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「美濃から来た童」
作/久住様
二十二、中村
途中から降り始めた雨は、思いのほか、大降りになってきた。佐脇藤八は、中村への道を急いだ。物頭への伝令の役など、信長のそばに仕えている藤八のすることではなく、本来は従者の役目だが、今川との決戦を前にして、どうしても兄、前田利家に会いたくなったのだった。ぬかるみに足を取られながら進んで行くと、ようやく木下の家が見えてきた。代々の庄屋の家にしては、こじんまりとしている。
「ごめん、どなたかおられぬか」
「はい。あら、藤八様。まあ、ずぶぬれではございませぬか。さあさあ、お入りを。奥で火にあたって下さい」
出てきたのは兄の嫁である、まつだった。美しい目鼻立ち以上に、きさくで屈託のない透明な感じが、周りの空気を明るくしていた。やっぱりきれいだな。時々、兄に嫉妬のような感情をおぼえる藤八は、しばらくみとれていた。
「どうなさいました。風邪をひいてしまいますよ」
「姉上、ご無沙汰いたしております」
「あいさつはいいですから、早く入って」
藤八が家の中に入っていくと、奥の方から言い争っているような声が聞こえてきた。
「殿様の御父上、信秀様の『秀』と、殿様の御幼名、吉法師の『吉』を組み合わせるなんて、恐れ多いにもほどがあるよ。手打ちにされてもおかしくないじゃないか」
「兄者には兄者の考えがある。なんで悪くばっかり言うんだ」
「百姓を捨てて人殺しを生業にするような馬鹿者には、いくら言っても言い足りないよ」
「あんまりだぞ。父上だって足軽もやっていただろう」
「その稼ぎで育ててもらっといて、なんて言いぐさだい。田畑を荒らされたら、他にどうしようもないことぐらいわからないのか。今の殿様になるまでは、いくさのたびに百姓は無理やり駆り出されてたんだ。今の殿様が、いくさをしたい者だけでいくさをしてくれるから、このごろじゃあ、飢え死にする家も減ったんだよ。それを好き好んでいくさに行くような馬鹿者と一緒にするのかい」
まつは美しい顔を少ししかめた。
「まあ、困ったこと。少しお待ち下さいね」
まつは奥に入っていった。
「だからいまだに独り者なんじゃないか。あんな小男がいくさで手柄を立てられるわけないのに、どうやって食っていくんだい」
「お話中、ごめんなさい」
「おや、まつさん、これは、見苦しいところを見せちまったねえ」
「佐脇様がお見えになっておりますの。ずぶぬれなので、早く奥に通したいのですけれど」
「え。こりゃ大変だ。小一郎、早くご案内を」
「まったく、さむらいは嫌いだって言ってたばかりだろう」
「ぶつぶつ言わずに急ぐんだよ」
小一郎は照れ笑いを浮かべながら、藤八を迎えた。どんな顔をしていいやら困ってしまった藤八も、笑みを返した。奥に入ると、まつが待ちかねたように言った。
「さあ、火のそばへ。あいにく藤吉郎様も又左衛門様も留守にしておりますの」
「左様ですか。それでは藤吉郎様にお伝え下さい。殿から直接、物頭全員に命が下りました」
「直接ですか?」小一郎が意外そうに聞き返した。
「今後、たとえ深夜であろうとも、出動の命があらば、すぐに出られる仕度を調えておくようにとのことです」
「殿の命が直接下るのですか?」小一郎には、どうしても納得できないようだ。
「はい」藤八は、どのように説明したものか、少し困惑した。
「小一郎、そんなこともわからないのかい。織田の家の偉いさんたちは、みんな今川に尻尾を振ってるんだ。殿様が直接動かさなきゃ、後ろから矢が飛んでくるかもしれないだろう」
藤八は目を見張った。
「骨のある者たちは、みんな腹を立ててるよ。勝てそうにないから、自分だけ助かりたいなんて、みっともないったらありゃしない。偉いさんたちは、今まで畑を耕しもしないで、何のためにのうのうと食わせてもらってきたんだい。あたしら百姓は、逃げるところもなし、勝ち目がなくたって、みすみす田畑を敵に荒らされるくらいなら、戦いたい気持ちになったっておかしくないよ」
「おっかあ、さっきとずいぶん言ってることが違うぞ」
「それとこれとは別だよ」
藤八はこんどこそ、どんな顔をしていいやら困ってしまった。
五月五日、梅雨の合間に、ひさしぶりの青空が見えている。
岡崎城城代、武田上野介は外を眺めていた。陽射しの心地よさにしばし目をつむり、目を開けて太陽を仰ぐ。大きないくさの前とはいえ、出陣するわけではない上野介には、忙しさは増しても、それ以上のことはない、はずであった。
煙、か?
上野介の視界に、突然五筋の黒煙が現われた。驚いて見つめているうちに、黒煙は少しずつ数を増やしていった。
いかん、火事だ。
消火の手配をしようと上野介が振り向いたとき。
「御城代、敵襲です!」
「なに?」
「米蔵が次々と焼かれております!」
「数は?」
「わかりません」
「城下の兵を城内に集めよ。今城内にいる兵は敵を追撃。急げ」
「敵は五隊に分かれているらしく・・・」
「こちらも五隊に分かれよ。急ぐのだ」
「は!」
一刻の後。
「追いつけないとはどういうことだ」
「敵はすべて騎馬、しかも足が速く、とても追いつけません。無数の矢を射掛けられ、ひるんでいる間に逃げられてしまいます」
そろいもそろって無能者どもめ。上野介はイライラしてきた。
「敵は必ずどこかで馬を休める。そこをたたけばよい。城を守る兵だけを残し、敵の進む先に向かえ」
「どのあたりに行けばよろしいので」
「敵が馬を休めそうなところに先回りして、敵の頭を抑えろと言っているのだ。少しは考えろ!」
「かしこまりました」
「見失なっただと?」
「はい。これは尾張に戻ったのでは」
「空を飛んで行ったのか?馬鹿なことをいうな。どこかに集結し、休息を取っているのだ。徹底的に探せ!」
「はい」
「脱落者は九名ですか」小六は竹筒の中の酒を飲みながら、長康に確認した。
岡崎から少し離れたところにある広々とした馬場で、酒と餅をもらい、矢を補充し、各人は思い思いに休息をとっている。
「はい。生死は不明ですが、敵も混乱しているようですから、生きていれば戻ってこれるでしょう。それにしても、蜂須賀党の方々はどなたも落馬せず、見事なものですな」
「訓練の賜物ですか。ところで、思った以上に岡崎は静かなようですが、どうですか」
「城内こぞって南へ兵を出したようです。今ごろは見当違いのところを探しまわっているでしょう」
長康は、念のために連れてきていた「飛びの者」たちに、岡崎城の様子をさぐらせていた。
今のところは、予想以上にうまくいっている。城代の武田上野介も大いに混乱しているようだ。
「これからが大変ですな」小六は少し難しい顔になった。
「同じことを考えておられますか。それがしなら、まだ残っている蔵に兵をまわし、待ち伏せをかけます」
「その通りです」まだ何か言いたそうな小六を、長康は手で制した。
「まあ、何もおっしゃいますな。少しはわれらにも働かせてくだされ」
岡崎城の動きを正確に捉えられれば、勝機は見出せそうだった。だが、すべては敵将の器量にかかっている。
「武田上野介、どれほどの将なのでしょうな」
「あなどっては痛い目にあうかもしれません」長康は自戒の意味を込めて、つぶやいた。
しばらくの沈黙が二人の間を覆った。
「今度は二隊で動いてはいかがでしょう」小六が口を開いた。
「長居は危険ですぞ。二隊にすれば隊ごとの兵は増えますが、その分時間がかかっては」
「時間はかかりません。残る三隊の焼き討ち予定分を放棄するのです」
「よろしいのですか?」
「すでに目的は達したとみてよいのではありませぬか。あとは無事に帰ることを優先しましょう。まごまごしていては、日が沈んでしまいます」
「やむを得ませんか。残念です」
武田上野介は、常々、あなどられることはあっても、買いかぶられることのない男である。もし敵将から買いかぶられていることを知ったなら、喜ぶべきなのかもしれないが、知ることができたとしても、今はそのような気分に、なれるはずもない。
「敵の動きはつかめんのか!」
いらだちをはっきりと表わしながら、上野介は怒鳴り続けていた。そうすることで、城内に陰鬱な空気をもたらしていることすら、この男は気付かない。
「敵が現われました。南から北上しております」
「なんだと・・・」
北上と聞いて、上野介に、普段の臆病さが頭をもたげてきた。今、城中にはわずかな兵しか残っていない。岡崎城を攻める戦略的な意味は敵にないのだが、上野介は始めから冷静さを欠いていた。
「兵を呼び戻せ!すぐにだ。敵をこの城で迎え撃つ。早くしろ!」
五月六日、駿府。
「三河の蔵が焼き討ちにあいました。七分方燃えたとの報告が来ております」
今川義元に報告する山田新右衛門は、少し青ざめた顔をしている。
「ふ。無駄なあがきをすることよ。兵糧は沓掛に運んであるのだろう?」
「はい。大高城の救援を含めて、当面必要な分は問題ございませんが、美濃侵攻には不都合が生じます」
「なにも今年の内に稲葉山城を囲むわけではない。今年の尾張の収穫で、来年の分は充分間に合う。問題は、集結地点の変更ぐらいか」
「岡崎に集結するという予定でしたが」
「沓掛に変更だ」
「大高城に送る予定の兵糧は」
「減らさなくともよい。大高城を前進の拠点とする計画に変更はない」
「大高城の御城代、鵜殿様から、兵糧があと四、五日分しかないとよこしてきておりますが」
「大げさな。実際にはいかほど残っているか」
「おそらくは十日分あまりかと」
「そんなところだろう。ならば予定通り、本隊の出発は五月十日。大高城への兵糧入れは十八日で支障あるまい」
「御意。全軍に伝えます」
「尾張のうつけも、いろいろと楽しませてくれるのう。焦っている顔が見えるようだ」
声を上げて笑う義元の顔を見ていて、新右衛門は漠然とした不安に襲われた。だが、その不安の元はみえてこなかった。不安の雲を振り払うかのように、新右衛門も声を上げて笑った。
いつからか降り出していた雨の音が、その笑い声を飲み込んでいった。
(二十二、中村 了)