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「美濃から来た童」
作/久住様
十九、岡崎勢出陣
永禄三年四月十九日。
どこまでも突き抜けるような青空の下、延々と続く荷車の列がゆっくりと西へ進んでいる。
どの荷車にも米俵がずっしりと積まれ、荷車のきしむ音が幾重にも重なり合って聞こえてくる。
東海道とはいえ、平坦な道ばかりではない。上り下りがあるたびに、荷車の進む速さはさらにゆっくりになる。東海道ではよくあることだった。特に大きないくさの前には、何度も繰り返される光景である。
その光景に異様さを添えているのは、荷車を運んでいる者たちが、皆具足を身に付けているということだった。各人の武具は別の荷駄で運んでいるのだが、具足を着けたまま荷車を押すのは、相当に体力を消耗する。しかし、汗まみれになって荷車を押しながらも、彼らの顔は一様に明るい。
いくさは、良い。そう彦右衛門は思った。いくら人足のような真似をしていても、いくさになれば皆、武士として具足をまとうことができ、いくさ場で武士として死ぬこともできる。田畑で泥まみれになっているおのれのみじめな姿は、今この時には微塵もない。彦右衛門は元康の命を受けて、重い荷物に苦しんでいる者がいないか確かめに、皆の顔を見て回っているのだが、すがすがしい笑顔ばかりが目に入ってくる。欣求浄土、厭離穢土。その言葉を思い出した彦右衛門は、口の中で「南無阿弥陀仏」と唱えた。
「鳥居様」
荷車を押していた若者が彦右衛門に気づいて声を掛けてきた。見れば、盗み食いを彦右衛門に止められた小姓である。
「ああ、あの時の」
「あの恥は忘れませぬ。わが榊原の家名にかけて、命に代えても恥をそそいでみせます」
「わかった。その言葉、確かに聞いた」
「手柄を上げたら報告にうかがいます」
「楽しみにしている」
彦右衛門のうれしそうな顔を見て、若者もまだあどけなさの残る笑みを、顔いっぱいに浮かべた。
そして、先へ行く彦右衛門の後姿を、彼の笑顔がずっと見送っていた。
「えい!」
気合のこもる大声が、あたりにこだました。
何事かと急行した彦右衛門の前に、なじみの姿が現われた。暗い表情をしているが、これはいつものことだ。
「弥八郎殿、何事ですか」
尋ねる彦右衛門を見て、本多弥八郎正信はもうしわけなさそうな顔をした。
「騒がせてすまぬ。この者はわが同族の本多平八郎忠勝と申しての。初陣で気が立っておるのだ。まだ子どもゆえ、大目に見てやってくだされ」
弥八郎の隣にいる筋骨隆々とした若者が、その本多平八郎らしい。悪びれもせず、荷車を押しながら口を結んでじっと彦右衛門を見つめている。
「とても初陣の歳には見えませぬが。おぬし、年はいくつになる」
平八郎は平然と答えた。
「十三になります」
「なんと頼もしい」思わず感嘆の声を上げた彦右衛門に、弥八郎は言った。
「まだまだ粗忽者でしてな。今は猪突しかできぬ。何かの役に立てれば良いのだが」
「何をおっしゃる。いずれ必ずや殿のお役に立つでしょう」
彦右衛門の言葉に平八郎は無言でうなずき、前を向いて、また大声で気合を入れながら、荷車を押していった。
城も土地もなくても、我らの気概がある限り、若い芽が育っていく。彦右衛門は感動めいた気持ちを胸中に抱きながら、思った。だが、いつまでもこのままいられるはずもない。殿はどのようにお考えなのだろう。今川家中における、元康のあまりにも無力な立場を考えながら、彦右衛門はあらためて思った。
いつまでもこのままでいいはずがない。
元康は荷車の列の後ろで、松平家の重臣と兵たちの様子を眺めていた。
「人足ぐらい雇えばよろしいのではありませんか」元康が駿府にいる間、岡崎勢を取りし切ってきた酒井忠次が、みかねたように元康に進言した。「このままでは、兵たちの疲労が激しすぎます」
「余分の金は全て、鉄砲よけの盾の方に回してある」もう一人の家老、石川数正が冷静に答えた。
いつものことだが、元康は家臣同士の話し合いがすむまで口を開かない。
「それでも全員の分は作れないという話ではなかったか」数正は立派に蓄えたひげをいじりながら、忠次に問い返した。
「そうだ。あの金では千が限度。それもこの十日の内に間に合うのは二百がせいぜい。とても二千を越える全員の分は作れぬ」
「それをわかっているおぬしが、なぜ人足を雇えなどと言うのか」
「もうよい、数正」元康が割って入った。
「兵たちを気の毒に思う気持ちは、みな同じであろう」
忠次は悔しそうに無言で下を向いた。その悔しさの対象が石川数正でないことは、誰の目にも明らかだった。だが、たとえ殺されても、そのことを口にすることはできなかった。駿河勢の理不尽に対する恨みを口にしないことが、岡崎勢の全員にとって、暗黙の約束事になっていた。
「時に忠次、盾の効果はいかほどであろうか」元康は話題を変えた。
「人里はなれた山奥で試しておりますので、じかに見てはおりませんが、報告によれば、十中六ぐらいは、かわせるとのことです。距離を離せば万全かと」
「さようか。短い期間でよくそこまでやってくれた。礼を申すぞ」
「ありがたき幸せ」
唇を噛み締めている忠次を見ながら、元康は十日ほど前のことを思い出していた。
岡崎に着く早々、元康は岡部元信に呼び出された。やってきた元康を見た元信は、あいさつもそこそこに地図を渡し、命じた。
「この地図にある米蔵の米を、全て沓掛城に運び、指示を待て。この米は、指示があり次第、大高城に運び入れよ。以上だ。さがってよい」
そう言うなり元信は、元康に一言も発する隙を与えず、すぐに退席した。
一人残された元康は、矢作川流域に点在する地図上の米蔵の数の多さに頭を抱えていた。
どうにか間に合った。ゆっくりと進んでいく荷車の列を眺めながら、元康は忠次とは異なった感慨にふけっていた。出発前に駿府で半蔵からもらった百両がありがたかった。もしもあの金がなければ、武具を売ってでも荷車を用意しなければならなかっただろう。急場をしのげてよかった。
だが、本当の問題はこれからだ。いかにして大高城に兵糧を入れるか。半蔵からの報告では、織田方は容易ならぬ封鎖態勢を敷いているらしい。これを破るには奇策が必要であろうが、誰の知恵を借りればよいか。
「鳥居彦右衛門元忠、戻りました」元康が考えにふけっているうちに、彦右衛門が駆け戻ってきた。
「どうであった」
「皆、意気軒昂にございます」彦右衛門の明るい顔を見ていて、元康の脳裏にふと、いつも暗い顔をしている男の顔が浮かんできた。
「彦右衛門、弥八郎に、今晩わしの元へ来るよう伝えてくれ」
「かしこまりました。他に何か申し伝えることは」
「ない。あの者ならば、そう聞けばわかるだろう」
「さようでございましょうな、ではごめん」
彦右衛門はろくに休みもしないで、また走り出した。
この者たちに、何かしてやれることがあればよいのだが。
元康は、もう何度思ったか知れない悲しい思いを、あらためて味わっていた。
尾張を征し、美濃を我が物にしたとき、今川義元はわれらを必要とするであろうか。
元康は解決策の見つからない問いかけを、おのれの胸中深くに繰り返していた。
(十九、岡崎勢出陣 了)