「美濃から来た童」
作/久住様



二十一、襲撃


「おお?」
 清洲城外まで小六を迎えに出た前野長康は、おのが目を疑った。
 小六は背に三つの矢筒を組み合わせ、腰には脇差しだけを帯びている。鞍の両側に垂れ下がるように、矢の束が三つずつあり、左手には短弓、まともな具足は身に着けていない。
「これは・・・、思い切った装束ですな。槍も太刀もお持ちにならないとは」長康は感嘆の声を上げた。
「できる限り軽くせねば、敵に追い付かれましょう。われらの頭から言われました。織田方が足手まといになるようならば、敵前に放り出してこいと。御準備はお済みですかな?」小六はこともなげに言ったが、長康にはぐうの音も出なかった。
「編成は騎馬のみですか?」
「もちろんです。敵に追い付かれぬことが、何よりも優先します」
 長康は前野党と佐々党を中心に五百の兵を任されていたが、騎馬のみの編成となると、兵力は大幅に減る。百五十前後がいいところであろう。下手をすれば全滅の危険もある、敵中への「中入り」を行なうにあたり、兵は一人でも多い方が良いと長康は考えていたのだが、よく考えれば考えるほど、小六の言うことが正しいように思えてきた。
「準備に数日かかります。それまでわが屋敷にて御逗留を」
「あまり時はございませんぞ」
「心得ております」

 永禄三年五月一日、今川義元は全軍に総動員をかけた。いよいよ尾張侵攻の開始である。織田信長を踏み潰し、濃尾国境まで進出する。戦略目標は明確であった。その先に上洛を夢見る者たちも重臣の中にいたが、義元には今の京の混乱に介入する気はなかった。混沌の渦中では、いたずらに力を削がれるだけ。世を正すには、もっと強い力が必要だ。義元には、自己の力に対する過信はまったくなかった。それこそ、幼少時より雪斎長老から、最も厳しく戒められていたことだったからだ。度が過ぎると思われるほどの慎重さで、義元は三河を領国化し、戦備を整えてきた。越後の長尾氏など、幕府の混乱を鎮めようという意思を持った勢力も現われてきた。義元の目には、室町幕府は半病人に見えている。適切な治療を行なえば、元の元気な姿に戻ると。それゆえ、死病の床に着いているだの、すでに屍となっているだのと思っている連中の勝手を、許すわけにはいかない。
「鉄砲隊の準備はどうか」
 義元は、山田新右衛門に尋ねた。新右衛門は岡崎から戻って以来ずっと、馬回りの者たちの従者からなる、新編の鉄砲隊の訓練にあたっている。
「訓練は順調に進んでおります。しかし、鉄砲頭が異を唱えておりまして、いささか閉口しております」
「何が気に入らないのだ」
「命中のためではなく、速射と連射を訓練の中心にしていることが気に入らぬようです。当たるようにしなければ、何のための訓練か、などと酒の席で口走っていたとも聞きます」
「おのれが習ったことだけが、この世の唯一の真実だと思い込む者の多いことよ。大量に速く撃ちさえすれば、目をつむっていても当たるという道理がわからぬとはな。鉄砲頭でなければ捨て置けばいいのだが・・・。うん、そのようなむかし者は、甲斐との国境にでも送っておけ。妙なことを口走られては、士気に関わる」
「御意」
「他に問題はないか。なければ本陣の配置について、あらためて検討したい」
「岡部様から、大高城周辺の詳しい地図が届いております。見晴らしのよい手頃な高地がいくつかございますので、御覧いただきたいと存じます」
「元信もやるではないか。まだ沓掛にいるのか」
「今ごろは鳴海城へ向かっているものと思われます」

 岡部元信は、兵二千五百を率い、鳴海城の近くに陣を張っていた。鳴海城を包囲しているはずの織田方の諸砦は、まったく動きをみせない。織田の重臣にばらまいた金が、思いのほか効果を上げているようだ。小人数でも窮鼠になれば、思わぬ力を出す。敵の結束を弱めるには、疑心暗鬼を生じさせること。敵を死兵にさせぬためには、逃げれば助かるという希望を持たせること。いかに心強き者でも、最後に残された希望までは、疑うことができない。元信の経験からは、すべて順調にみえているのだが、元信はおのれのいいしれぬ胸騒ぎを抑えることができずにいた。
 何かを見落としているのだろうか。元信は空を見上げた。どんよりとした梅雨空が、いつものように陰気な表情を見せている。ぬかりはない、だが、まだ何か足りないのか。
「善照寺砦の佐久間信盛より、誓紙が届きました」いつのまにか傍にいた伊賀者が、元信に声をかけ、紙を差し出した。
「ご苦労であった。行ってよい」元信が紙を受け取ると、伊賀者は鳴海城の方向へ駆け出して行った。
 佐久間信盛、たいした駒ではないが、使ってみるとするか。半蔵にもう一働きしてもらわねばならん。
 元信は立ち上がって号令をかけた。
「これより鳴海城に入る。善照寺砦に鉄砲を撃ちこみ、敵がひるんだ隙をついて突入せよ」
 地鳴りのようなときの声が、おのずと湧き起こった。兵の士気は高い。織田方への内通を画策していると思われる城将たちの拘束も、うまくいくであろう。すべては目論見通りなのだが・・・。元信はまた、空を見上げた。空は先ほどと変わらぬ顔を見せていた。

 これは、子どもだましではないか。
 松平元康から大高城救援の策を立てるよう命じられた本多正信は、ぼろのような農夫の服をまとって、大高城周辺の視察に来ていた。岡崎勢は、今ごろは何往復めかの米運びを続けているだろう。その大量の米をどのように大高城に運び入れるか。主要な道は焼け焦げた荷車の残骸で完全に封鎖されたように見える。だが、ある程度荷を軽くすれば、いかようにも方策はある。砦の敵を釣り出して打撃を与えることすら、できるかもしれない。その程度の思案もできない大高城の者たちが、哀れにすら思えてくる。織田方の警戒も、さほどではないというのに。正信には、大高城の者たちが敗北感にとらわれてしまったことが歯がゆくてならなかった。
 わしはなぜ、大名の家に生まれなかったのだろうか。正信は、もう何度目になるかわからぬ嘆息を、そっとはき出した。わしに任されれば、千人でも万人でも縦横に働かせてみせるものを。
 それこそ子どもじみた考えであることは、正信にはよくわかっていた。わかっていても、どうしても無念の思いが湧いて出てくる。せめて一度だけでも、将としてのおのれの力を存分に試してみたい。
 どんよりと曇っていた空から、しとしとと雨が降り始めた。
 わしは天に笑われているのか。妙な気持ちを抱きながら、正信はその場を立ち去った。
 後になって正信は、この時に立ち去ったおのれの増長と迂闊さに歯噛みすることになる。

「騎馬のみの部隊など聞いたことがない」「従者を連れずに行くなど、御免こうむる」「われらは野武士や野盗ではない」さまざまな異論の声をどうにか抑えて、前野長康は百五十騎の隊を編成した。残った兵を佐々隼人正の弟、成政と長康の兄に預け、長康の隊は小六の案内で蜂須賀党の集結地に向かって北上している。
「あの山です」小六は目の前の小山を指差した。「以前は山賊が山塞として使っていたのですが、譲り受けました」やがて山塞が見えてきた。山塞の規模は意外と大きく、高い柵をめぐらしてある。見張りの者からの報告を受けたのか、長康の隊が近づく前に、正面の門がゆっくりと開いていった。一人の若者が門のまんなかに立っている。
「出迎えご苦労」小六がにこやかに声をかけると、若者も笑みを返した。
「稲田大炊介にござります。お見知りおきを」
 若者は長康にうれしそうにあいさつした。蜂須賀正勝と同じく、童に付けてもらった名である。その名がとても気に入っているらしい。大炊介の嬉々とした顔を見て、長康は蜂須賀党の士気の高さに仰天した。とてもこれから決死の作戦を行なうようには見えない陽気が、山塞に満ちていた。
 兵たちと馬を休ませ、長康は広間に入った。すでに蜂須賀党の主だった者たちが打合せをしているようだ。
 上座にいた小六は、長康を見て席を立ち、みずから長康を招き入れて上座に座らせた。
「作戦をご説明いたしましょう」小六が地図を広げた。長康も持参してきた地図を広げ、照らし合わせてみる。
「これらの点が今川方の蔵です」
「これらすべてがですか?」長康が驚きの声を上げる。長康の持参してきた地図に記されている蔵の、三倍近くの数の点が、小六の地図には記されてあった。
「左様です。今川方は三河にかなりの数の隠し蔵を用意しておりましてな」
「隠し蔵ですか・・・」
 長康は黙り込んだ。なんという情報収集力。織田家で情報収集も担当している長康は、強い衝撃を受けた。小六は長康の様子にはかまわず、先へ進んだ。
「われらは五隊に分かれて北から攻め込みます。前野殿の隊も五つに分かれて付いて来て下され」
「主にどのようなことをいたしましょう」長康は完全に、蜂須賀党の勢いに飲まれてしまっていた。
「戦闘は引き受けます故、蔵という蔵に油をまき、火を付けていただきたい」
「火を付ける間、敵がやってきたらどうなさる」
「矢いくさにて敵の足を止めます。放火が終わり次第、合図をいただければ、すぐさまわれらも逃げます」
「ふむ」
「各隊はそれぞれこのように南下していきます」小六は五つの線をなぞってみせた。
「すると集結地は南のこのあたりでしょうか」長康が地図上の一点を指し示すと、小六は首を振った。
「敵にそのように思わせておいて、われらは間道を伝って北上し、岡崎城から少し離れたところにある馬場で集結します」
「岡崎ですと?」
「敵の中心地ですが、おそらくは皆、出払っていることでしょう。岡崎で馬を乗り換え、休息を取った後、あらためて間道を南下。残っている蔵に放火しながら北上し、岡崎で元の馬に乗り換え、夜陰にまぎれてここまで逃げる。というてはずになっております」
 大胆ではあるが、確かにうまくいく見込みは高そうに思える。敵は思いも寄らぬこちらの動きにほんろうされ、疲れ果ててしまうであろう。それにしても、この作戦はいかなる知恵者が立てたのだろう。長康はあらためて舌を巻いた。
「われらの頭から指示があり次第出発し、天候を見て決行します。質問はございますか」
「要は、蜂須賀党の後ろに付いて行き、蔵があれば火をつければよいのですな。わかりもうした。今後一切、小六殿の下知に従います故、よろしくお願いいたす」
 長康が勢いよく頭を下げると、その気に飲まれたように、一座の者全員があわてて平伏した。
 この者たちの策ではない。その様子から、長康は確信した。蜂須賀党の頭とは、いかなる者なのであろう。長康は底知れぬ不気味さを感じた。

 蜂須賀党の頭は、この数日、墨俣でじりじりと「その時」を待っていた。そのしらせは、ついに来た。
「岡部元信、鳴海城に入りました」
「岡崎勢は何をしている」童は少しほっとしたような口調でたずねた。
「米の積み込みを終え、本日、沓掛城に出発しました」
「道案内の者たちを呼べ。蜂須賀党、出撃だ」
「はっ!」

(二十一、襲撃 了)



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