いていた。
「わが重臣どもは、陣ぶれを機として、今川方につくというのか」
「今川につくだけではございませぬ」政綱はいつもと変わらぬ様子でいる信長の真意を計りかねながら、言った。「殿の御しるしを手土産にするべく、清洲で兵を上げます」
 信長は表情一つ変えない。
「ふむ。なかなか凝った策であるな。軍勢を動かしても怪しまれぬ時を選び、家中に疑心暗鬼を生じさせ、しかも、わしに陣ぶれを躊躇させようとは、敵には欲の深い知恵者がいるとみえる」
「敵に感心している場合ではございますまい」政綱は堪え切れずに信長の言葉をさえぎった。裏切り者が信長の首を探すときには、必ず自分も討たれるに違いない。織田家内部の諜報活動を行なうことが、命の危険を伴うくらい危うい行動だなどと、正直、はじめの内は思っていなかったのだ。
 珍しく冷静さを失なっている政綱の様子を見て、信長は、案外肝の小さな男だな、と思った。ならば踏ん切りをつけさせてやるとしよう。
「おぬしに兵五百を与える。今後、陣ぶれ以前に兵を動かす者あらば、その兵で討ち取れ」聞いている政綱の額から、汗がしたたり落ちてきた。「・・・という命をおぬしが受けたという噂を流せ。噂だけでよいぞ」
 ほっとしたように汗をぬぐいながら、政綱は答えた。
「は。そのようにいたします」
「さがってよい」
 使えぬ者の多いことよ。信長は密かに嘆息した。そういえば、藤吉郎は鷺を手に入れたであろうか。急にそんなことを思い出して、信長はまた嘆息した。あの男にやらせるようなことではないのだが。

「藤吉郎、本当にここでよいのか」前田利家は困り果てたような声で言った。
「しいっ。黙っておれ。警戒されては元も子もないではないか」
 二人は泥だらけになってじっと沼地に身を潜めている。すでに二刻あまりが経過しており、雨はもう上がっていたが、利家が泣き言を言うのも無理はなかった。この数日、二人は方々の沼地で泥だらけになっていた。すでに清洲や那古屋に商売人は寄りつかなくなっており、買い求めることができないため、直接捕まえることにしたのだが、今まで逃がし続けてきていた。
「藤吉郎」
「来たぞ」
 白鷺が二羽、優美な姿を見せて降りてきた。餌を求めている様子だ。よほど腹を空かせているらしく、まわりをほとんど警戒していない。
「又左、届くか」
「なんとかな」
「力を入れ過ぎて殺すようなことはするなよ」
「おう」
 利家は立ち上がり、投網を振りまわし、投げた。
 白鷺は飛び立とうとしたが、反応が遅れ、網にからめられた。二人は安堵の表情で、顔を見合わせた。
「黒いのう」利家が言うと、藤吉郎は泥で真っ黒の顔から白い歯をのぞかせた。
「何を言う、おぬしの方が黒いわ」
 利家は二羽の白鷺を檻に入れ、荷車に積んだ。
「熱田神宮の神主に預けてくればよいのだな、藤吉郎」
「ああ、話は通してあるが、念のためわしも中島での人探しがすんだら、帰りに寄ってみる」
「まったく難儀したものよ。なぜ白鷺でなければならなかったのか、不思議でしょうがないわ」
「殿のおっしゃるには、熱田神宮はヤマトタケルノミコトをおまつりしているから、とのことであったが、何のことかさっぱりわからぬ」
「それにしても、今川との決戦が近いというに、わしらは何でこのようなことをしておるのだ?」
「またそれを言う。殿に策がおありになるだけ、ありがたいと思え」
 利家をたしなめた藤吉郎自身にも、何のための行為なのか、はっきりとはわかっていなかった。だが、一つだけ確かなことがあった。
 この状況に至ってすら、殿にはまだ、策がおありになる。
 藤吉郎には、その余裕だけで充分に思えた。

 今川義元出陣の報せが届いて以来、鷲津砦は一種異様な興奮に包まれていた。それは丸根砦においても同様らしかった。ありがたいことに、兵の士気は高い。それは敵方の大高城城代、鵜殿の弱気にも助けられてのことであったが、たとえ空元気にせよ、今川何するものぞ、という空気があれば、圧倒的な大軍を相手にしても、恥ずかしくないいくさができよう。
「せっかく御呼びいただきましたのに、遅くなりました」
 物思いにふけっていた織田玄蕃は、顔を上げ、飯尾近江守定宗の子、信宗を招き入れた。
「何かと忙しい折に、呼びたててすまぬ。時に、今川義元が駿府を立ったという話は聞いておられるか」
「存じております。この砦にも、いよいよ敵が押し寄せてまいりますな」信宗は、当たり前のことのように答えた。決して凡庸ではないのだが、信宗はこれといって特徴のない、平凡な印象を他人に与える男である。
「一つ、うかがいたきことがござる」玄蕃はいったん言葉を切って、続けた。
「何ゆえ、この砦にいらっしゃったのか、御存念をおうかがいしたい」
「そのことでございますか」信宗は少し困ったような顔をした。
「父の死を見届け、菩提を弔うため、と申しても納得してはいただけぬようですな」
「無論のこと」玄蕃は即座に答えた。その気持ちが少しでもあるのならば、わざわざこの砦まで死にに来るわけがない。
「お恥ずかしい話にて、口に出すのもはばかられますが」
「そこを曲げてお願い致す」
「実はそれがし、いくさが恐ろしゅうございます」
「うん?」
「百姓か商人になることも考えましたが、家を捨てる気にもなれませぬ。このような心持では、父が亡くなった後、当主として何もできませぬ故、父の死を見届け、仇を討って死のうと思いつめ、この砦に参りました」
「死ぬのが恐ろしいのではないのですな」玄蕃は穏やかな表情になった。
「はい。ですが殺し合いは嫌です」
「正直で素直な言い様ですな。きっと、兵の気持ちがおわかりになる良い将になられましょう。そうは思いませぬか、近江守殿」
 次の間に控えていた飯尾近江守が入ってきた。
「父上・・・」
「はじめて本心を聞かせてもらった。父と共に死のうなどという、おぬしのような不孝者には、たやすく死ぬことは許さん。生きて殿をお守りするのだ」
「しかし」
「口を開くでない。おぬしは兵五十を率い、千秋殿の隊と行動を共にするのだ。どうせ死ぬなら、親の仇などと言わず、敵の総大将の首を取って死ね。よいな」
 信宗は無言のまま、じっとしている。
 良かった、と玄蕃は思った。あきらめずに近江守の説得を続けた甲斐があった。これで少しは恩が返せたか。
「玄蕃殿、それにしても、世間というものは広うございますな。それがし、おのれよりも強情な方に、はじめてお目にかかり申した」
 玄蕃が吹き出すと、近江守は声を上げて笑った。信宗はじっと涙をこらえていた。

 五月十八日、今川義元は掛川,岡崎を経て、沓掛に予定通り到着した。
 さっそく諸将を広間に集め、軍議が開かれた。軍議といっても、すでに決まっている作戦の担当部署を定めるのが主な目的である。岡部元信は鳴海城周辺への工作中、松平元康も大高城への兵糧入れの準備中で、それぞれ欠席している。数日前の岡崎勢の軍議の時と異なり、すでに勝ったような陽気さが広間を満たしていた。
「岡部元信の報告によれば、鳴海城周辺の砦はすでに無力化している。したがって排除せねばならぬのは、鷲津・丸根の両砦である。攻撃開始は明朝の夜明け前、海につながっている黒末川の水位が上がり、敵からの救援が困難になる満潮時を狙う」
 義元はみずからの口で策を説明するのを好んだ。義元好みの室町式の礼には反するが、あえて異を唱える者はいなかった。朝比奈,三浦,瀬名,関口といった居並ぶ諸将を見回して、義元は先を続けた。
「丸根砦の攻略は、すでに松平元康に申し付けてある。岡崎勢が丸根砦の兵を引き付けている間に、われらは全力で鷲津砦を落とす。朝比奈泰朝」
「は」
「鷲津砦攻略の指揮を取れ。新手を入れ替え入れ替えして、なるべく損害の少ないようにして落とすのだ。織田信長が出陣してきた場合は、本陣での戦いが始まるまで様子を見、合図ののろしと共に包み囲んで討ち取れ。すべて手はず通りにせよ」
「かしこまりました」
「それと、岡崎勢が鉄砲よけの盾を持参しておるそうだ。何百か譲り受けるがよい」
「かたじけのうございます」
「他の者は朝比奈の下知に従い動け。働きの目覚ましい者は、岡崎勢の後詰として丸根砦に向かわせ、丸根砦攻略の誉れも与えるので、一同、心してかかるように」
「は!」
 多数の、元気の良すぎる声が返ってきた。皆、戦勝後の恩賞のことで頭の中がいっぱいのようだ。これでは美濃攻めが思いやられる。そう思いつつも義元は、慢心という点において、結局みずからも皆と同じ気持ちでいることに気付いていなかった。

 「総攻撃が明朝、夜明け前に決まりました」半蔵がそう知らせてきたのは、沓掛城での軍議が終わって、まだ小半刻後のことだった。軍議での決定について知らせてくる義元からの使者は、まだ鳴海城に着いていない。
「明日か」一言つぶやいて、しばらく考えてから、岡部元信は言った。
「清洲城下に噂をまけ。今川の総攻撃は明日行なわれる。明日になってから逃げたのでは遅い、とな。ところで、佐久間信盛からは何と言ってきている」」
「信長を鳴海城に誘い出すので、鉄砲隊で仕留めてほしいと言ってきました」
「ふん。あてにはならんが、準備だけはしておこう」
「それでは、清洲に向かいます」
「ご苦労」
 噂によって清洲城下がごった返せば、隊伍を組んでの行動は、いちじるしく困難になるだろう。信長の首を狙う者たちにとっても、城下の混乱は好都合だ。
 できることならこの城で死んでもらいたいが、信長はここまでたどり着けるだろうか。
 あてにしていないながらも、元信は、おのれの工作によって勝負が決まればいい、と願っていた。御屋形様の策に対する漠然とした不安が、その願いの奥にあるのだが、元信はおのれの不安をみないようにしている。
 信長が出てこられなければ、御屋形様はさぞ残念がるであろうな。元信はそんなことを考えはじめていた。

「敵襲、岡崎勢です!」
 物見の者の叫び声で、丸根砦は一気に活気付いた。配置につくべく走っている者たちと対照的に、佐久間大学はゆっくりと進みながら、敵の出方について考えていた。
 柵のところで佐々隼人正が、腕を組んで下の光景をじっと見ていた。難しげな顔をしている。隼人正は大学に気付いて、「あれを御覧あれ」と指差した。大学は一瞬、おのが目を疑った。
 横に広がった敵が大きな盾を構え、じりじりと砦に向かって進んでいる。砦からの射撃にも動じた様子はない。
「敵は盾を用意してきたのか」
「弾よけの役には立つようですが、大きすぎて扱いづらそうです。それに前も見えぬようです」隼人正が落ちついた声で答えた。
「敵の狙いは」
「偵察でしょう。道々の荷車の残骸を片付ける格好は示しておりますが、本格的な動きは夜になってからと思われます」
 敵はある程度前進してくると、進むのを止めた。盾の有効性を試してもいるようだ。
「鷲津砦から使者が参りました」後ろから声がした。大学は振り向いて言った。
「通せ」
 使者は大学の前に進み出てぬかづき、言った。
「敵は上流の渡河点にて、すでに兵糧を運び始めております。丸根砦の方々は、つとめて砦の外におびき出されぬよう御注意下され。清洲の殿からも、今川義元出馬の後は、大高城に兵糧を入れて差し支えなし、とお言葉をいただいております。くれぐれも伏兵に御注意あれ。なお、敵の総攻撃は明日の夜明け前と思われます。隼人正殿には御早めに御出発あるべし。以上でござる、ごめん」
 伝令は口上を述べると、すぐに走り去って行った。
「囮というわけか」
「ならば、しばらく盾の強さを試した後、引いていくでありましょう。それよりもあの盾が相手では、明日のいくさは苦しいのでは」隼人正の懸念に、大学は首を振った。
「いや、わしの柄には合わぬが、かえって面白きいくさができそうだ。おぬしの出発の際には、砦の鉄砲隊をすべて連れて行ってくれ。中島砦まで送れとは言わぬ。途中まででよい」
「よろしいのですか」珍しく表情を変えた隼人正に、大学は得意そうに言った。
「鉄砲を使わねばいいだけのことだ」



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