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「美濃から来た童」
作/久住様
二十三、善照寺砦
織田信長は、前野長康の手の者から報告を聞いている。珍しく上機嫌のようだ。
「でかした。七分方は焼いたのだな」
「は。ですが、焼き残した蔵がございますので、御下知があればまた出動できるよう、蜂須賀党の山塞で待機しております」
「出動の必要はない。だが、そのまま山塞にとどまり、今川義元の動向を知らせよ。夜昼を問わず、常に見張るのだ。よいな」
「かしこまりました」
「御苦労であった。下がってよい」
使者が退出する姿に目もくれず、信長は考えを始めていた。
これで義元は戦場に出てくる。
そのことを確実にするために、信長はわざわざ危険な策を強行したのだった。今川義元自身に前線に出てくる意志のあることは、ほぼ確実に読めていたが、義元が持ち前の慎重さから、岡崎で指揮を取るという可能性も捨て切れなかった。岡崎で備えを固められては、義元に指一本触れることもかなわないであろう。だが、岡崎は焼いた。義元は兵糧のないところに本陣を据えるようなうつけではない。次に本陣を置くとしたら沓掛だが、義元は戦いを目の前にして安全なところにいるような臆病者ではない。
あの者は、体面を気にする。間違いなくいくさ場に出てくるだろう。
大高城に兵糧が入り、鷲津・丸根が落ちたそのときに、勝負は決まる。
あとは、天任せか。
おのれの立てた策の中で、どうしても気に入らないのが、おのが意のままにならないものに成否を託さねばならない点だった。うまくいかねば家が滅び、命を失なう。それだけのことだと、覚悟はできていたが、なればこそいっそう、おのが意のままに戦いたい。
いっそ天など、滅ぼしてしまえばよいのだ。ふっとそんな考えが浮かび、信長はおのれの大胆さに可笑しさをおぼえた。天は天にこそあれ、人の中になど無くてよい。人の中の天など、滅ぼしてしまえばよい。そう思うことで、信長は、天という何物かに頼りたくなるおのれの中の弱気を消し去ろうとしていた。
善照寺砦は、北の抑え丹下砦、南の抑え中島砦と共に、東の抑えとして、鳴海城包囲網の一翼を担う砦である。砦の守将、佐久間信盛は細作を得意とし、今川義元に誅殺された鳴海城の前城主、山口教吉と関係の深い者たちへの工作を命じられていたのだが、すでに岡部元信の調略を受けている。
「わしは、裏切ったのではない」信盛は弟、左京助を説得していた。左京助は腕を組み、憮然とした表情のまま、無言で座っている。
「すべては、勘十郎様の御無念を晴らすため」信盛は一言一言絞り出すように言葉を続けた。下手な言い訳に過ぎないことは、二人とも知っていた。要は、兵たちが納得するかどうかの問題である。
信盛は宿老筆頭の林秀貞や柴田勝家らと共に織田家の将来を憂い、織田信長の弟、勘十郎信勝をたてて信長と戦い、敗れたことがある。その信勝が柴田勝家の裏切りによってだまし討ちにあい、信長に殺されたのは二年前。その時戦った兵たちの中には、未だに信長をこころよく思っていない者たちが多い。記憶に新しい信勝のことを理由にすれば、信盛の手勢については問題なさそうだった。
「我らの手勢は問題ないとしても、他の兵たちはどうするのだ」左京助が、ついに口を開いた。説得がうまくいったことを知り、 信盛は安心したように緊張を解いた。
「この砦で討ち死にしてもらおう」
「我らはどうする」
「鳴海城に入れてもらう手はずになっておる」
「そううまくいくだろうか」左京助は再び腕を組み、左手の人差し指を、拍子を取るように動かし始めた。
「もちろん条件がある。信長の首が必要だ」左京助の指の動きが止まった。
「兄者、やめておけ。取れるわけがない」左京助は、あらためて首を振った。
「無理は承知だ。だが、同心する者が多くいる以上、できぬと決めつけなくてもよかろう」
「今川につく者が、そんなに多いのか」左京助は驚いて信盛の顔を見た。
「信勝様と共に戦った重臣は、あらかた今川につく。陣ぶれを合図として、一斉に信長を狙う手はずだ。信長の首を得た者だけは、いかに返り忠といえども厚遇されると岡部殿は匂わせていた。その時には、わしも清洲に向かう」
「うまくいくようには思えぬ」
「うまくいかねば、この砦におびき寄せ、鳴海城の兵と共に首を取る策は、考えてある」
「兄者、わしにはどうしても、うまくいくようには思えぬ」同じ言葉を繰り返して、左京助は立ち上がった。
「左京助よ、他にどうしようがあるのだ。あのうつけと一緒に討ち死にするというのか?」
左京助は何度も首を振っていたが、やがて力が抜けたかのようにまた座り込んだ。
「何か他の手が」
「ない。いかに考えようと、こたびは万に一つの勝ち目もない。われらの手で信長の首を取る以外に道はないのだ。わかってくれ」
「わかりたくはない。だが、どうしようもないのならば、手伝わせてくれ」
「よくぞ言うてくれた」
信盛は、やつれたような笑みを浮かべた。わしも同じ顔をしているかもしれぬ、返り忠の顔を。左京助はそんなことを思っていた。不思議と、悲しくはなかった。
五月十日、今川義元を大将とする二万余の大軍が駿府を出発した。珍しく雲一つない晴れ間が広がり、出陣を祝福しているようにも思える。今川義元は輿に乗って、沿道の見物の者たちを眺めていた。皆、一様に驚きの色を浮かべている。
今川のいくさは、かくあるべし。義元は誇らしげに思った。圧倒的な強さをもって、美々しく勝つ。今回はそれを実行できそうだった。海道一の弓取りが率いる二万五千余りの兵力と、五百丁もの鉄砲を前にして、立ち向かえる者がいようとは思われぬ。配下の者たちの中に、美濃はおろか、京までも攻め取れそうな気になる者が出てくるのは当然といえた。
だが、浮かれてばかりもいられない。織田方の姑息な襲撃によって、岡崎の兵站基地としての機能は破壊されてしまった。早急に大高・鳴海の両城の回りの敵を駆逐し、基地としての機能を回復しなければ、美濃侵攻はおろか、清洲攻略にすら支障が出るであろう。義元は大軍の弱点が補給にあることは熟知していた。それ故に充分な時間をかけて、岡崎を一大兵站基地に作り上げたのだ。今回の襲撃で岡崎の基地としての機能は失われたが、岡部元信の機転により、物資への打撃はわずかなものだった。
鳴海城周辺の砦は、もはや包囲の役目を果たしていないとの報告が、岡部から来ていた。従って、大高城周辺の鷲津・丸根の両砦をめぐる戦いが、尾張侵攻の最初の山になる。その戦いを有利に進めるためには、大高城に兵糧を入れておく必要があるのだが。
さて、岡崎の犬どもはうまくやるであろうか。そう考えてはみたが、義元はまったく心配していなかった。うまくやれないようならば、岡崎勢を弾よけ代わりに使えばいいだけのことだ。義元は、美濃侵攻のための捨て石として、岡崎勢を使いつぶすつもりでいた。
当然のことながら、岡崎勢には使いつぶされる気はまったくなかった。沓掛城の大広間に集まった松平家の者たちは、皆一様に大高城周辺の地図をにらみつけている。岡崎が襲撃されたとの報を聞いたときには、全部隊に動揺が走ったのだが、焼かれたのが蔵だけだと聞いて、一気に不安は安堵に変わった。なにしろ岡崎勢は、蔵の周辺を歩いているだけで、「米盗人だ!」と追い掛け回され、ひどいときには牢に入れられる。蔵の周囲にいかに被害が及んだとしても、岡崎勢とは何の関係もないことであった。かえって、兵糧運びをする必要がなくなり、いくさの前に充分な休養を取ることができて、喜んでいる者が多かった。城内で唯一深刻な空気をかもし出しているのが、ここ、大広間である。
「大高城へ兵糧を入れるには、鷲津・丸根の両方を落とさねばならぬか」石川数正がひげをいじりながら、嘆息と共に言った。
「荷車の残骸を動かせばすむのではありませぬか」物頭の近藤登之助が、数正の弱気をとがめるような勢いで、言葉を吐き出した。
「鉄砲の弾が飛んでくるぞ」酒井忠次が数正の後を受けた。今の岡崎勢は、久方ぶりの大いくさに気負い込んでいる。いかに弱気と見られようと、上の者が手綱を引き締めねば、無意味に死者が続出しかねない。
「それが何だというのです」登之助は、やはり気負い込んでいた。すでに中年を過ぎた彼にとって、さむらいとして勇ましく死ぬことができる機会は、もうこのいくさしか、ないかもしれない。
激しいやり取りがしばらく続いた。広間の雰囲気は、登之助に味方していた。数正と忠次は、苦り切った顔をして、しばし言葉を失なった。
松平元康が、みかねて仲裁に入ろうとしたとき。
「遅くなり申した」本多弥八郎が広間に入ってきた。
「戻ったか、待ちかねたぞ」元康がうれしそうに声をかける。
「御評定の最中では」
「構わぬ」数正が苦り切った表情のまま、弥八郎の意見を求めた。
「よろしいので?」
「おぬしの策を聞きたい」忠次がほっとしたような顔で弥八郎を促す。
「では、申し上げます」弥八郎は周囲を見渡し、無用に発せられている場の熱気を鎮めるかのように間を置いた。
「敵の策は子どもだまし。兵糧入れに、砦を攻める必要も、荷車の残骸を動かす必要もございませぬ」
「どういうことだ!」登之助が殺気だった様子でどなった。弥八郎はあきれたような目をして口を閉じた。
「弥八郎、ご苦労であった。後でじっくりと聞かせてほしい」元康が割って入り、広間の評定は散会となった。
三河者はこれだからいけない。弥八郎はいささかむっとして思った。死ぬるだけが能ではあるまいに。
弥八郎は別室に移り、松平元康と、酒井・石川の両名に報告した。
「川の上流から封鎖地点までの間に、楽に渡れる渡河点が三ヵ所ございました。雨による増水を考えても、問題は起こりますまい」
「とすると、砦から最も遠い一番上流の渡河点が安全か」数正はやはり、ひげをいじっている。
「最も下流の渡河点で待ち伏せる手もあるな」忠次はあごに手をやって考え込んだ。
「いずれにしても、砦方の注意をそらすために、渡河は夜に行なった方がよいでしょう」弥八郎はほっとした様子で話している。やはり、能ある者たちを相手にするほうが話しやすい。そんなことを考えているのが、表情から読み取れた。
「殿はいかに思われますか」忠次が元康に発言を求めてきた。元康はしばし考え込むような様子をして、間を計った。すでに結論は出ている。
「両面で行こう。渡河は最上流で行なう。昼間のうちに兵糧を渡河して積み上げておき、夜陰にまぎれて大高城へ運ぶ。それとともに最下流で一部の荷駄を渡河させ、砦の敵を待ち伏せる。これでどうじゃ」
「妙案ですな」弥八郎は思わず声を上げた。数正と忠次の目の色が変わった。宿老を差し置いて、鷹匠ふぜいが偉そうに。そんな気配が両名から発せられたが、弥八郎には気が付かない。
「弥八郎、ご苦労であった。疲れているであろう、下がってよいぞ。また、思いついたことがあらば、遠慮のう知らせてくれ」元康はあわてて弥八郎を下がらせた。岡崎勢が生き残れるかどうかという時に、不和の種を残しておくわけにはいかない。
弥八郎は不満そうな顔で退出した。弥八郎が将になりたくてもなれぬ理由は、このあたりの鈍感さにあるのだが、まだ弥八郎は、おのれの鈍さに気がつかない。
残った三名は、さまざまな打合せを行なった。土嚢の手配、渡河点の再調査、待ち伏せ地点の選択など、主な話が一段落したとき、忠次が思い出したように言った。
「小姓に一人、思いつめている者がおります。こたびのいくさで、どうしても手柄をあげねば死ぬるという目つきをしております」
「歳は」元康は小姓の顔を思い浮かべながら言った。
「まだ十三。初陣ですぞ。そのような者に抜け駆けでもされて死なれては、みな我も我もと進み出て、鉄砲の餌食になりかねません」
「それは困る。ただでさえ猪武者が多いというに」数正がほとほと困惑したような口調で言った。
「気の毒だが、この沓掛で留守を守ってもらうとしよう。誰に言わせればよいかな」
「鳥居彦右衛門が親しいようです」
「彦右衛門がか。その小姓の名は、何と申す」
「確か、榊原と申しましたか。最近小姓になった者です」
「彦右衛門に命じておく。それにしても、荒馬たちの手綱を握るのも、大変なこと、苦労を掛ける」
「ありがたきお言葉」元康のねぎらいを受け、両名は平伏した。
大高城に兵糧を入れるのは、本隊の到着を待って五月十八日に行なうよう命令が来ていた。それまでには準備が完了するであろう。鉄砲よけの盾もすべてそろう見込みだ。さて、いかなる妨害が待ち受けていることか。
元康の顔に不敵な笑みが浮かぶのを見て、数正と忠次は、顔を見合わせた。
これならば、大勝利疑いなし。両名の顔にも、同じ笑みが浮かんでいた。
(二十三、善照寺砦 了)