「美濃から来た童」
作/久住様



二十、波紋


 その晩も、清洲城では織田の重臣たちの会議が続いていた。国境で敵を迎え撃つ、籠城して敵が引くのを待つ、先手を取って三河へ攻め込む、様々な意見が出てくるが、実際にみずから戦備を整えている者はほとんどいない。すべて口先だけの意見である。
 その会議の席で、柴田勝家は目をつむり黙然と坐していた。すでに今川方から相当な金が、この場にいる者たちに流れているらしい。誓紙を書いた者すらいるという噂もある。この者たちは、主家を裏切った後ろめたさを隠すために、勇ましい意見を述べているのだろうか。そんなことばかり考えているおのれにいたたまれなくなって、勝家は目を開いた。向かいにいる丹羽長秀が、さびしそうに軽く会釈をする。こんな会議の場に出ているのも、何か策はないか考えあぐねてのことなのだが、どうやら長秀も同じらしい。無理を通して反対を押し切り、節を全うして死ぬために援兵に向かった飯尾近江守の方が、賢かったのかもしれぬ。それにしても。勝家は今日も空席の上座をじっと見つめた。誰が味方かわからぬというのに、殿には何か策がおありなのだろうか。

 信長は前野長康の報告を受けている。
「岡崎勢二千、大量の兵糧米を運びながら沓掛城に向かいました」
 長康は勢い込んで話すが、信長は気乗りしなさそうだ。
 敵の兵糧を叩く策の機先を制せられたわけだが、信長はさして意外とも思わなかった。敵方にも知恵者はいるのだ。大軍を相手に逆転するには物資の集積地を叩くのが一番の早道であることは、誰にでも考え付く。先手を打って物資を安全なところに運ぶのは当然のことだろう。
「殿?」
「何か」
「敵の最強部隊がろくな武器も持たずに荷運びをしているのです。好機ではございませんか」
「囮に決まっておる。それより、岡崎勢が動いたのだ。かねての手はず通りにいたせ」
「三河の米は沓掛に移されておりますが」
「一度で運べる量ではなかろう。敵にわが狙いが読まれているのなら、安心させてやるに限る。岡崎勢が沓掛で休む頃合を見計らい、実行に移せ。準備はできておろうな」
「はい」
「先日のあの野武士から何か言ってくるかもしれぬ。そのときには協力してことにあたれ」
「あの者たちをお信じになるのですか」
「わが重臣どもよりも、よほど頼りになるであろうよ」
 そう言って信長は苦笑とも嘲笑とも取れそうな笑みを浮かべた。

 三河から責任者自身が急使として童の元にやってきた。
「岡崎勢が荷運びをしていると?」
「はい。いかに金がないと申せ、松平元康の吝嗇にもほどがありますな」
 童はしばし考え込んで、言った。
「他に部隊の動きはないか」
「荷駄の列から一里ほど後ろに、岡部元信の手勢五百が進んでおりました。警護にしては間が離れすぎておりますが」
 荷運びばかりか囮もさせられるとは、岡崎勢も気の毒に。だがこれで、動ける。
「馬場の準備は?」
「ととのっております」
「ご苦労だった。いよいよ実行なので、手抜かりのないように。あと、道案内として乗馬の訓練をしていた者たちもここによこせ。他のことは手はずどおりだ。それから小六殿をここへ」
「はい」
 小六は息を切らせながらやってきた。
「いよいよだそうですな」
 さっきまで訓練をしていたのであろうが、その上気した顔はまるで少年のようだ。
「岡崎勢が沓掛で休息に入る頃合をみて、仕掛けます。ただ、その前に清洲に向かって下さい」
「あの者と共に動くのですか」
 小六は少し嫌そうな表情をした。
「おそらく前野長康と共同で動くことになりましょう」
「よくそんなことがおわかりですな」
「今の信長の配下で、岡崎勢の動きをつかんで身軽に動くことができ、なお信用のおける将は彼ぐらいでしょう」
「前野殿ならば、足手まといにはなりますまい」
「足手まといになるようであれば、敵前に放り出してきてもかまいません。とにかく敵に追いつかれぬことが最優先です」
「承知いたした。存分に働いて参ります。吉報をお待ち下され」
「くれぐれも気を付けてください。進む先を読まれ、先回りされることのないように。それと、出撃の時には道案内の者たちを送るので、それまでは自重して下さい」
「委細承知!」
 小六が肩をいからせて出て行くのを、童は楽しそうに見送った。
 さむらいとして戦うということが、こんなにも士気を高くするとは、童には意外なことだった。
 後は、死なぬように戦ってもらえれば、なんとかなるであろう。もう、小六殿におまかせすればよいのだ。
 いまだに不安は残っていたが、できることはすべてした。その気持ちが童の心を少し落ち着かせていた。読み切るべき「その時」も、近づくにつれ、みえてきたような気がする。
 童はふっと息をはき、肩の力を抜いた。最近は夢の中にまで策が出てきて、寝たような気がしなかったが、今夜は眠れるかもしれない。

 本多正信が入っていくと、松平元康は見つめていた地図から顔を上げた。
「荷運びなどと、似合わぬことをさせてすまんな、弥八郎」
 正信は無言で平伏した。
 本多弥八郎正信、親しい者以外には、平素口数の少ない男である。親しい仲であっても、彼の笑顔を見た者は少ない。特に元康の前では、うながされない限り、めったに口を開くことはない。そのような正信が、鷹匠として、どうしてああも見事に鷹を仕込めるのか、誰もが不思議がったが、元康にはなんとなくわかっていた。
 この者は鷹だ。孤高の高みにいる男だ。
 だからこそ困難な役をまかせてみたくなった。
「実は、大高城に兵糧を入れる策を、おぬしに立ててもらいたい」
元康が単刀直入に切り出すと、正信は目を見開いて元康の顔を見つめ、ややあって言った。
「思案はございますが、実地に確かめねばなりません。十日あまり時間をいただきたい」
「すべてまかせる。金子など必要なものがあれば、彦右衛門に申し出るがよい」
 正信は再び平伏し、無言で部屋を出ていった。
 あの者が、思案があると言う以上、まかせておけばよい。
 本多正信という男には、そんな安心感を抱かせる何かがあった。
 元康は再び地図を見つめながら、沓掛城にすべての兵糧を運び込むまでの計画を再度練り直し始めた。

(二十、波紋 了)



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