-
「美濃から来た童」
作/久住様
十八、鳥居彦右衛門
下戸ならば、いかにふるまい酒とはいえ、こうまで飲むこともなかろうに。
彦右衛門は、相変わらず、腹の中で苦々しく思っていた。
いつも来る広間詰の武士に付き添われてきた鉄砲頭は、ろれつの回らない口調で愚痴をこぼし始めていた。
「やれ最新の兵器と持ち上げながら、お屋形様も御重臣の方々も、御自身では鉄砲を撃とうとはなさらぬ。そんなことで何がわかるのじゃ。そんなことだから、わしが勘定方に、『鉄砲というのは、一つの首も取らぬうちから、金のかかるものですな』などとぐちぐち言われ続けるのだ。そうであろう」
付き添いの武士は迷惑そうな顔で、無言でうなずいた。
「まったくご苦労の絶えないことでございますな」松平元康はにこやかな顔をして、甲斐甲斐しく二人を接待している。
「そもそも来月出陣ゆえ、鉄砲隊の訓練を急がせろなどと、めちゃくちゃな命令をしてくるのも、鉄砲を撃ったことがないからじゃ。五月に鉄砲隊を出陣させる阿呆がどこにあるか」
「口が過ぎるぞ」付き添いの武士がこらえかねたように強い口調で愚痴をさえぎった。
「ふん、もうよい。誰もわしの言うことなど聞いてはくれぬ」そう言って鉄砲頭は、濁り酒のいっぱいに入った盃を一気にあおった。
「まあそうおっしゃらずに」元康がなみなみと酒を注ぐ。
「御ふるまいはかたじけないが、これ以上飲ませては」付き添いの武士は困った顔を元康に向けた。
「ご心配なく。これなる鳥居彦右衛門元忠が、お屋敷まで送り届けますので」
突然自分の名を出された彦右衛門は、思わず平伏した。
「うるさい!わかりもせんのに、わしに指図をするな!」鉄砲頭が大声を上げて、また一気に酒を飲み干した。
「そうか、それならばお任せする。実は用がござってな」
「これは気づきませなんだ。お気をつけてお帰り下さいませ。これへ」
元康は小姓に合図し、小姓が包みを持ってきた。
「これはご尽力いただきましたささやかなお礼にございます。どうかお納め下さい」
「いや、これは、お心遣いいたみいる。また用があれば、遠慮のう言って下され」
包みをふところに入れて、付き添いの武士はそそくさと帰って行った。
元康は酒を注ぎながら、穏やかに話しかけた。
「実は、お願いがございます。どうかお聞き届けいただけませんでしょうか」
「うん?なんじゃ」居眠りをしていた鉄砲頭は目を開け、また盃をあおった。
「実は、こたびの出陣に際し、どうしてもたまぐすりが必要なのです。士卒の命がかかっております。どうかお譲り願いたいのです」
そう言って元康はまた、酒をなみなみと注いだ。
「横流しか?横流しなどはせんぞ。だが、貸し出しならしてやってもいいな」
と酒を飲み干すと、鉄砲頭は鍵束を差し出した。
「これが煙硝蔵と武器庫の鍵じゃ。使った分は、後で返してくれればよい」
「ありがとうございます。このご恩は忘れませぬ」
元康がまたいっぱいにした盃を飲み干すと、鉄砲頭はいびきをかきはじめた。
「彦右衛門、目がさめたら屋敷まで送り届けよ。借り入れの証文を書いて渡すことと、みやげを忘れぬようにな」元康は真顔に戻り、命じた。
「かしこまりました」彦右衛門は平伏した。
元康は別室に移った。
「待たせたな、半蔵。これが鍵だ」
いつのまにか部屋の隅に控えていた半蔵に、元康は声をかけた。
「鍵などなくても入れますが」
「それではおぬしが疑われる。二主に仕えるとは、わしよりも気苦労は多かろう」
「お心遣いかたじけのうございます」
「鉄砲三丁とたまぐすり三百発分の借り入れ証文は鉄砲頭に渡してある。正気に戻れば、さぞ青くなるであろう」
「確かに。酒の上での失敗が多い男ですからな。ところで、岡崎で武田上野介の不正な蓄財を岡部元信が没収いたしました。その七百両のうち、百両を持参いたしましたので、お納め下さい」
半蔵は包みを取り出して元康の前に置いた。
「いつもながらすまんな。くどいようだが、おぬしが疑われるようなことはしてくれるなよ」
「ぬかりはございませぬ。それと、山田新右衛門が駿府に戻ります。馬回りの固めをするとのこと」
「それはありがたい」元康は笑みを浮かべた。
「ならば三河で動いても問題はなかろう。この図面通りの物を作らせ、三丁の鉄砲で試させてくれ」
元康は図面を広げて見せた。
「これは、よくできておりますな」
「伊奈忠家はこのようなことが得意でな。竹束を組み合わせた鉄砲よけの盾を三通り考えた。借り入れた鉄砲で効果を試し、最も役に立つ物を大量に作らせたい」
「では、酒井様にそのようにお伝えいたします」
「早急に頼む。それと、鍵束は鳥居彦右衛門に渡してくれ」
「かしこまりました」
元康に岡崎へ出発するよう命が下ったのは、三日後のことだった。
訓練の合間に珍しく小六が童を訪ねてきた。最近では童の思案の邪魔をせぬよう気遣って、童を一人にしておくことが多かったのだが。
「実は、御頭にお願いがあって参りました」
「何でしょう」
「出陣に際し、皆をさむらいにしてやりたいと思いまして、旗印をお考えいただけないかとお願いにあがりました。あと、よろしければ名も付けていただけないでしょうか」
「名を、ですか?」
「わしが名乗りをあげられれば、皆喜ぶことでしょう。気分だけでもさむらいになれれば、死んでも悔いはないと申す者もおりますので」
「わかりました。どのような印がいいでしょう」
「吉相を表わす印をお願いしたいのですが」
「これではどうですか」
童は円を書き、中に卍を書き入れて、小六に見せた。
「万徳の集まるところを意味する紋様です」
「意味はわかりませぬが、なにやらまじないのような印ですな。ご加護がありそうに思えます。これにいたします」
「名の方ですが、蜂須賀党の名の由来は」
「先祖が尾張の蜂須賀郷に住んでいたと父から聞きました。尾張のどのあたりやら、見当もつきませぬが」
「では、蜂須賀を姓としましょう。どのような名がよいでしょうね」
「勝つという文字は、できれば入れてほしいのですが」
「ならば正勝ではいかがですか。どうせ勝つなら正しく勝った方が気持ちがよいでしょう」
「蜂須賀小六正勝ですか。何やら大名にでもなった気分ですな。これで皆、さむらいとして戦えましょう」
小六は喜んで退出していった。
さむらいとは、旗印と名のことか。そう考えて童は少し可笑しくなってきた。ならば皆、何のために殺し合いを続けているのだろう。
駿府からの急使が飛び込んできたとき、童はそんなことを考えていた。
「松平元康、手勢を引き連れ、岡崎に向かいました」
「ご苦労」
いよいよだ。信長は動くだろうか。いずれにせよ、出陣は間近に迫っていた。
(十八、鳥居彦右衛門 了)