「美濃から来た童」
作/久住様



二十四、大高城兵糧入れA


 大久保忠世は、竹製の大きな盾を持って、丸根砦からの銃撃を受けていた。すさまじい銃声だが、どうやらこの盾は、ある程度の距離なら持ちこたえることができそうだ。頑丈だし、重くもないが、両手で持つようになっているので、武器を振るいながら前進することができない。しかものぞき窓がないので、前を確認することもできない。他にも不備な点は様々にあったが、いまのところは役に立っている。大久保党の他の者たちも、どうやら持ちこたえているらしい。盾に隠れたまま、しばらくあたりを見回していた忠世は、信じられぬ光景を目にして、あわてて盾を持ち上げ、初陣の少年、小谷助兵衛のところに向かった。
「助兵衛、何をしておるのだ!」
「これは大久保様。どうかしましたか」
 助兵衛は敵の弾が飛んでくる中、盾の陰で平然と握り飯をほおばっていた。
「どうかしましたかではない! それは何だ!」
 助兵衛は、指を差してどなる忠世の剣幕にも動じずに、
「ああ、これですか。城の賄いの人が特別に作ってくれまして。」
 忠世は急に全身の力が抜けるような気がした。
「だって、合図があるまで盾の陰でじっとしてるなんて、ひまじゃないですか。弾に当たったら死ぬんだし、どうせ死ぬなら米の飯を食べて死にたいです。それより大久保様、ここの土、肥えてますねえ。こんな黒々とした土を使えたら、少しは米を食べられるのに」
「もう勝手にしろ!」
 まったく、最近の若造は何を考えているんだかわからぬ。忠世がぶつぶつ言いながら、先ほどいたあたりに戻っていくと、貝が鳴り、のろしが上がった。引き上げの合図だ。

 日が暮れ出したころ、元康は大高城への兵糧運びを酒井忠次に命じた。すでに運ぶべき兵糧は黒末川を渡り終え、集積場所から大高城への途中の穴は土嚢でふさいである。
「織田方の妨害があるかもしれぬ。警戒を怠らぬように」
「心得ております。それにしても、砦方の動きがございませんな」忠次は首をひねっている。
「数正もいぶかしんでいるであろう」石川数正は砦に最も近い渡河点で兵糧を渡河させ始めている。砦から兵が出てくれば、伏兵で包囲する手はずになっているのだが、砦からは鉄砲すら撃ちかけてこない。少し考えていた元康だが、しかたがないといった表情で続けた。
「しばらく砦方の様子を見たいところだが、今日中に兵糧を運ばねば、明日の砦攻めに差し支える。すまぬが、充分に警戒してくれ」
「承知致した。明朝夜明け前の総攻撃に間に合わせるよう、兵糧運びを急がねばなりませんが、充分に警戒もいたします。少しは兵たちに寝る時間を与えてやりたいのですが、難しいかもしれませんな。では、集積地に向かいます」
「数正と共に、大高城で待っているぞ。くれぐれも気を付けてくれ」
「御心配御無用にござる。これにて、ごめん」

 同じころ、鷲津砦では、出発の準備が進んでいた。鉄砲隊は中島砦へ、千秋四郎,飯尾信宗の各隊は待ち伏せ場所へそれぞれ向かう。砦の周囲で岡崎勢の警戒の薄いところは、すでに飯尾近江守が調べてある。岡崎勢も兵糧運びで忙しく、砦の監視どころではないらしい。皆の様子を見て回っていた織田玄蕃は、緊張感の中にも兵たちの士気の高さを感じ、うれしかった。わしは明日死ぬというのに、なぜにこうもうれしいのであろうか。我ながらいぶかしくなるほど、こみ上げてくるうれしさは純粋に感じられた。
 この気持ちを味わいながら、あとは見苦しい戦をせぬように仕度を調えるとしよう。
 今夜は良い夜になりそうだ。
「玄蕃様」
 後ろからの声に玄蕃は振り返った。千秋四郎だった。
「準備はもうよいのか」
「はい。御武運をお祈りします」
「その言葉、おぬし自身のために取っておけ。今川義元の首を取り、殿をお守りするのだからな」
「実は、お別れ前にどうしてもおうかがいしたいことがございます」
「何かな」
「それがしが佐々隼人正殿の下知に従うなら、まったく異存はございませぬ。しかし、それがしが隼人正殿を指図するというのは、道理に合わないように感じられてなりませぬ。いくさにおいて何もかも隼人正殿の方が、それがしより優っております」
「こたびは、将のするべきことは二つしかない。今川義元の首を取ることと、殿をお守りすること、この二つだけじゃ。どちらも、動く機が来るまでは動いてはならぬ。無駄に動けば無駄に死ぬだけのこと。いかに耐えがたいことがあろうと、待ち続けなければならぬ。隼人正殿は、生来の武人ゆえ、待ち続けることには耐えられぬ。隼人正殿、本人がそう申されておる。おぬしには待つことができる。よいか。おぬしの目の前で、この砦が焼かれ、わしの首がさらされ、田畑が荒らされ、家々が焼かれ、民草が手慰みにむごたらしく殺されようと、決して動いてはならぬ。動くときは、おぬしらも死ぬのだ。たとえ今川義元の首を取ったとしても、生きて帰られる道理がない。耐え続け待ち続けた者にしか、動くべき時はわからぬとわしは思うておる。おのれの死ぬべき時を見極めるが、おぬしの役目ぞ」
「承知・・・・仕りました」四郎は声を詰まらせ、後は言葉にならなかった。
 二人から少し離れた通路で、もう一人、声を詰まらせて忍び泣いている者がいた。飯尾信宗である。

 夜になって、清洲城下は大混乱のありさまになっていた。道々に人があふれ、西に向かって逃げて行く者たちが、数え切れぬくらいにひしめいている。犬の吠える声、馬のいななき、子どもの泣き声、様々な喧騒が、明日という日を警告しているようであった。けれども城内では相変わらず、終わりのない話し合いがだらだらと続いていた。信長はやはり出席していない。
「織田玄番様、佐久間大学様より急使が参りました。両砦への総攻撃は明日の夜明けごろと思われます」その声に、居並ぶ重臣たちはしばらくざわついたが、それだけのことに過ぎず、だらだらとした空気に変わりはなかった。だがしばらくして、「殿の御成りにございます」の声が上がったとき、場はざわめき、すぐに沈黙した。しんと静まり返った中、広間に入ってきた信長は、落ちついた様子でゆっくりと進み、席に着いた。居並ぶ全員の目と耳が、信長に集中している。夜明けごろの総攻撃から両砦を救うためには、夜のうちに行軍を始めなければ間に合わない。すわ、陣ぶれか。固唾を飲んで待ち構えている者たちの数は、その場にいる者の半数近くに及んでいた。信長がついに口を開いた。
「権六」
 呼ばれた柴田勝家は、とっさに返答ができなかった。
「権六よ、今年の米の出来具合はどうかな」
 勝家は絶句した。
 信長はその場の一人一人に、他愛もない質問を浴びせ続けた。
 冷静な目で見れば、信長の表情は、いたずらを楽しんでいる子どものそれに似ていたが、その場にいる者たちは、ただただあきれ果てるばかりだった。ついにたまりかねた者が声を上げた。
「御下知を下され。この時に至っても陣ぶれがございませぬので、今戦える者といえば、城内の三百ばかりしかおりません。わずかこれだけではどうしようもございませぬ。至急陣ぶれを!」悲鳴のような声だった。しかし、信長は取り合わなかった。
「この期に及んで、どのように思案しても役に立たぬ。連日連日、寝る間も惜しんで軍議ばかりしていては、いくさの時に腕が鈍ろうというもの。今はともかく、寝候え、寝候え」うたいでも歌うかのようにそう言って、信長は立ち上がった。
「殿、どちらへ!」
「寝所じゃ」
 信長はさっさといなくなってしまった。
 呆然とふさぎ込んでいる勝家の耳に、ひそひそ話す声が様々に入ってきた。
「城を捨ててお逃げになるのであろうか」
「殿も策を迷い臆病に取りつかれたか」
「無理もないことよ」
「運がなくなると、知恵の鏡も曇るか」
 わしは、こんなところで何をしているのであろう。
 勝家の胸の中に、おのれのふがいなさに対する怒りが、猛然と湧きあがってきた。
 席を立つ勝家に誰かが声をかけた。
「柴田殿、いかがなされる」
「死ぬ」
 振り向きもせず言い放ち、勝家は広間を後にした。同じように憤然と退席した者が何人もいたことを、勝家は知らない。
屋敷に戻った勝家はすぐに軍勢を集める手配をした。陣ぶれなしに軍勢を集めると成敗されるという噂が広まっていたが、死ぬと決めた以上、勝家にはどうでもいいことであった。
 早く集まれ、夜の明ける前に。勝家は真っ暗な天をにらみながら、そう思った。

 寝所に寝そべって、信長は何もない闇をただ見つめていた。ここに夜討ちをかけようという覇気のある者がいないことは、広間でのやり取りの中で確認していた。広間で口にした通り、今は寝るべきであるが、さすがに眠れずにいる。突然、ろうそくの光が目に入った。
「御休みにはなれますまいに」笑っているようなしゃべり声がした。信長は起き上がった。
「おのう、来たのか」
「明日はいよいよなのでございましょう?」
「ああ、いよいよだな」
「ならば、暗いところでじっとしておられるなど、殿らしくございませぬ。明かりをつけます」
 行灯に灯がともった。
「らしゅうなくとも一興ではあったが、まあよい。ものがたりなどして過ごすか」
「また、らしくないことを」陽気な笑い声が、虫の音と共に響いた。
 それからしばらく、二人は子どもの遊びのように、他愛もないことをして過ごした。しまいに信長は、京や堺で流行りだしたという、茶の湯の真似事までも、こっけいな仕草でして、大いに美濃御前を笑わせた。
 小走りに走る足音が聞こえ、二人の間にある空気が一瞬で変化した。小姓が取り次ぐ間を置かず、使者は口上を述べ始めた。
「織田玄番様よりの口上を申し上げます。鷲津・丸根の両砦の回りに、今川の軍勢が展開を始めました。砦に向かう敵は、思いも寄らぬ大軍ゆえ、殿のお言い付けを完全に果たすことが出来、安堵いたしております。この上は、殿の御武運をお祈りいたします。以上でござる。これにて失礼致す」
「まて、どこへ行く。少し休んでいけ」
「殿の御言い付けといえど、なりませぬ。砦に戻ります。急がねば」
 言葉をかけるすきを与えずに、使者は猛烈な勢いで走り去って行った。
 信長は美濃御前を見て微笑み、立ち上がった。
「お待ち下さい」
「なんだ」
「お願いがございます。どうか御遺言をお聞かせ下さい」
「遺言とな・・・わかった。聞くがよい」
 信長は扇子を手に取り、ゆっくりと舞いはじめた。
 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか
 けんめいに涙をこらえている美濃御前に構わず、信長は叫んだ。
「貝を吹け! 具足をよこせ! 出陣だ! 誰かある!」
「ひかえております!」
「物頭全員に伝えよ! 熱田神宮に集合。遅れた者は中島砦に向かえ。準備のできた者から出立せよ。隊伍を組まなくてもよい、ばらばらで構わぬ。よいな!」
「は!」
「おのう」
「はい」
「湯漬けを頼む。この場で具足を着けながら、立ったまま食べたい」
目を丸くして聞いていた美濃御前は、泣きそうな顔のまま、けらけらと笑い出した。
「それでこそ、殿らしゅうございますわ!」

(二十四、大高城兵糧入れ 了)




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